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 太宰にとって、初夜は初夜じゃなかった。


1.星たち


 太宰が初夜を失った日、彼は悶々と考えていた。まずは『初夜』の定義である。同性同士の結婚、性的事情に『初夜』という単語はふさわしいのだろうか。表側だけを見れば高潔な『初夜』という言葉だが、一枚皮を捲ってみると、男と女が絡まっているだけではないか。そのうちの一人が男になってもばれやしない。つまりは男同士にも『初夜』は適用される。
 そして唯一の結論に至った。「自分は初夜を失ったのだ」。

 告白は太宰からだった。何の帰りだったかは憶えていない。十二月の星空がビル群の上にちらちらと浮かんでいるのだけは記憶にある。凍える指を空に伸ばし、ぎゅっと握りしめてみる。
 あの星を全て捕まえて、胸の中にしまい込んでしまえたら、何て素敵だろう、と思った。一つ一つに名前を付け、親を、兄弟を、子を与えてやる。重たいびろうどに包まれて、もはや身動きの取れない空を尻目に、自分の部屋で星と共に生きるのだ。
「良いでしょ。この世界の全部の星が、私のもの」太宰は握りしめたままの拳を見せつける。
「傲慢にもほどがあるな」苦く笑いながら中原は煙草に火をつけた。夜空に煙がゆらぎ、白い息と交わる。太宰はその光景をずっと見ていた。「手前、そういうところだけロマンチストだよな」中原の声のトーンが頭の中で反響する。何も答えない。ただ、煙草をくわえる、中原の唇だけを見ていた。
「おい。聞いてんのか」
「ねえ、中也。名前呼んで」
「は?」
「名前、呼んで」
 そのあとに聞こえた中原のため息が、今でも耳に焼きついている。少しの間を持って、中原は言った。
「太宰」
声が、鼓膜をぐらりと揺らした。
「ねえ、中也」太宰が立ち止まる。
「んだよ」
「私、君に恋しちゃったんだけど」
 太宰はため息ひとつで恋に落ちた。はた、と気づいた瞬間には、心臓の大事な部分を奪い去られていたのだ。
「どうしよう」胸の奥底がむずがゆい。中原の手から落下した煙草が、宙に燃ゆる流れ星に見えた。
 そのあと二人で散々飲んで、騒いだ。全てを無かったことにするために、死に物狂いで酒を浴びた。だが目覚めても、心臓には穴があいていて、どうにも中原がその破片を持っているようなのだから、性質が悪い。 太宰はこれは駄目だ、と思った。瞼を閉じれば中原が浮かぶ。瞬きの間にさえ、彼の表情が、ちかりちかりと存在している。

それからしばらく経ってキスをした。一ヶ月後にはホテルの予約をした。恋人とのスキンシップの発展が緩やかなように、世界は緩慢に流れ続けたが、太宰はその遅さに愛すら感じていた。だが問題はホテルに泊まった夜である。
 異性同士の経験はあっても、同性同士とは訳が違う。そのため太宰は正に万全の策を練った。どんな不測の事態が起ころうが、胸を張れる準備をした。緩慢な世界にスパイスを振りかける夜だと思っていた。しかし、中原は何もしなかった。
 食事をし、シャワーを浴び、ベッドの上に寝転がる。時計の長針が十一時を指す。ふと、中原と目が合う。金髪が月明かりの光を弄ぶ。彼の猫目に映る自分の顔を眺めていると、唐突に手を握られて、一つ一つの指に口づけを落とされる。シーツを強く握る。心臓が痛い。正直、動揺していた。
 それからはまるで夢のようだった。夢のように何も起こらなかった。
 何故? と聞くのは野暮だろう。当時の太宰は、正しく本当にそう思っていた。不測の事態は順調なときに現れる。そう自分に言い聞かせて、なだめて、を繰り返しているうち二ヶ月が経った。
 結局、中原から与えられたのは何か。心臓の高鳴りと、触れるだけのキス、そして最も厄介な、憂鬱という愚かな刃物の先っぽだ。

 それから初めの考えに回帰する。回帰してなお、後悔する。「どうして抱いてくれないの」そう一言、あの夜に訊ねていれば良かった。
 中原はきっと、昔に流行った「プラトニックラブ」なんてものを、ぼろぼろに砕き、ミキサーにかけ、酒と割って、飲み込んでしまったのだろう。そのとき彼の平衡感覚はぐらりと狂ってしまったのだ。

 そして今夜、奪われた心臓の一部を奪還するのだ。太宰は息を吐く。こわばる四肢を擦り合わせると、幾分か楽にはなれた。
 今まで中原の速度に合わせてきて、ふと思った。自分が合わせる必要など無い、と。そこまで来るとあとはドミノ倒しのように、次々と爽快な答えが浮かんできて、最後のゴール地点で「自分は中原に惚れていないのでは?」という問いにぶつかった。本当に好きだからこそ、下品な話でも、相手の身体から知りたいという人間も少なくはない。
 太宰はどうするか。奪われたものを取り戻すだけでなく、中原のものも奪ってしまえば、あとは万々歳だ。心臓の一部である。思考であったり、行動であったり、その心臓の一部が全てを担っている。それを中原に奪われたのだ。恐らく、中原自身も無意識のままに。

 太宰は今、帰ってくる中原を玄関で待ち構えている。
 中原の帰宅は常に忠実だ。九時に帰ると言えば、どんなに酔っ払った状態でも、九時に帰ってくる。
 五十八分。
 中原もこの感覚を――心臓を奪われた感覚を味わえば良いのだ。そうすればきっと、あのうるさい口も閉口する他ならないだろう。
 五十九分。玄関の鍵が開く音がした。
 中原中也が帰ってきた。玄関の片隅に座り込む太宰を見て、ぎょっとする。太宰は満面の笑みで「おかえりなさい」と言った。律儀にも「ただいま」と返した中原は、太宰の顔をまじまじと見つめてから言う。
「お前、今日変だぞ」
「玄関に座っていたら変?」そりゃあそうだと中原は唸る。だが、「それだけじゃなくて」と、必死に違和感を探る彼にも、原因が何かは分かっていないらしい。明確だ。太宰の悪意である。
 わざと素知らぬ笑みを浮かべて、中也のコートを預かる。上質なコートを手にする。その動作にすら中原は戸惑いを隠せない様子だったが、抵抗はしなかった。
――と。太宰は無意識に匂いを嗅いでいた。透き通ったシトラスの香りが鼻腔をかすめる。く、と堪えるような音が聞こえた。中原である。中原は笑いを噛み殺しきれず、破顔していた。
「……笑わないでくれるかな」
「やっぱり今日変だわ。手前、おかしいぞ」
「人は容易く変わるからねえ。チェックだよ、チェック。中也が可愛い女の子を引っかけていないかのね」
 言い切らぬうちに、途切れた。重心が傾く。革手袋が首筋を擦ったと思うと、太宰は中原に掻き抱かれていた。太宰はすぐに状況を把握する。「何するの」と抵抗すると、頬を緩ませたままの中原がそこにいた。
「チェック」
「は?」
「浮気してないか気になるんだろ。気が済むまで確かめろよ」意地の悪い笑みだった。「この、」逃げるために身をよじる。すると拍子抜けするほどにあっさりと包囲は解かれた。
「冗談に決まってんだろ」中原はコートを拾い、さっさと歩き始める。
「……ちょっと中也」
「妙なこと企んでるからこういう目に合うんだよ。冷えるからさっさとこっち来い」
 こちらを振り返り、中原は意地の悪い笑みをもう一度晒すと、奥の部屋に入っていった。
 中原の背中を呆然と眺めながら、どうしようもない無力感に襲われる。ぱちりと静電気が起きた。全ては胸の中のことだ。
 無力感ではない。静電気ではない。
 悔しさと、恋だ。
 花火のごとく極彩色に輝くそれは、いつか見た夜空の星たちだった。胸の内にしまい込んだはずが、順々に弾けていく。中原のせいだと悟った。太宰の心臓の一部はまだ欠けたままだ。たったあれだけの日常の破片に、心が反応した。星たちは弾けていく。
 あの日の中原の横顔が、不意に脳裏をかすめるのだ。
「ばーか」
 そう呟いて、あとを追う。左胸が疼いている。中原中也という人間は、想像以上の敵であった。







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