小説 | ナノ





音也:カレー


「あ、カレーの匂い」


早乙女学園に入学して約1ヶ月、新しい生活にも慣れてきて心の余裕が出来はじめた頃。食堂から帰って来て普段授業を受けている場所、カレーの匂いなどするはずのない其処で香ったそれに、思わず声に出して反応してしまう。好物と云うこともあり何となく顔をほころばせつつ教室内を見渡すもそれらしい様子はなくて首を傾げた。

「おかしいなー…」
「なにが?」
「え、わっ!友千香、と七海」

にゅっ、と云う効果音が聞こえてきそうに現れたふたりは各々に不思議そうな顔をして首を傾げた。
なにが、と問われ説明するほどのことではない気がしつつも、カレーの匂いがしたからなんでかなって思っただけ、と笑いながら答える。すると、ああ成る程と興味なさげに頷く友千香の隣で七海が小さく手を叩いた。

「名前ちゃんが、カレーパンを食べていたのできっとその匂いだと思います!」
「そだっけ?あんたよく見てるねー」
「とても美味しそうに食べていたので、カレーパンが好きなんですかって少しお話したんです」
「へえー」

女子同士の会話が交わされるあいだ、俺は名前ちゃんーー名字について考えていた。
彼女とは特別仲が良いわけでも悪いわけでもなく、まさにクラスメイトのうちのひとりと云う言葉がぴったり当てはまる。友達を作るのは得意だと自負しているし、同じアイドルコースの生徒ならば実習を通じてそれなりに親しくなっていけるものの、作曲家コースには未だクラスメイトの枠を越えられていない生徒が何人かいた。名字もそのひとりである。

「ねえ七海、それで名字はカレーパン好きだったの?」
「はい!しかも凄いんですよ、そのカレーパン、名前ちゃんの手作りで」
「ええ!」
「ほー。あの子料理出来るんだ」

そのカレーパンどこのパン屋さん?なんて話し掛けてみようか、とぼんやり考えていたものだから手作りと聞いて余計に驚く。
とりあえず七海の話を聞いて分かったのは、名字がいいやつだってこと。だってパン生地に合うカレーの追求をし過ぎて体にカレーの匂いが染み付いてしまった経験があるなんて、ぜったい悪いやつなわけがないだろう。そもそもカレー(パンだけど)好きに悪いやつはいない、と思ってる。もしかしたら作ってもらえるかも…なんて…いやいや。

名字と仲良くなりたい。

そのときそう強く思ったのは、今思えばカレーと云うワードに惹かれたからじゃない気がする。

じゃあ何故かと聞かれたら、上手くは云えないけれど。







「ね、ねえ!」

次の日の昼休み、早速名字の席へ向かってみるとやっぱりカレーパンを頬張っていた。ただよう香りと鮮やかな焼き色を見ると手作りだと云うことに再度驚く。
口に食べ物が入っているからだろう、名字は返事のかわりに首を傾げた。

「ああ、えっと食事中にごめんね。あのさ、これ、君の手作りってホント?」
「うん」
「えっとえっと、でさ、ひとくちもらってもいい?」
「うん」
「だよね、いきなりごめん…っていいの!?マジで!?」

もぐもぐと動かしていた口を止めごくんと飲み込んでから名字は手に持っていたカレーパンを此方へ差し出した。

「どうぞ」
「え、でも、これだと」
「?」
「ええと…うん、いただきます」

間接キスじゃ、と気にしているのは自分だけのようで逆に恥ずかしくなったので遠慮なく頂くことにする。
かり、と云う音通りの香ばしい表面とふんわりした生地。肝であるカレーも試行錯誤の末たどり着いたものなのだろう、辛味といい水分量といい申し分ない。

「ウマっ…!」

ちゃんとした感想を云ってそこから話を繋げようと思っていたけれど、想像以上の美味しさに思わず出たのはそんな単純な言葉。
しかし、しまった、と思ったのは一瞬だけですぐに何も考えられなくなってしまった。

(う、わ)

名字が浮かべていたのは、当然でしょう、とでも云うような自信に溢れた笑顔。かと思えば、至極嬉しそうに、照れくさそうにも笑う。

その感情豊かな表情を見て、このカレーパン名字みたいだ、と思った。

カリカリだけどふわふわで、ピリッとするけどまろやかで。名字と仲良くなれたら、彼女の別の面をもっと見られるに違いない。

「あの、名字!」
「なに?」
「普通のカレーも、得意?」
「え?ああ、うん、カレーは全般的に色々手加えてるけど」
「!あの俺、カレーすっげえ好きなんだ、それで、君のカレーパン凄い美味かったし、ええと、だから、」

そのときの俺はとにかく彼女との繋がりが欲しくて、考えると云うことが出来なかったんだと思う。

「俺に、毎日カレーを作って下さい!」

自分の云ったことの重大さに気付いたのはポカンと口を開けたままの名字と数秒見つめ合ってからだった。
馬鹿じゃないのか、こんな告白…いやそれどころかプロポーズまがいなことを云うなんて。「なんちゃって」とごまかそうにも既におかしな間があいてしまっている。
どうしよう、これは、1000パーセント変なやつだと思われた。

「ごめん、ちがくて、えっと」
「いいよ」
「……へ?」

今度は俺が目を丸くした。
何を云ってるの、と冷たい眼差しを向けられるかと思いきや彼女の表情は先程までと変わらずやわらかい。きょとんとしたままでいる俺に名字はおかしそうに笑った。

「分かってるよ、言葉の綾でしょう」
「……」
「歌を聞いてから思ってたけど、本当に真っ直ぐな人だね、一十木くんは」

あ、また、あたらしいカオ。

誤解が解けて嬉しいはずなのに、少し残念がっている自分もいる。そりゃあ流石に、俺だってそんなつもりではなかったのだけど。

「とりあえず、明日作ってこようか」
「お、おう!ありがとーっ!」



正直、打ち解けられるそれなりの自信はあった。人と関わるのは得意だったし、云い方は悪いけど何より女の子と仲良くなれなかったことはほとんどないから。
それなのにこうして繋がりをもてたことが嬉しくて仕方がないのはどうしてだろう。美味しいカレーが貰えるから?そんなの、口実だ。


俺は、完全に名字に惹かれている。


だけど彼女をどうこうしたいとか彼女とどうなりたいとか、そんなんじゃなくて、ただ彼女をもっと知りたい。彼女の表情を全部知りたい。もっときちんと名字の全てを知ったうえで、俺は。

「名前」
「ん?…ん?」
「名前も俺のこと名前で呼ばなきゃダメだからね」
「え!?」
「絶対な!」

ーー彼女を好きだと、確信しよう。


新緑のなかで芽吹く、色







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