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 九月に入っても蝉の声がうるさい日だった。

「傑、髪長くなったね」
 名前は隣に座る夏油の毛先を指先で掬った。風呂を終えておろされた髪は背中を覆っている。初めて会った時は首にかかる程度だったはずだ。
「ああ、大分伸びたよ」
「最近会ってなかったから気づかなかったな。傑と。悟も、硝子とも」
 同期と顔を合わせていない理由は、ただ単に任務が忙しいからではなかった。親しかった後輩の死は、人間の終わりない悪意に消耗していた名前の心を深く傷つけた。名前は高専を一時休学し、現在はアパートの一室でただ日々を過ごしている。
 名前は缶チューハイを床に置き、怠惰な動きで膝を抱えた。夕刻を過ぎても暑さは続き、クーラーを稼働させ続けた部屋はよく冷えている。寒いくらいに。
「ごめん、俺だけ休んで。みんな忙しいのに、俺がっ、弱くて……」
 夏油の方を見れず、名前は俯いた。衣ずれの音がし、横に座っている夏油が名前に体重を乗せてくる。そのまま名前の体は傾き、膝を抱えたまま床に転がった。名前を床に転がした張本人を見上げると、口元に薄く笑みを浮かべていた。顔のすぐ横に突かれた夏油の手と解かれた髪が檻のようで、被食者になった気分だ。
「……なに」
「はは」
「……傑、ごめん。愚痴言いたかったわけじゃないのに……」
 夏油が名前の腕を掴んで引っ張り上げる。その勢いのまま、名前は夏油の肩に背中を預けた。半分ほど飲んだ缶チューハイは夏油が事前に避けてくれたようだ。
「いいよ、聞くから。名前の話が聞きたい」
 入学以降一度も縮まらなかった身長差のせいで、夏油の声が上から降ってくる。低い声が少しくすぐったい。
「……俺が弱いから、助けられない。こんなことしてる暇があったら、少しでも祓除しなきゃいけない、のに。」
「うん」
「嫌になる」
 名前がそう呟くと、夏油の腕が名前の腹に回された。普段から距離が近いとは思っていたが、今日は随分だ。嫌ではないけれど。名前が身じろぎすると、腕はきつく巻きついた。
「すぐ、る?」
「術師以外がいなくなればいいと思わないか?」
「……呪いがなくなるってこと?」
「ああ」
背後から抱きすくめられた名前は、夏油の顔を見ようとするが、おろされた髪に遮られて表情は伺えなかった。
「……俺の、存在意義がなくなるから。呪いを祓えないなら。役に、立てないから」
「そうかい」
「うん」
夏油の腕の力が強まった。名前は振り払うことはせず、そのままにしている。夏油の望んでいた答えだったかは分からない。夏油が名前に望んでいた答えがあったかも分からない。
 しばらく置いて、夏油が話しだした。泣きそうな声に聞こえたのは気のせいだろうか。
「……そんなことないよ、お前は。」
「そっか」
「そうだよ」
「……う、ン」
 重ねた唇からはアルコールの苦味がした。そこから先はよく覚えていない。

 弱められた冷房の中起きると、夏油はいなかった。ごみは捨ててくれたようで、残された未開封の水のボトルだけが彼の痕跡だ。
 携帯電話には五条からの不在通知とショートメッセージが届いていたが、内容を確認する前に窓を開ける。蝉は鳴いていなかった。よく晴れた日だった。
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