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中原中也は雨上がりの香りが好きだという。湿気が抜け切らない部屋の窓を開けると、青空に溶けた雨の香りがほのかに漂ってくる。懐かしいような、胸の内で燻る好奇心を刺激する香りだと思った。

「降ってたんだ、雨」
「ついさっきあがった。虹も出てる。綺麗なもんだ」丁寧にカーテンをまとめる中原の声は、わずかにトーンが高い。
雨上がりの中原は機嫌が良い。加えて昨夜は月単位の大きな任務を終えたばかりであり、それが更に中原の機嫌を持ち上げている。

太宰も雨上がりの香りが好きだ。香りというよりも雰囲気だ。水滴に彩られ、瑞々しい六月の緑が映える。雨が降るだけでいつもの風景が絵画のように、眩く光を放つ様子は、たまらなく愛おしい。

「中也、お水取って」
「ああ」
「あと包帯も」
「巻いてやろうか?」ふと、かけられた言葉に震える。素知らぬ顔で「うん」と呟いた。中原はミネラルウォーターと包帯をシーツの上に投げる。中原は自然な動作でそっぽを向く彼の横に座る。
お互いスウェットのパンツだけを身につけた状態だが、その格好を咎める中原はいない。代わりに上機嫌な中原がいるだけだ。ミネラルウォーターを一口含む。腕に巻かれていく包帯が暖かい。

「水かけても怒らないかも」
「何か言ったか」
「いいえ何も」極論だ。考え直そう。
「そういやお前、この間散々くらってたろ。傷、痛むか」太宰の腕に柔らかな唇が押し付けられた。くらりとする。「痛くない」一言、掠れた声で答える。
「よかった」短い相槌が帰ってくる。
またくらりと瞼の裏が光り、終いには胸奥が、きゅう、なんてかわいい音を立てて収縮する。
「お前の包帯を巻くのは好きなんだ」

更に強く胸が締まる。ガラス細工のように、ちょっとした言葉でかがやき、壊れる心が憎い。その痛さたるや、身体の傷の比ではない。
太宰は雨上がりの中原が苦手だ。
雨上がりの彼は、達観した考えを持っている。大人びて見える。普段より遥かに芸術的である。一枚の絵画のような高潔ささえうかがえる。寧ろこちらの方が素なのでは、とも思ったが、認めるのは何となく癪だ。癪なのだが、雨上がりの彼に会うと、太宰は途端に攻撃的な面を切り取られてしまうのだった。

ふと包帯を巻く手が止まる。中原の視線は4本の傷に注がれている。
以前自分でつけた傷だった。理由は分からない。既に傷には皮が薄くはられ、半ば治りかけだ。

「いってえなぁ」中原がさも楽しそうに笑う。
「痛いよ。こっちの傷はすっごく痛い」中原の笑みにつられて、太宰も頬を緩めた。
「看病してやろうか?」
「生憎、私は病気じゃあない」
「病気だろ」
「あんまり見ないで。くすぐったいから」
早口に告げると、再び手は動き出す。だがそれはすぐに停止し、包帯が置かれた。再び動揺の波にさらされる。
互いの視線が絡み、太宰の若干の戸惑いすら飲み込んで、中原は太宰に口付けた。ただ触れるだけだった。何事も無かったかのように作業は再開される。

「今どきプラトニックラブなんて、流行らないよ」
「その流行らないのが大好きなお前はどうなんだよ」
「違う。別に好きってわけじゃあない。好きなのは君の方じゃないか。中也は私を何か、綺麗なものと勘違いしていない?」
「誰がするかよ」
「してるでしょ」
「今日の晩飯、何が良い? お前の食べたいものでいい」
「何も食べたくない」
「馬鹿言えよ。手前がぶっ倒れたらこっちが参るんだ。ちゃんと食え」
「食べたくない」

世界が崩落していくのを緩慢な視線で眺めているような、肥大した無力感に襲われる。感情の回路が全て入れ替わり、情緒不安定になる。花が散るとき、あの子たちもこんなことを考えているのかなと思った。自分を取り巻く存在が怖い。親しい者は特に。

花とは総じて、優しい雨に命を奪われるものなのだ。自分に恵みを与える存在が、羽毛のように軽い一言が、太宰にとっては鋭い刃物と同じになる。自分は花ではない。もっと逞しい足を持つ、思考が取り柄の動物だ。花のように優美ではない。艶めかしくもない。けれども花と同じように、雨に心臓を貫かれる。

「私は高潔な処女でもなければ、地に咲く花でもない。それでも君はなお、私にそんな顔を向けるんだね」
「太宰」
「おかしいね、中也。私は今、ひどく泣きそうなんだ」
「そんなの見りゃ分かるだろ」
「はは、そりゃそうだ。じゃあ、怖いから泣くんだってことも分かってる?」

両手で顔を覆う。重い空気の塊が喉奥からせり上がってくる。鼻がつん、として頭が重くなる。視界が虹色に滲んで、中原の表情を隠してしまう。窓の外には六月の緑が息づいていて、何故か涙腺を緩ませる。

「何が怖いのかなら分かってる。もう、鮮明に」
中原は外を見ながら、独りごちるように言った。
「何だよそれ」太宰が言う。「何だかお前、今日はやけに詩人じゃねえか」中原の笑い声が、柔らかく響く。自傷の傷の一本一本に口付けが降る。むずがゆさに身体をよじってもすぐに抱きとめられてしまう。
唇が気まぐれに首筋を掠めて、不意に中原の指が、太宰の黒髪を一房、耳にかけた。「太宰」と。小さく、耳元でやっと聞こえる声量で、もう一度、中原は「太宰」と呼ぶ。

「何」
「俺も怖いよ」
はた、とする。太陽が雲から顔を出して、中原を照らした。束ねられた金色の髪の上に、光が転がっていく。脈打つ心臓が頭に移動してきたようだ。うるさい鼓動が反響する。
太陽はすぐに陰り、部屋の中が再び灰色で満ちていくのを見ると、太宰は無性に縋りつきたくなるが、じっと衝動を抑えて押し黙る。そうしているうちに包帯は完成していく。



中原は雑誌を開く。その横で景色を眺める太宰は、再び雨が降っていることに気が付いた。
「死にたくならない?」と問う太宰に、中原が「元気があるなら晩飯食えよ」と目もくれずに言う。
すっかり気分を削がれた太宰は、ランプの横にある自分のホルスターに手を伸ばす。中原の視線は雑誌に集中している。
墨汁をぶちまけたような、黒々とした拳銃を手にした。それでも彼は動じない。しとしとと雨が降っている。もう雨上がりではないが、未だに中原の横顔は余裕に満ちている。

やはりこれが彼の素なのだろうか。そうだとしたら太宰は苦痛に身悶えることとなるだろう。胸を締め付ける原因は、雨上りの中原なのだから。そう考えてもやっぱり胸はガラス細工のままで、夕飯は食べたくないままだ。
世界に置いてけぼりにされたようで気が気じゃない。まるで駄々っ子だ。自身を嘲笑しつつも実行はやめない。
銃口を中原の頭蓋骨に突きつけた。

「私と一緒に死んで」
一瞬の沈黙の先に、怒号や呆れを期待していた。足で一発蹴られれば、胸の内のガラス細工も、小さく小さく溶けていって、心臓の一部になるかもしれない、なんて思う。

銃口を突きつけたままの態勢は30秒も続かなかった。中原は深いため息を吐くと、髪をかきあげて「ああ」と答える。
「心中も悪くねえかもな」そう、ぶっきらぼうに続けた。太宰は銃口を当てたまま硬直する。
きゅう、と大きな音が鳴る。いよいよ胸は限界を迎えて、同じように思考回路も、感情の回路も焼き切れそうだ。

「中也、ごめん」
引き金に手をかける。
「別に良い」
中原は雑誌を閉じる。沈黙のあと、太宰が銃口を自分に向けた。
「この銃ね、おもちゃなの」
「だから別に良いって言ってるだろうが」
「気付いていたの?」
「それよりお前、晩飯のメニューを言えよ。晩飯の」

立ち上がった中原はクローゼットから自分のシャツを取り出す。律儀にも太宰にも着替えを手渡し、上着を羽織らせるが、憮然とした面持ちの太宰は「ねえ」と中原の腕を引くだけである。シャツを羽織る片手間に、中原は太宰の髪を梳く。
「逃げるなよ中原中也」
太宰はその手を払いのける。「逃げてねえ」と言い、中原は太宰の身体を掻き抱く。

拳銃が音を立てて床に落ちる。中原の香りが鼻腔をかすめる。この瞬間、雨が止む気がする。雨だけじゃない。虫の音も、雲の色も、世界は自分たちを置いて、半周早く周り続ける。半歩遅れた自分たちは、広い世界の片隅に、自分たちだけの世界を作っている気さえする。

結局のところ甘えているのは自分で、言ってしまえば馬鹿なのだ。覚悟が足りない、気力が足りない。それだけじゃない。ただ、毒されている。
突きつけた拳銃は本物だった。中原もそれを承知していた。
それでもなお、中原は了承した。その羽毛のように軽い了承は、皮膚を切り裂くナイフではなく、肌を包むブランケットに似ていた。

「カレー」
太宰が呟く。
「カレーか」
中原の背が震える。寒いのかと思い背をさすってやるが、反応が無い。それが単に笑いをこらているだけだと知ったのは、夕食を取り終わった、少し後のことだった。



瑞々しい六月の始まりが生きている。ぼんやりと景色を眺めながら、太宰は未だ降り続く雨に溶け込むようにして息をする。
太宰は雨上がりの雰囲気が好きだ。
窓に切り取られた景色は絵画のごとく、色鮮やかに生きている。だが窓の外から見れば、自分たちも絵画の登場人物なのではないか。別に絵画のように美しく生きたいわけではない。ただ疲れるのが嫌だ。そう心中でぐちってみるが、キッチンにいる中原には届かない。

夜のびろうどが空に敷かれ、また雲が敷かれ、分厚い天井に見下ろされるあちらの世界は息苦しいだろう。だがそれ以上に、何物にも変え難い、燻る好奇心をつつくものがあると太宰は知っている。窓に切り取られた世界はどちらも酷く不安定だ。

中原が太宰を呼んだ。「今行くよ」そう返してベッドを降りる。キッチンに向かおうとするが、ふと振り返り、窓を開けた。雨の空気が頬を撫ぜる。燃えるような緑の香りが部屋に流れ込んでくる。
この瞬間を表す言葉はたくさんある。

かしゃんとガラス細工が音を立てたとき。半周早い世界に追いついたとき。二枚の絵画が一枚になったとき。彼の大人びた微笑みが、心から好きになったとき。









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