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2.モラトリアム


「君はなんていやらしい人間なんだ」
 太宰の言葉に、先に部屋に入ってコーヒーをついでいた中原は、ぽかんと目を丸くした。
「なんていやらしい人間なんだ」
「手前、本当に今日変だな」
「今に見てろよ。グーの音も言えないようにしてやるから」
「意味分からねえよ。つーかシャツがよれてんぞ」
 見ると、シャツの左胸の部分には皺が寄っている。先ほど強く握りしめたからだ。中原と皺を見比べる。不振な行動に中原が停止する。
 太宰は中原に視線を止め、
「はっ」
と鼻で笑った。
「おい。何で笑った」
「シャワー借りるね」
「何で笑ったんだよ」
 新しい下着と衣服を適当に掴む。訝しげな顔をした中原を無視し、シャワールームに向かう。
 強がりだった。頭の中で必死に突破口を見つけようとするが、思い浮かぶのはシトラスの香りだけで、とうとう何も考えられない。太宰は生温いシャワーをかぶりながら、必死に頭を働かせる。
 どうすれば自分と同じような思いをさせることができるのだろうか。心臓の一部が欠けたような、鬱屈としていて、締め付けられるようで、温かみと冷たさを同じくらい内包しているこの感情を。流れ星や花火の儚さに触れているようだ。きゅっと胸奥が収縮する。中原の表情や仕草が心臓を揺さぶる。
 シャワーを早めに切り上げて身体を拭いた。これ以上行動を起こさなければ、自分の意識を丸ごと持っていかれてしまう、という恐怖心が、意識の根底に敷かれていく。そのことが非常に不愉快だった。
 シャツは持ってきたが、あえて着ない。ボトムだけを着用し、タオルを片手にシャワールームをあとにする。髪も半ば濡れたままだが、太宰は気にも止めなかった。
 中原はソファーに座っていた。飲み物は飲んでおらず、二枚三枚ほどの書類をじっと眺めていた。
 太宰は足音も無く近づく。ちょうど背後に来たとき、「おい」と中原が言った。その問いかけを無視し、太宰は中原を後ろから抱きしめた。自分と中原から、同じシトラスの香りが漂っていて、ぱちりと胸が疼く。自分の動揺ごと飲み込んで、太宰は中原の額に口づける。
 水滴が中原の衣服を濡らす。書類や床にも水滴は落ちていく。中原は不快感を隠さずに舌打ちをした。太宰はからからと笑い声をあげながら、そっと中原の瞳を手で覆った。
「私は誰でしょーか」
「さっさと髪拭けよグズ」
「わざと拭いてこなかったの。濡れてた方が格好良いでしょ」嘘ではない。太宰は水の滴っているときが、最も妖艶だと思っている。人間全てに当てはまる定理だ。
「おい、離せ。濡れるだろ。さっさと残った仕事を終わらせてえんだよ」
「仕事を終わらせたい方が本音でしょ」当たり前だ、と嫌みが響く。
「中也はさあ、何にも感じないの? 私がこうしてシャワールームから出てきて、君は何か感じないわけ?」
「悪意と執念を感じるよ」
「あながち間違いじゃあないけれど」くすくすと太宰が笑う。中原の目から手を離す。太宰は中原の隣に座って、書類を確認する振りをする。
 横目で中原の表情をとらえつつ、それを悟られないように、太宰は余裕を演じるのだ。
「ねえ。中也」太宰が言う。「何だよ」ほぼ条件反射で中原は答える。太宰は書類に目を通す振りをしながら、言った。
「私ね、今、君に欲情しているんだ」
 嘘じゃないよ、と流し目を一つくれてやる。案の定、中原は硬直し、隙ができる。中原の心臓を奪う好機だった。もうひと押しでこの緩やかな世界は瓦解する。
 中原の手を取る。なぞるように唇を滑らせる。人差し指を口に含み、わざとリップ音を立てて離す。上目づかいで微笑み、もう一度名前を呼んだ。「中也」と。しっとりと濡れている。菓子のような、甘い声音だった。
 すると、途単に 中原の視線が不可解なものを見るようなものに変わる。
 それだけだった。それだけで終わりだ。そのうち中原の視線は呆れに変化し、太宰の表情さえ視界に入らなくなるのだろう。
 事が上手く運ばないことに、太宰は苛立ちを感じていた。
「本当に君はいやらしい人間だ」
「手前に言われたくねえよ」
「違う。もう全てが違う。考えていることから違うんだ」手荒にタオルを放り投げて、真っ直ぐに中原を見つめる。いつになく真剣な太宰の瞳に、思わず中原は瞬いた。
「椿の花や、睡蓮を美しいとは思わないのかい? 枯れ落ちるときが醜いと言われる、とても美しい花だ。人も同じだ。見れるときに見ておかないと、瞬く間にしおれていって、誰も知らないところで一人、かなしく朽ち果てる運命なんだ。私は嫌。美しい目と意志があるうちに、私という存在を、誰かに刻み付けておきたい」
 太宰の瞳が熱っぽく輝く。中原はその輝きに、ちくりとした痛みを感じた。ゆっくりと頬を太宰の指が滑る。この瞬間にも、太宰の胸の中では、多くの星たちが弾けている。
 最初にキスしたのは太宰だった。告白のときと同じだ。仕掛けるのは太宰であって、中原ではない。対する中原は拒絶もせず、ただ目を伏せて唇を食む。お互いの吐息に震えながら、太宰は口づけを受けて、返す。
「中也」太宰が彼の名前を呼ぶ。中原は目を細めながら、太宰の黒髪を梳いた。
「本当に良いのか」そう中原が言った。「良いよ」太宰の返答を待つ暇も無く、中原は太宰をソファーに押し付けていた。
「ん、」太宰の口から息がもれる。中原は吐息ごと食べ尽しそうな勢いで、太宰に口づける。だが、太宰は釈然としなかった。納得がいかずにキスをしていた。
 唇を合わせるたびに、いつか互いの境界線も溶けて、一つの存在になれるのでは、なんて幼稚な考えでも、身を包むような幸福感の材料になる。荒々しくも恋しい、形容し難い感情。けれどもそれだけだ。熱を発しているのは自分だけで、中原からは何も感じない。
 中原の面持ちは、「行為に冷めている」という表現は似合わない。「本気にしていない」。これが妥当な回答だった。
 釈然としない理由はこれだったのだ、と太宰は一人合点する。中原が「本気にしていない」ままでも、なお口づけをせがむのは、欠けた心臓のせいなのだと、太宰はそう確信していた。
「中也」キスの合間に太宰が言った。
「やめて」その言葉に、中原はぴたりと停止する。皺と見比べられた中原が、怪訝そうに動きを止めたときと同じ表情だった。行為の最中と日常の一コマは、果たして同じものなのだろうか。太宰は思わず喉奥で笑う。
 信じた私が馬鹿だった。
 中原は目を見開く。言葉に出ていたらしい。太宰は降り注ぐ星の色が、どす黒く、重たくなっていくのを感じながら、続けた。
「本気じゃないならやめて。君が私をどう思っているかなんて知らない。あのホテルの――あの夜の一件だって、そう。どう思っていようが構わない。けれど、本気じゃないならしないで」
 太宰は確信していた。中原が口づけを止めることを。そして、中原の「本気にしていない」態度を目の前にしても、自分の心臓は奪われたままで、返ってはこないだろうということを。
 案の定、中原の唇は簡単にはがれた。口寂しさを押し隠し、無理矢理に笑みを張り付けて、言う。
「やっぱりさあ、私じゃ駄目?」
 中原は唾液でべたつく口元を拭う。中原から太宰の表情は髪に隠れて見えない。気にせず中原は太宰を抱き締める。「お前が良い」
 ぱちり。こんな時にも、胸の中の星は、また弾けるのだ。
 深海のような透き通った黒ならば、この感情は綺麗だと胸を張れるのだろう。けれども 太宰の中にあったのは、深海のどす黒い濁りと、汚れが混ざり合った、満ち満ちた懐疑の念だった。中原はようやく口を開く。
「じゃあ、何で本気にしていないわけ」
 太宰の厳しい糾弾に、中原が怯むことはない。確固たる口調で、それこそ清廉ささえうかがえる面持ちで言った。
「どうしても、今は、無理だ」
 光彩を放つ星たちは、ついに、一つもいなくなった。
 その光景は真っ暗闇の、いつか言っていた、星を無くした空だった。真っ暗なびろうどに何重にも包まれて、そこには一片の明かりも存在しない。
 中原に心臓を奪われた。思考や言動や視界、様々なものを操る場所を、中原に持っていかれた。いつでも中原を思い出し、全てを彼に結びつけるようになった。
 恋だ。
 「無理だ」と言った中原の顔には、少しの申し訳なさや同情などは混じっていない。純然たる事実を告げているだけなのだ。中原が断る理由など、今の太宰には考える余裕すら無かった。
「あっそう」
 太宰の簡素な返答に、中原は当惑していた。その一言を皮切りにして、中原を押し戻すと、太宰はシャワールームにシャツを取りに行く。その上にベストとコートを羽織る。新しいタオルで髪を拭く。口元も、綺麗に、拭った。
 キッチンには少し冷めたコーヒーがある。それをカップになみなみと注ぐ。カップを手にする。ソファー越しに、中原の背に立った。
「それでは、さようなら」
 太宰はコーヒーをぶちまけた。コーヒーは中原の髪や衣服だけでなく、書類とソファーを、おそろいの茶色に染め上げていく。
 状況を理解していない中原を横目に、太宰は荒々しく玄関と向かった。太宰が玄関側で扉を閉める寸前、中原はドアに手を伸ばした。が、太宰は叩きつけるようにしてドアを閉ざす。
「おい! 手前、」
「あーもうたくさん! 聞きたくない! 私じゃ駄目なら駄目だって、好きじゃないなら、本気じゃないなら、いつもみたいな険しい顔して、はっきり言えばいいじゃないか!」
「待てって」
「本当、もう。何で君に惚れたのだか、自分で自分が分からない。嫌になるんだ。君といると、自分が自分じゃ無くなって、気持ちが悪い」
「だから、待てよ」
「待ってたら君が追いついてくる! 追いついて、また私を、駄目にして……それの繰り返しだ。君にとっては楽しい遊びだっただろうね」
 太宰は押さえつけていたドアノブから手を離す。靴を履いて外に出ても、中原と自分を隔てた扉が開く音はしなかった。予想していたことだ。ただ、あの扉一枚で断絶される関係だとは思いたくはなかった。だが奇しくも、昔から予想はことごとく当たる。
 初夜はただの淡い願望だったのだ。そう、太宰は思う。淡々と、一つの作業をこなすように、そう思い込む。そこに何の感慨も無い。
 星も月も無い、ただ青と黒が濁り、交わった夜空の中に、ぼちゃりと太宰は放り出された。深海にも似ている空の中で、足掻く。まとわりつく青と黒を必死にかき分けて星を見つけようとする。
 ふと気づいた。星は全て、自分の胸の中で死んでしまった。一つ残らず、全てが火花と閃光を発し、儚くも散って溶けていった。
 中原の仕草が、唇の色が、髪の香りが、星を光らせた。光らせて、殺した。そうしたのは全て自分だった。星を手に入れたあの夜から、太宰は中原に恋をしていた。恋をし直すたびに星が光った。だが、太宰は中原にそれを言葉で表したことはなかったのだ。
「結局、私のせいじゃないか」
 五月なのに酷く冷えている。むせ返るような新緑の香りが苛立たしく感じる。アルコールに浸かりたい気分だった。あの夜以上に酒を浴び、腹に入れなければ。根拠の無い使命感に駆られながら、太宰はひたすら飲める場所を探していた。
 胸に光る星はもう無い。きっと、みんな死んでしまったのだ。
 はあ、と息を吐く。勿論、呼気は白くはならず、透明なままで消えていった。あの夜と違うのはほんの少しだ。白くならない息と、星の無い夜。隣にいるべき人物がいないことと、自分が荒々しい感情にのまれていること。
 一粒の涙が、頬をさらりと撫でていること。ただ、それだけだった。


おそらくたぶん続きます






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