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届かなかった。手から力が抜けて、叩きすぎて歪んだメガホンを取り落としかける。百分の数秒の違いが、空条承太郎の夏を終わられた。おーつーかーれ、枯れ切った喉を奮い立たせて大声で叫ぶ。プールから上がった承太郎はこちらに片手を上げて、そのまま更衣室のある反対側の応援席下へ向かった。
承太郎はうちの高校の最後の泳者だった。メガホンを回収し始めた一年生に預けて、マネージャーから黄緑色の表紙のプログラムを借りる。ああ、やっぱり。フリーの最終組の七コース、水色のマーカーペンで線の引かれた空条承太郎という名前、その横に書き込まれた順位とタイム。八位で承太郎のベスト、だが、前の組に彼より速い選手が三人いる。ああやっぱり、だめだった。関東へは行けなかったね、承太郎。

決勝の開始時間を知らせるアナウンスの後、大きな声が上がる。決勝へ進んだ強豪校の応援だ。裏返るほどの大声で部長が挨拶をする中、おれは周囲にゴミが落ちていないかの確認を始めた。一つ目の高校の応援が終わり、大学付属の高校の名前が叫ばれる。うちの高校の名前が呼ばれて立ち上がり、メガホンを打ち鳴らすのを、三年間夢見ていた。
六つ目の私立校が立ち上がりかけた時、激しい音楽が流れる。決勝の開始だ。相変わらず空気を読まないタイミングだと少し笑った。
選手が入場する少し前に髪を濡らしたままの承太郎が帰ってきた。表情はいつもと変わらないように見える。

「お疲れ、承太郎」

「ああ。すぐか、始まるのは?」

高校と選手の名前がアナウンスされ、歓声があがる。鋭い電子音が響いて最後のレースが始まった。



夜の十時を過ぎた電車は、2人並んで座るには充分空いている。応援と打ち上げ、引き継ぎをこなした身体は椅子に座ると一気に疲れを訴えた。二日続けて朝の四時に起きたことも大きな一因だ。

「承太郎、引退だね」

「ああ、そうだな」

「今日、最後、惜しかったね。あともうちょいだった」

「おまえは……先週か、2コメは」

おれ一人の最後のレースは、先週の日曜日だった。でも、本当の最後の泳ぎは、

「最後はメドレーリレーだったよ。おまえの、前に」


その時を覚えている。誰よりも速く辿り着いたおれの上を承太郎が飛んだ。暗い影が一瞬多い被さって後方から飛沫が上がるのがわかる。
おれは荒い息を整えながら、壁面をよじ登るようにしてプールから上がる。先に泳いだ二人に肩を叩かれたが、応える暇もなく先頭を泳ぐ承太郎を見つめる。承太郎の泳ぐ先の水面は揺らいでいない。承太郎から波紋が生まれ広がって行く。多分、ずっと望んでいた最高の景色だった。

「承太郎がおれの上を飛んでくれて、嬉しかった」

「おれも、おれの前が名前でよかったぜ。一番にお前が帰ってきて、悪くない気分だった」

「でも、おれがもっと速かったら、さぁ。行けたかもだぜ、関東」

俺が一番に帰ってこれたのはバックとブレの二人が早かったからだ。俺がもしもっと速ければ、最終組の奴らを抜いて、関東に行けたかもしれない。

「おまえ、あの時のタイムがベストだっただろう?それで充分だ」

「そういってくれるのは嬉しいんだけど……おれは多分、承太郎にずっと泳いでて欲しいんだ。引退して欲しくない」

引退したら、勉強に取り組んで、身体も本格的に鈍って泳げなくなる。卒業してしまえば泳ぐ機会なんてきっと全く無くなる。十数年間積み重ねてきたものが、失われてしまう。

「おれは泳ぐぜ?」

だって引退してしまえば、もう、と言おうとして、おれの最寄駅に電車が滑り込んだことに気がつく。

「おれは泳ぐ、名前。おまえのクラブにでも通うさ」

その言葉に戸惑った俺を承太郎はぐいと押した。

「さっさと降りろ、電車が出ちまうぜ」

「あ、ああ。承太郎!」

駅へと降りたおれはドアが閉まる前にと承太郎へ声をかける。

「おれのとこ、コーチ、結構いいやつだし、あと、紹介があると最初の月、ちょっと安いから!指定の水着はないし、あと……」

最後まで言い切らない内にドアがしまってしまった。ガラス越しに目を丸くした承太郎がだんだん笑顔になるのが見える。承太郎に手を降ってすぐ、電車は動き出した。

なんだ、承太郎はまだ泳ぐのか。

今年の夏は終わった。でも、来年だって再来年だって夏はまた来る。
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