ムーンレイカー | ナノ



 全てのゲームを終えた夕刻、リッパーの私室のドアを叩いたのは名前だった。サバイバーの住まう館とハンターの住まう館は祭壇のある大広間の鏡を通じて裏表になっていたが、そこを自由に行き来できるのは名前だけだった。その鏡を知っていたところでゲーム外でハンターに接触しようと考えるものは多くはないだろうが。
 名前がリッパーの元を訪れるのは初めてではないが、そう多くもない。名前は大した用もなくこちら側へ訪れるのを控えているようだ。入室を促したリッパーの前で、名前は、単刀直入に話題を切り出した。

「この前のゲームの礼にきたんだ」
「この前の?……あぁ」

 一昨日のゲームの話だろう。名前はお決まりの「不具合」で気を失ったまま転送されたらしい。


 最初にマジシャンを捕らえた。この男の救助は他のサバイバーに比べて手間らしい。一番目に救助に来た医師は見事救助を終えたが、二番目に来た心眼に恐怖の一撃を加えたところでリッパーは違和感を覚えた。今回のゲームには名前がいたが、彼は基本的に最初に助けに来る。その彼が姿を見せず、剰え解読向きの心眼までが救助に向かってきた。名前が捕らえられたサバイバーを放っておくとは思えない。リッパーは倒れ伏した心眼を一先ず置いておいて、名前を探すことにした。
 暗号機から離れたところで耳鳴りを覚えリッパーが訝しんで周囲を探索したところ、地面にうつ伏せになった名前を見つけた。リッパーが背を爪先でつつくが、名前は少し呻いただけで起きる様子は見せない。そうこうしているうちに心眼が医師の手当てを受けて立ち上がったが、リッパーは起き上がる様子を見せない名前のほうが気にかかった。顔を上げさせ、確かな呼吸を確認する。外傷も特には見られない。これは──。リッパーはため息をついた。最近よく起こるエラーだ。それも、リッパーにとっては愉しくないタイプの。
 リッパーは無抵抗の名前を抱え上げて歩き出した。名前を抱えたまま瞬間移動ができるか少し考えたが、試す前に近くの暗号機の揺れを見つけた。気配を殺さず、リッパーはサバイバーが気づきやすい方向から近づいて行く。医師はリッパーを視認してすぐにその場を立ち去ろうとしたが、抱えられている名前とロケットチェアに降ろそうとしないリッパーを見て距離を保ったまま立ち止まった。
 逡巡する様子の医師の前で、リッパーは壁にステッカーを貼ってみせる。この動作はいつのまにか、言葉を交えないハンターとサバイバーの間で敵意の不在を示す共通認識になってきている。さらに数枚ぺたぺたと貼ってから、リッパーは医師の前に名前を下ろした。彼女は警戒しながらも名前を手当するが、名前は一向に回復する様子は見せない。名前のステータスは元から正常だ。
 医師は名前の回復を諦めたらしい。彼女はステッカーを貼り返し、通信機に触れた。解読を着々と進めていた心眼を呼び出したようだ。杖を頼りに現れた心眼は、すぐに異常に気づいた。医師と心眼は未だ眠る名前を間に挟んで何事か話し、少し言い争い、結果心眼が折れたようだ。一悶着の後、心眼は医師が進めていた残り一つの解読を進め、医師はすぐそばのロケットチェアの前に立ってリッパーを見上げた。首を傾げるリッパーの前で膝をつく。
 優しさだけでない狡猾さを見せる医師の賢明な判断に、何度も苦い敗北を舐めさせられた。そんな彼女が真っ直ぐリッパーへ恭順の意思を示している。リッパーは皮肉でも何でもなく、彼女に敬意を表したいと思った。 基本的にゲームは一対四、それが一人欠けていたとなってはサバイバーの形勢は一気に不利になる。彼女は自分の身を差し出すことでゲームを引き分けで終わらせないかという提案をしているのだ。マジシャンを荘園に帰し心眼をダウンさせた時点でリッパーは勝利を確信していたが、心眼を放置して所在の掴めない名前を探し始めたせいで厳しい結果は予想していた。実際のところ、リッパーは今回のゲームの勝敗を殆ど気にしていなかった。一人欠けて始まった時点でリッパーの望む美しい勝利とは異なるし、望む願いが無いならば一度負けたところで気にすることもない。名前がもし立ち上がるならゲームを仕切り直ししようか、そのままならばさっさとゲートから出してゲームを終わらせようと考えていたところだ。
 リッパーは一度医師の様子を伺った。その表情は読み取れないが、リッパーは彼女の思うままに動いてやろうと思った。一度優雅な礼をして腕を振り上げた。霧の刃が医師を刺し、続いて鋭い爪が彼女を打つ。吹き飛んだ軽い体の跳ねる音に心眼が肩を揺らすが、解読の手を止めることはなかった。リッパーが医師を縛り付けると共にゲートが通電する音が響く。心眼は医師を確認し頷いてから、リッパーの前を通り過ぎてゲートへと向かった。リッパーも名前を抱え上げて彼女の後を追う。足の速さで心眼を抜いてゲート前に辿り着いたリッパーは手持ち無沙汰に名前の顔を伺った。軽く開いた唇から漏れる吐息。瞼は閉ざされたままだ。心眼が開けたゲートの先に名前を下ろす。温い体だ。
 ゲームは引き分けだ。


「俺が倒れていた時に、エミリーのところまで運んでくれたって聞いたんだけど」
「えぇ。一人が欠けていてはゲームにならないでしょう。結局あなた、回復しませんでしたけど」

 名前は荘園に戻れば再び活動した。ここはこういう場所だ。いくら傷を負って血を失おうとも、ゲームが終わってしまえば何事もなかったように全て元どおりだ。
 名前は少し躊躇ったようにしてから、小さな声で切り出した。

「俺が行くとき、エラーが多くないか?この前の暗号機も、ハッチも、それに」
「他の人もあるようですよ。黄衣の王は触手が反抗期だと言っていたし、この前は祭司のワープがとんでもないところへ通じたと聞きましたよ。」
「ああ、湖景村の話だろう?みんなびちょびちょになったって」
「あなたのように喜んで海に入ったわけではないのでしょう?かわいそうに」
「俺だって入りたくて入ったわけじゃない!……そうだ、これ」

 話が先日のエラーから外れかけた時、名前は何か包みを持った腕を突き出した。リッパーに受け取るよう、唇を尖らせて促す。

「その時の礼。ヘレナから話を聞いたんだけど、他の皆はこっちの屋敷のことを知らないし、俺が。」

 リッパーは差し出された包みを受け取ることはせず、ただ疑惑の眼差しを向けていた。新聞に包まれた何か、おそらく果実。包みの端から枝がはみ出している。

「オレンジ。庭になってたんだ」

 リッパーは腕を引っ込めない名前に押されてついついその包みを受け取ってしまった。枝ごと落とされ、くすんだ色の古新聞に包まれている、庭で採れたオレンジ。
 田舎臭。はっきり言ってリッパーの好みではなかった。荘園主にゲームの対価として申請すれば、チョコレートや煙草、洒落た装飾品も得られる。だが、その辺のオレンジ?しかも観賞用の庭のオレンジを枝ごと古新聞に包んで?
 うっかり受け取ってしまったそれをリッパーはテーブルに戻した。

「どうも、わざわざご丁寧に。……庭師に怒られるんじゃあないですか?枝まで折っちゃって」
「あぁ、もごうとしたら皮が破れそうになったから仕方なく。結構柔らかいみたい。」

 礼の品──その辺でむしったオレンジ──の受け渡しは済んだが、名前にすぐに帰る気は無さそうだ。リッパーはオレンジから話を逸らして当たり障りない話を振る。

「今日のゲームはいかがでしたか?」
「朝に終わらせてきた。相手は夢の魔女。カヴィンがマルガレータを救助しようとした時に、間違えて使徒を……」

 名前の話はゲームのことばかりだ。時々荘園での他愛ない生活のことを。名前は過去の話をしない。
 リッパーはサバイバーの名前をほとんど覚えていないため、いい具合に聞き流していた。もとからあまり興味もない。無関心に気づかれないよう、相槌だけは上手いこと挟んで。
 リッパーが話を聞いてやっていると、名前の視線がちらちらテーブルの上のオレンジを彷徨っていることに気づいた。あえて無視して、話の続きを促してやる

「……ってことがあったんだ。リッパー、まだそのオレンジ食べない?」
「あとで頂きますよ」

 ハンターは基本的に食物の摂取は必要としない。嗜好品として気が向いたら口にする程度だ。ハンター同士で食卓を囲むことも無くはないが、日常的な話ではない。
 リッパーも口寂しい時にゲームの対価で頼んだ上等なものや料理のうまい復讐者が手持ち無沙汰につくったものをつまむ程度だ。食事をただの娯楽とするなら、庭でむしってきたオレンジはリッパーにとって問題外。……断罪狩人や道化師あたりなら喜んで食べるだろうが。

「一個食べていい?うまそうだなって思ってたんだ」

 リッパーが頷くのを見て、名前は素早く手を伸ばした。中途半端に開かれていた新聞紙の中からオレンジを一つ取り出す。観賞用だけあって鮮やかな色だ。艶もある。
 名前はへたの横に指を突っ込んでくるくると器用に皮を剥がしていく。柑橘特有の爽やかな香りがたった。名前は心惹かれる香りにまどわされることなく、オレンジを割って食べ始めた。破れた小房から果汁が滴る。

「垂れていますよ。そう、手首のあたり」

 リッパーの指摘に名前が慌てて手をあげ、果汁をぺろりと舐めた。そのまま一口に四分の一を平らげ、頬を膨らませて満足そうな顔をしている。
 ──うまそうだ。
ごくりと唾を飲み込む音がいやに響いて、リッパーは軽く頭を振る。それから柄にもなく大きなため息を吐いた。指の沈む柔らかな体も、高く響く声も何一つ持ち合わせていないこの男を、うまそうだと思うなんて……。随分と焼きが回ったものだ。いや、初対面が悪かった。青白い顔に目だけ輝かせ、海で震えていた名前。何かしらの欲が湧くのも仕方がない。ゲームのたびに襲ってくる化け物の気まぐれに礼を言う?甘い考えだ。玩具じみた心臓を引き出して切って裂いて、その身に真実を刻みつけてやりたくなる。
 少し、驚かせてやろうか。何、殺しはしない。ちょっとばかり傷つけて、目の前の男がそう優しい人物じゃないと知らしめてやったら?彼はどんな顔をする?躾だと言って果汁に濡れた手を貫いてテーブルに縫い止めてしまおうか。小さな口を裂いて食べやすいようにしてやろうか。今のうちに血を啜って味も確かめておこう。リッパーは心の中で残虐な想像を巡らせ、空洞の視線を名前に向ける。

「あ、食べる?」

 リッパーの冷たい熱情に向けて、名前は指先を差し出した。オレンジが摘まれている。薄皮が破れ、中の柔い身が剥き出しだ。
 無防備だ。いっそ腹立たしいほど。オレンジごとこの指を噛みちぎってやろうか、リッパーはそんな事を思ったが、仮面をずらし、よく馴らされた獣のように大人しく口を許した。
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