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日が沈む間際の微妙な時間だと、夜の店はまだ始まっていない。日中の明るさもネオンの蛍光色も無い碧島の繁華街はオレンジ色の光に染まっていて、普段とは別の場所のように見えないこともなかった。
その景色の中に、見覚えのある姿を見つけた。ノイズだ。長い真っ黒な影を足元に踏みつけて佇んでいる。俺を見据えたノイズがどんどんと近づいてきて、俺が裏路地に入る前には無視できない距離まで来てしまっていた。

「……ノイズ、久しぶり」
「ああ」
「じゃあ、俺用事あるから」

できれば顔を合わせたくなかった。顔を見ずに素早くそれだけを言って踵を返そうとした俺をノイズが引き止める。

「……それだけ?」
「え?……えっと、元気だった?」
「そこじゃねえよ。他に、ないわけ?」

ノイズが俺に言わせたいことが分からなかったし、はっきりと言わないノイズにも少し腹が立った。声のトーンが少しあがり、語調がきつくなる。

「なにそれ、言ってくれなきゃわかんないだろ」
「それはこっちの台詞だっての。なんなんだよ、アンタ」
「こっちの台詞って、いっ」

ノイズに手首を強く掴まれ、言葉が途切れる。ノイズの声のトーンが何かを押し殺すように低くなった。

「はっきり言えよ、俺が気持ち悪いから離れたって。ほんと、なんなんだよ!……や、もう。どうでもいいけど」
「ノイズ?」

腕の痛みよりもノイズの表情のほうが気になった。夕陽の映り込んだアップルグリーンの瞳はいつになく冷ややかだ。唇はそれきりもう何もいう気はないように閉ざされている。始めて会った時のような顔だ。
俺は思わず、俺の手首を掴んでいるノイズの手を取る。

「ノイズ、ごめん」
「なに謝ってんの」
「ごめん、ノイズ……」
「別にいいし。離せよ」

それでも離さない俺の腕をノイズは無理やり振り払い、そのまま早足で人ごみを抜けて行った。俺もすぐに後を追うが、人の増した繁華街を上手に抜けることができず、ノイズを見失ってしまった。



ノイズのマンションに着く頃には、傾いていた日はすっかり姿を隠していた。ここにいるという確信は無かったが、だからといって他の場所も思い浮かばなかった。
コイルをロックにかざす。ロック解除のコイル登録はまだされたままだったことに少し安心した。
小声でノイズに声をかけ、ドアを開ける。廊下を通り過ぎて見えた部屋は、様変わりしている。開けっ放しになっていたカーテンよりも散乱した缶やデリバリーの包装紙に目がいった。スクリーンの数は以前よりも増え、忙しなく電子的なグリーンの光を明滅させている。
ノイズはベッドにうつ伏せになっていた。くぐもった声のまま、水とだけ呟いた。

「なに、水?普通の?」
「なんでもいい。冷蔵庫に入ってる」

ソファの横で立ち止まっていた俺は足元に転がっていた缶を二つ拾って流しに置き、それから冷蔵庫のドアを開けた。俺が以前置いて行った肉や野菜は手をつけられないまま冷蔵庫の奥底に追いやられ、代わりにビールの缶が詰まっていた。部屋中に転がっているものも含めればかなりの量になる。

「ビールしかないんだけど」
「ビールでいい」

手前にあった缶二つを取り出してノイズのもとに戻る。ベッドから上体を起こしていたノイズに缶をわざと放り投げる。片手でキャッチしたノイズは顔をしかめてそれをシーツの上に置いた。

「ちょっと、泡吹くんだけど」

俺は無視してノイズの横に座る。手に持っていたもう一本のプルタブを持ち上げるとノイズに取られ、そのまま飲まれた。ノイズの喉が鳴る。非難の声をあげる前に缶を渡された。かなりの量が減っている。

「ノイズ、飲み過ぎだよ」
「喉乾いてたし。アンタが投げるから」

俺もビールに口をつけた。初めて飲んだ時は慣れなかったドイツビールも、今では美味しく感じる。俺も喉が乾いていたのかかなりの量を飲んで、中身は残り少しだ。缶を膝の間において、それきり無言になった。スクリーンが時折放つ雑音だけが聞こえる。ノイズが缶を再び取り上げ、最後に残ったビールを飲み干す。それをサイドテーブルに置いて、呟くように俺の名前を呼んだ。

「名前」
「……なに」
「……帰って」
「ごめん、嫌だ」

俺はノイズから視線を逸らして窓の外をぼんやり見ながら話し出した。プラチナジェイルが遠くに見えた。ノイズは仰向けに倒れてから大きなため息を吐いた。ベッドの軽い振動が手に伝わる。

「アンタがいると、だめだ」

俺はノイズのその言葉に、胸を刺された気分になった。俺が、ノイズに迷惑をかけている。
ノイズはもともと一人で生きていて、そして一人でも大丈夫だった。そこへ俺が突っ込んでいって、無理矢理そばにいようとした。ノイズからしたらいい迷惑だっただろう。やっとそれに気づいて離れようとしたけれど、少し遅かったみたいだ。臆病な俺はノイズにはっきりと口にされるのが怖かったけれど、そんなのは逃げだ。

「ごめん、ノイズ」
「なんでさっきから謝ってんの」

ノイズの言葉に、また少し怒りがにじむ。こんな風にさせてるのが俺なんだと思うと、余計辛くなった。

「ごめん。俺、ノイズの邪魔になってた。ノイズの生活に入り込んで、引っ掻き回して、それで……」

声がみっともなく震えた。二度瞬きをする。夜景の光が少し滲んで見えた。

「ノイズに迷惑かけてんのかなって思った。それでノイズから離れた。気づくの遅かったよな。本当ごめん。今も、こうして押しかけて、ノイズのことイラつかせてるし、上手く話せないし。ほんと、もう」

それ以上言葉が出てこなかった。ノイズがため息を吐いたのが聞こえる。もう一度瞬きをしたら、涙がこぼれそうだった。

「……腕、大丈夫?」
「ん?ああ、全然痛くないよ。大丈夫」
「……気持ち悪がられると思った」
「え?」
「アンタに。感覚が無いの、普通に考えて、気持ち悪いだろ」

思わず瞬きをした拍子に涙が落ちた。考えがまとまらなくて、手についた水滴をパンツの膝で拭う。ノイズの言葉を咀嚼して、なんとか返事をする。ノイズにさっきのような、出会った時のような顔をさせたくない。思っていることを全部、伝えたいと思った。

「……別に、気持ち悪くなんてないだろ。全く分からないわけじゃないし、舌には感覚ある。それに、もう手加減っていうか、力加減っていうか……。距離、みたいなの、知ってるし」
「距離?」
「人との間隔っていうか、どのくらいが丁度いいとか……」

ノイズが仰向けに横たわったまま、少し笑った。俺は何と無く手持ち無沙汰に放り投げられていた缶ビールを弄ぶ。

「距離、か……」
「なんだよ」
「アンタが教えてくれた」

俺は目を袖で拭ってからノイズのほうを向いた。ノイズも腕を上げて目元を覆っている。

「そういうの、全部、アンタから教わったから」
「……え?」
「アンタがいて、俺がアップデートされたつーか。アンタが、アンタが俺を変えたんだ。アンタの中に俺がいるっつーか、真っ直ぐ俺を見て、躊躇わないで触れてきて。で、気づいたら俺の中にアンタの場所ができてて……」

ノイズは起き上がった。俺の手から二本目のビールを奪ってプルタブを引く。

「だから、アンタのは大きな勘違い。俺がアンタのこと迷惑に思ってるとか、ありえないから」

そのままビールを一口煽った。ノイズは満足げに大きなため息を吐く。
距離を教えた、なんてノイズは言うけれど、そんな大層なものじゃない。ノイズの中にずかずかと踏み込んで、痛かったら痛い、苦しかったら苦しいと文句を言っただけだ。

「……なんだよ、それ!俺そんな大それたことしてないし、急にノイズの態度とかなんか冷たくなって、それで俺……」
「悪い。苦しいとか痛いとかちょっとずつ分かるようになったら、俺がアンタにしてきたこと、思い返して。傷つけてたってわかったら、離れなきゃって思った」

今度は俺が大きなため息を吐いた。それこそなんなんだ。全身の力が抜けて、そのままベッドに仰向けになる。

「なんだよ、それ……。そんなの、俺はどうだっていいのに。傷なんてなおるし、俺が勝手にやったことだし」
「俺が、嫌だったから。でも、実際にアンタが離れて行って、なんかどっかに空洞ができたみたいだった。さっきもアンタに八つ当たりしたし」
「あぁ……、まあ」
「今までアンタのこと、かなり傷つけてたと思う。これからも傷つないでいられるかなんて、わかんねぇけど。でも、アンタと遠いのは、嫌だ」
「…….うん」

ノイズのストレートな物言いに俺は少し呆気に取られた。目をつむって両腕で顔を覆ってから、深呼吸する。体を起こし、ノイズの手からビールを奪い取る。半分以上残っていたそれを、一息で飲み干す。

「名前?」
「……俺、ノイズに嫌われてんのかもって思ったら、辛かった。丁度いい距離なんて俺もわかんないけど、ノイズが遠いのは俺も嫌だよ」
「うん」
「だから、最初からっていうか、仕切り直しっていうか……。あぁ、もう!あの、これからも、よろしく……」

後半はほとんど消えいるような声になってしまった。酒で勢いをつけたつもりだったが、これが精一杯だ。

「こちらこそ」

羞恥をなんとか取っ払って顔を上げる。 夜景と星空を背にして、ノイズが面白がっているような顔で覗き込んでいた。瞳の色は光をはらんだ鮮やかなライムグリーンだ。

傷つけられても構わない。苦しい思いだって大歓迎だ。少し離れて、また歩み寄って、そうして丁度いい距離を探せばいい。

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