ムーンレイカー | ナノ



 寂れた漁村の天空を覆う鮮やかなオーロラは、今日は見えない。オーロラどころか、暗号機を叩く指先さえも見えるか怪しい濃霧だ。ときどき吹く海風が霧を払い、まともな視界を取り戻す。そのタイミングで名前は周囲を伺った。

 残っているのはフィオナと名前のみ。他のサバイバーはみな、二人のハンターの手によって荘園へと帰されている。暗号機は残り五つ。ハッチさえも出現していない。
 黄衣の王の触手での一撃を食らったが、フィオナが作ってくれていた遠距離ワープに助けられなんとか撒くことができた。黄衣の王は遠くへ逃れた名前を諦め、フィオナを追うことにしたようだ。フィオナから「ハンター接近中」と通信が届いた。所在不明のリッパーは不安だが、あと一つ、この暗号機を終わらせればハッチが出現する。そうすれば、うまくいけば二人とも逃れられるだろう。

 吐息のような声と禍々しい赤の光。それらを鋭敏になった感覚が捉え、名前はすぐさま踵を返した。暗号機の先端が振れていたのだろう。リッパーの瞬間移動だ。顕現すると同時に放たれた霧の刃を受け、名前は呻きながらハンターが近くにいると通信を送った。
 板を倒し、身を翻して走り出す。誰かが解読を続けなければここからは出られない。あと一撃食らわずに逃げ切れるか。名前は激しく跳ねる心臓を抱えて窓枠を飛び越えた。背後の壁に霧の刃が刺さる音が聞こえる。名前がリッパーの視線を切りながら走っていると、前方から別の寒気を覚えた。黄衣の王が近くにいる。
 目の前に現れた触手を掻い潜りつつ、建造中だった船の残骸にたどり着く。背後に迫るリッパーを窓を使って距離をとったつもりだが、フィオナと共にハンター二人に挟み込まれた。フィオナが咄嗟に船体に扉の鍵を開き名前も続こうとしたが、黄衣の王の触腕が門を閉じる。
 解放されていないハッチ。おそらくバールを持っているフィオナ。背後には冷えた霧の気配。体にまとわりつく嫌な凝視の感覚。名前が判断ができずに一瞬立ち止まると、その隙を逃さず黄衣の王の触腕が伸び、名前は弾き飛ばされた。リッパーの気配は消えている。フィオナを追うことにしたのだ。名前が捕らわれロケットチェアへと運ばれている間に少しは時間を稼げる。それにフィオナは黄衣の王よりリッパーとのほうがやりやすいはずだ。

 黄衣の王が名前をバルーンに吊るし上げた時、行く手を霧の刃が遮った。その霧の中からリッパーが姿を現わす。二人は名前が理解できない声で何事か話し、ハスターは名前をバルーンに吊るしたまま進行方向を変えた。名前の体がべしゃりと落とされたのは、未解読の手近な暗号機だ。
 名前はだんだんと凍えていく体を持て余しながら暗号機の振動を感じていた。もう九割がた解読は終わっているだろう。フィオナはリッパーとチェイス中、名前は自己治療では立ち上がれない傷だ。だが、もしも黄衣の王がもう一度名前を吊り上げ取り落すことがあったら、その勢いのまま逃れるか、解読を終わらせることができるかもしれない。
 名前は失われていく血を感じながらも、すぐ横で立ち止まっている黄衣の王へと這い寄る。どこか遠くを見ている彼の気を引くように下肢──足の役割を果たしている触手に触れる。名前が顔を上げると、黄衣の王もフードの中の深淵の目で見下ろしていた。しばしの沈黙の後、人の形をした手で名前を抱え上げバルーンに吊るした。そのまま滑らかに右へ行き、また左へ戻る。名前は予想外の彼の動きに戸惑った後、全身を跳ねあげて暴れた。黄衣の王はバルーンから逃れた名前を追うこともせず、どこからか取り出したステッカーを暗号機の接する壁へと貼る。

 どうやら黄衣の王に、今すぐ名前を荘園に帰す気はないらしい。まれにゲームの終盤で起こる、ハンターが最後の一人のサバイバーを逃す行為かもしれない。ダブルハンティングでは四人以上荘園に帰せばハンター側の勝利は確定している。最後の二人くらい逃がしてやるから、逃げ回っていないで早く解読を進めろということか。名前はそう解釈し、すぐ隣に立っている黄衣の王に一枚ステッカーを貼り返してから解読を進めた。
 フィオナは扉の鍵を使ってリッパーから逃れ続けているようだ。名前はハンターの意図を伝えようと思ったが、最適な通信メッセージはない。とりあえず暗号機がもうすぐ終わること、ハンター達に逃す気がありそうだという意図を込め、「先に行く」とだけ送った。
 黄衣の王がすぐ近くにいるせいで、指先が震えて思うように暗号機の解読が進まない。何度か手が止まりながらも、名前は解読を終わらせた。風の音が聞こえる。ハッチの出現場所はこの近辺に二つ、後は船首側と……そう思い返しながら振り返ると目の前に無骨なハッチが現れていた。

 後はバールを持つフィオナを待つだけだ。広い湖景村を走り回り、おまけにかなりの血も失われている。立っているのも苦痛で、名前は壁に背を預けて座り込んだ。名前は気まぐれに黄衣の王を見上げると、視線を感じたのか黄衣の王も首を傾けた。名前は敵対する意思はないことを力無い微笑みで伝え、ハンターが──黄衣の王が人の表情を認識しているのか分からないので、ステッカーをぺたぺたと貼り付けておく。
 フィオナからハンター接近中と通信が届く。こちらに向かっているらしい。名前も、地下室はこちらだと返した。地下室からは絶えず風が吹き、ぴゅうぴゅうとどこか物悲しい音が響いている。名前はハッチへと飛び込んだ先に何があるのかを知らない。ゲートを抜けたその先も。あるのはただ暗転と静寂だ。

 フィオナから再び通信が届く。真後ろだ。名前が驚きに振り返る前に、フィオナは名前のすぐ脇から扉の鍵を開いて飛び出してきた。名前に気づいた様子もなくそのまま走り抜けていく。名前が立ち上がり踏み出そうとしたすぐ前を霧の刃が飛んで行った。
 名前は心身へ染みる冷たい悪意を感じ、リッパーへと振り返った。リッパーは名前のほうをちらりと向いて手を軽く振り、そのまま歩みを止めることなくフィオナへと迫っていく。優しくするためではない。リッパーはロケットチェアに縛るため、フィオナを追っていたのだ。
 ダメージを負ったフィオナは次の一撃で倒れ臥すだろう。名前はフィオナのすぐ後ろをカバーするように走るが、名前の襟首を冷たい手が捕まえる。リッパーだ。痛みを覚悟し一瞬目を瞑ったが、その瞬間は訪れなかった。背中に誰かの体温を感じ、代わりにフィオナの呻き声が聞こえる。リッパーは右手で名前を引き寄せ、空いた空間へ左の腕から霧の刃を放ったのだ。名前はリッパーの腕を振り払い、フィオナの元へと駆け寄る。うずくまるフィオナへと手当を施すが、リッパーの手で吹き飛ばされ黄衣の王の近くまで転がる。名前は度重なる苦痛に立ち上がることができなかった。
 視界の端で吊り上げられるフィオナを見ながら、名前も黄衣の王に囚われていた。彼の腕からは悪意は感じられないが、名前は最後の力を振り絞ってその腕から逃れた。禁錮はない。ロケットチェアに捕らわれたフィオナへと走り出すが、その前にリッパーの霧の刃に打たれる。
 名前は再び地に伏した。肘をつき、上半身を起こしてゆくが、立ち上がることはできない。失われた血が行動も、思考さえも蝕んでゆく。間に合う距離ではないとわかっていたが、名前はフィオナへと這って近づくことをやめられなかった。
 ロケットチェアの着火の音と、フィオナのか細い悲鳴が響く。名前は曖昧になっていく視界の中で煙を見ていた。

 力尽きた体が崩れ落ちる。冷たい地面へ体を投げ出す。受け身も取れずにぶつけた頬が痛いが、それよりも霧の刃で凍えた血が冷たかった。二人のハンターに囲まれて、心臓が痛いくらいに拍動している。全然優しいタイプのハンターじゃなかった。希望を持たせておいて……そこまで考え、言葉も通じない異形の者に希望を抱いたのは俺の勝手だったと笑った。
 最後の一人だ。ハッチの開く、いつからか聞き慣れた音が響く。名前は投げやりな気分になって全ての抵抗を止めた。体の痛みは耐えきれる。だが、心の痛みは──。名前は自然とこみ上げまで来る涙を止めることが出来ず、ただ情けない嗚咽だけは聞こえないよう喉を震わせていた。
 失われすぎた血に体が萎えてしまう少し前、名前の薄ぼんやりした感覚の中で含み笑いを聞いた。リッパーの声だ。さっさと吊ればいい、誰も助けられない俺なんて。最後の力を振り絞り、なんとかリッパーを睨みつける。リッパーの笑いがより深いものになる。嗚咽を隠そうとする意思が決壊してしまう前に、黄衣の王はため息を吐いて名前の腕を掴み上げた。つま先がほとんど宙を蹴り、肩に全体重がかかる。呻き声をあげる名前を黄衣の王はそのままハッチに投げ落とした。リッパーの何か言う声が聞こえた気がしたが、名前の意識は暗転した。きっと気づいた時には再び荘園に戻っている。
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