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『今日部屋の掃除一式お願い』

 短いショートメッセージは今に始まったことじゃないし、毎度唐突だった。スケジュールの重複がないことを確認し、一郎は『了解』と一言だけ返す。弟たちに声をかけ、財布だけパンツの尻ポケットに突っ込んで家を出た。名前の家に行くのは身一つでいい。一郎が買ってやった掃除用具は部屋の片隅で眠っているはずだ。

 名前の家まではそう遠くない。一郎は一時間とかからずに古びたアパートの一室のチャイムを鳴らしていた。スウェット上下を着た青年が出てくる。名前だ。
「おはよ、一郎」
「もう三時だぞ」
 欠伸をしながら招き入れた名前に一郎は苦笑しつつ、部屋を見渡し仕事の算段をつけた。名前の部屋は物が少ないため、清掃も簡単だ。衣服を拾い洗濯を回し、床を拭けばひと段落する。前回徹底的に磨いた流しの汚れ具合を確認していた一郎に、名前は声をかけた。
「お疲れ様、ありがと」
「今回わりと綺麗にしてるじゃねぇか」
 相変わらず自炊している様子はない。萎びたレモンの皮が落ちていただけだ。それをゴミ袋に投げ捨てて一つの曇りもなかった流しを後にし、一郎はベッドを軋ませながら名前の横に座った。スプリングの弱まったマットレスは二人の体重で沈み、傾いた体のまま二人の肩が寄り添う。一郎は冷たい肩だと思った。
「うん、あんま家帰ってなかったし」
「忙しいのか、お前の仕事は」
 名前の仕事。一郎はそう口にするとき、一瞬ためらった。


 名前は一郎の同級生で、一郎としては唯一無二の親友だと思っていた。名前が三年生の夏に学校を中退して反社会的勢力に与するまでは。そのまま音信不通だったが、ある日突然一郎へショートメッセージが送られてきた。
『名前だけど、万屋ヤマダって部屋の掃除もやってる?』
 名前の依頼はその一回きりでは終わらず、月に一度程のペースで清掃を頼むようになった。一郎としても大して汚れていない狭いアパートの一室の清掃でそこそこの対価を渡されるは悪くなかった。二人のやりとりは今回で何回目だろうか。

「まあそこそこ忙しいかな。……一郎の方が忙しそうだけど」
「まあ、こっちもそこそこってとこだな」

 洗濯機がごろごろと唸りながら回転している。旧式の洗濯機はどこがおかしくなっているのか、脱水に時間がかかりすぎていた。
 名前は触れ合っていた肩から一郎にもたれかかり、そのまま倒れてベッドに横たわった。
「一郎、しよ」
「はぁ?」
「抱いてくれない?」
「なんで」
 名前はそれきり黙った。一郎が振り向くと、名前は左腕で顔を覆っていた。彷徨った右手が一郎のパーカーの裾を掴む。
「だめ?依頼するから。」
「どうしたんだよ、お前。」
「じゃあ仕事じゃなくて、友達として」

 一郎が返す言葉を探していると、洗濯機の唸りが止まった。今度は甲高い音で脱水の完了を教える。
ごめん、なんでもない。呟くようなその言葉とともに、名前は呆気なく裾を掴んでいた手を外した。
 一郎は洗濯機から衣服やタオルを引き摺り出す作業を行うべくベッドをたった。柔軟剤の匂いが狭い部屋を侵略している。
 片手で抱えられる程度の量だ。一郎はカラカラとベランダの戸を開けて、やや傾きかけた日差しの中に立った。一枚のシャツにケチャップのようなシミが残っている。クリーニングか捨てるかだな。そう判別しながら一郎は順序よく干していく。慣れた仕事だ。

 作業が終わった頃にベッドを振り向くと、名前は寝ていた。寝苦しそうな顔を覆っている腕を外してやる。クマがひどい。眉間に寄せられたしわには疲労が滲んでいた。
 苦労しているんだなぁ、こいつも。音にせずに一郎は呟く。鍵はポストにしまい、名前の家を出た。

 それ以来名前からショートメッセージが来ることはなかった。ケチャップのシミが血のあとだったかもしれないと思い至るのは、名前からの全ての連絡が途絶えてからしばらく後のことだった。
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