ムーンレイカー | ナノ



 転送された瞬間に目に入ったホラーハウスに、思わず名前は頭を抱えた。また遊園地だ。つい先ほどの嫌な思い出が蘇る。



 どうにも噛み合わないゲームだった。ややひらけた場所で解読を進めていた名前だが、この場所はゲーム序盤でのハンターとの会敵が多い。警戒していないはずがなかったが、心臓が弾む距離を過ぎた遠距離から放たれた霧の刃が、音もせずに名前の背に突き刺さった。その霧に姿を溶かして瞬時に距離を詰めていたリッパーが、鋭い爪を振りかざす。一撃をなんとか回避するが、二度目は無理だ。情けないほどの短時間で名前はリッパーにダウンを取られた。
 名前がチェアに縛り付けられると同時にマーサがメッセージを発信した。「解読中止、助けに行く!」名前は自身の不甲斐なさに唇を噛みつつ「解読に集中して」と返すが、マーサが救助に来ることは分かりきっていた。リッパーもそれは分かっているのだろう。周囲の暗号機を伺いつつ、名前から大きく離れることはなかった。マーサ含む他のサバイバーは公園の河を挟んで名前とは対岸にいたため、救助に来るのに時間がかかる。リッパーが名前の側から離れないのならば、少しは解読時間を稼げるだろう。そう思いつつも、自身の情けなさを噛み締めずにはいられなかった。
 名前のロケットが発射するまでそこまでの猶予がなくなった時、マーサが姿を見せる。最短距離を選んで身を隠す余裕もなく走ってきたマーサをリッパーが見逃すはずはなかった。マーサは放たれた霧の刃を潜り、信号銃を放つ。耳に刺さる破裂音と白煙。しかしその煙の中から現れたリッパーは平然とマーサを切りつけた。興奮の特質ではない。信号銃が効いていないのか。名前の距離からでもマーサの顔に焦りを読み取ることができた。マーサは躊躇わず名前を解き放とうとするが、その隙をリッパーが捕らえた。マーサの手は名前に届くことは無かった。地に伏せたマーサの名を叫ぶが、どうすることも出来ずにロケットチェアは点火し無情に名前を荘園へと返す。
 その後のゲームは酷いものだった。
 サバイバーは負傷していく一方で、治療も解読する間も与えずにリッパーは蹂躙していた。ハッチが開くのを待つこともなく、悲鳴が空へと消えていく。帰るもののいない完全敗北だった。
 落ち着いた今ならわかる。ハンターの特質、神出鬼没を使って壁の裏に移動して信号銃を避けたのだろう。器用なことをするものだ。或いは意図的にあの場所に名前を捕らえ、新しいマジックをお披露目したかったのかもしれない。
 決定的な敗北をもたらした名前の失態を他のサバイバーは責める事はなかったが、その心遣いがより一層苦しかった。次のゲームはそうはいかない、絶対に勝利に貢献してやると決めていたはずなのに。



 数秒の現実逃避の後、名前はやっと解読を進めた。先程の無様な失態を思い出し、ホラーハウス内の限られた出入り口に交互に目をやる。ゲーム開始から一分は経っただろうか、一台目の暗号機の進度も後半に差し掛かっている。今回のハンターはどうやら出だしが遅いようだ。黄衣の王か、断罪狩人かもしれない。
 サバイバーが有利なゲームの進行に、逸っていた心が少しずつ落ち着いて行く。その安寧を裂くように、鐘の音が響いた。ステータスを確認すると、先程まで健康状態だったフィオナが倒れ伏している。遠目に確認したハンターのシルエットはリッパーだ。禍々しい霧を思い出し、名前の腹がずしりと重くなった。
 先ほどと同様に神出鬼没を行えるとしたら、フィオナに対しては手痛いカウンターとなる。足の速い彼が相手ではマップの広さも優位に働くわけではない。まずいな。足元に倒れ伏した仲間の記憶が蘇るがなんとかそれを追い払い、その場を離れようとするが、フィオナの近くにいたウィラが既に動き出した。名前は大人しく解読の手を進めることにする。

「ありがとう!」唐突なメッセージだった。フィオナが発信したものだが、ウィラはまだ救助しておらず、礼を言うには早いタイミングだ。名前は再び対岸の様子を伺う。フィオナはいまだチェアに囚われてはいないようだ。そのうちフィオナは逃れ、入れ違いのようにウィラがダウンする。いい加減不審に思ったところで、名前は暗号解読を完了させた。マルガレータに続いて二台めだ。名前は訝しみながらも、ウィラが途中まで進めていた暗号機に移った。そう時間もかからずに終わるだろう。
名前が三台目の暗号機に取り掛かった時、健康状態のフィオナとウィラ、それからいつのまにかハンターに捕まっているマルガレータからそれぞれメッセージが届く。
「ありがとう!」「ハンターが近くにいる!」「手を貸して、早く!」
 思考が付いて行かず、名前は調整に失敗した。解読進度が大幅に引き戻されるが、気を取り直してキーを叩く。

 リッパーの気まぐれだろう。あるゲームではあんなに怜悧な狩人らしく振舞っておいて、別のゲームでは一転紳士ごっこを繰り広げる。振り回されていると感じるが、たまには良いかとハンターと他愛無い戯れあいをするサバイバーもいる。……名前も含めて。
だが、今回はそんな気分にはなれなかった。先ほどのゲームの惨敗が──己の醜態が頭を離れない。
 この暗号機が終われば残り二台。チャットの位置からして彼女達は三人で同じ解読機を進めているのだろう。さっさと解読を済ませて早くゲームを終わらせよう。調整を何度かこなして暗号機解読を完了させる。 
 次の暗号機に取り掛かろうとした時、目の前を赤い光が掠めた。咄嗟に名前は身を翻すが、姿を表すと同時に放たれたリッパーの霧の刃のほうが早かった。背中に一撃を受ける。名前は痛みの喘ぎを噛み殺しながら、遮蔽物が密集した空間に向かった。窓を超え板で道を塞ぐが、そう長くは持たない。次のポジションへと移動しようとした名前を、再び霧の刃が襲った。転倒する名前を掬い上げるように、リッパーがその腕に抱き上げる。一部のサバイバーからは好評、一部のサバイバーからは大不評の携帯品、薔薇の杖だ。
 名前は苛立と羞恥でめちゃくちゃに手足を動かし、何とか彼の腕から逃れようとする。リッパーは大して動かずに名前を揺さぶったりくるくると回ったり、ふざけているようにしか見えない。一瞬リッパーの腕が緩んだ隙に、名前はリッパーの腕を払いのけ地面に着地して一目散に走り出した。しかし、すぐにその背に鼻歌が追いつく。体に染みる冷たい霧の刃だ。倒れ伏した名前をリッパーが引き上げ、再び抱える。名前は悔しさと怒りで目に涙を浮かべながら、抵抗を繰り替えした。力強い腕からの脱出と襲ってくる鋭い爪。何度か繰り返すうち楽しそうに回っていたリッパーは歩き出し、名前をチェアへと縛り付けた。名前は歯を食いしばり、リッパーを睨みつけた。楽しいか!叫んだ言葉がハンターに届かないことはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
 橋の反対側で解読していたフィオナが、ワープを使って名前を救助する。名前は素早くその場を離れ、近くのホラーハウスに身を隠した。残りの暗号機は一台、三人で解読すればすぐに終わるだろう。リッパーも名前を追って来ようとはしないようだ。
 名前が痛みに荒い息を吐きながらボックスを漁っていると、ゲート解放のサイレンが響く。名前が手にしたのは香水、今必要なのは注射器だ。周囲の様子を伺いながら、今度は別のボックスを開けた。目当ての注射器は出ない、懐中電灯だ。そうこうしているうちに名前以外の三人は脱出していた。サバイバー側の勝利は確定したが、先ほどのゲームで散々な結果を残した名前は少しでもポイントを稼いでおきたいところだ。残念ながらハッチの場所は把握していない。リッパーを警戒しつつ、解放されたゲートに向かった。

 ゲートまで走りきれる距離を測るが、それよりも先に寒気に襲われる。息も詰まるような濃霧に方向感覚が乏しくなる。ゲート前まで来て油断していた名前の体は、背に受けた霧の勢いにそのまま崩れ落ちる。目の前のゲートから這って出ようとするが、リッパーに引き起こされ、本日何度目かの腕の中に閉じ込められた。抵抗を始めるとリッパーはロケットチェアの前で立ち止まり、名前の体をきつく抱き締めた。
 ……今度チェアに座らせれれば、助けてくれる者は誰もいない。名前はリッパーの気を損ねないよう、大人しくしていた。リッパーが抵抗をやめた名前の顔を覗き込んでくるが、名前はそっと目を逸らす。ポイントのため、願いのためだと自分を言い聞かせ、ハンターに身を任せた。大人しくなった名前にリッパーは笑いをこぼし、再び歩き出す。
 時折名前を揺さぶりながら、リッパーはジェットコースターの乗降口へ登った。現実からの逃避に目を瞑っていた名前の瞼を、リッパーの手の甲が優しく触れる。名前はその手から逃れるよう首を振ったが、執拗に頬を撫ぜる指先にリッパーの仮面を睨みつける。しれっとした顔──雰囲気のリッパーの視線の先を眺め、名前は感嘆の息を吐いた。普段は落ち着いてみることのない美しい夕日だ。朱赤と深い紺色の見事なグラデーションを背景に、最後とばかりにまばゆい光を零す太陽。思わず頬を緩ませたまま、感嘆の声をあげる。先ほどのゲームで散々いいようにされ半ば脅して抱きかかえている相手の腕の中で。
 暴れる気は失せていた。リッパーは再び歩き出し、やがてゲートの前で名前を下ろす。こうして見送られるのは初めてのことではない。名前は立ち止まってリッパーを振り返る。ここから先にハンターは進むことができない。お別れだ。



 サバイバーには日々の出来事を記すことが義務付けられている。名前も備え付けのデスクの前に座って今日のゲームを思い返していた。二勝一敗。そのうち一敗はリッパー相手に完全敗北、二勝のうち一勝は狂眼相手、もう一勝はリッパーの気まぐれだった。
 リッパーの立ち回りは不可解だ。このゲームになんの願いをかけているのだろう。自身の願いよりも、俺の願いを優先してくれているのだろうか。……いや、彼は冷徹なハンターで、これはただの気まぐれだ。想いを重ねたらゲームが辛くなると言っていたのは誰だったか。
 名前はゲームの結果だけを日記に記入し、ペンを置いた。
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