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21歳の紀田くん。


煙がたゆたって消えた。夜のびろうどが何重にもかさなって、煙草の先端の赤い炎が一層色を増して見える。
ひと息ふかして俯く。口腔に満ちる苦味が、程なくして舌を焼く痛みに変わっていくのを彼は知っていた。
煙がするりと闇夜に引き込まれてしまう。どこからか、タイルを叩く革靴の音がやってきた。
振り向いて音の正体を確認する必要はない。タイルにこすれる革靴の音が、その人物の癖を表している。身震いがして息を吐いた。

「紀田くん。」

吐息と共に煙草の灰も落とされた。黒いコートを羽織って気分良く革靴を鳴らす彼に、「紀田くん」という青年は軽く会釈をした。
革靴の男は機械的に挨拶をし、からころと笑って見せた。

「夜更けにご苦労様。久しぶり。背伸びたねえ。随分と格好良くなった。そういえばもう成人したんでしょ。おめでとう。」
「どうも。」

革靴の男は鉄製の手すりに肘をつきつつ、律儀にどういたしましたと返した。男の言葉に目もくれない紀田は、再度消えかけの煙草から煙を吐き出した。冷たい風が二人の男の間を吹き抜けていく。距離が縮まることはない。

それは純粋な紀田の拒絶であった。またはそのものが適切な距離であり、単に煙草を嫌う革靴の男が煙を避けるために距離を開けたのかもしれない。とにかく二人の間を詰める術は無く、不自然に会話が途切れた。
手すりに煙草を押しつけて消す。紀田は俯いたまま、胸元のシガレットケースに手を伸ばす。

乾いた笑い声が広がった。革靴の男だった。この時初めて二人の視線が交わった。

情動が駆け抜けた。邂逅はたった数秒だけだったが、瞬間的なそれだけで、紀田は世界が自分たちのために緩慢に流れているという錯覚に陥ったのだった。
自分の皮膚を撫ぜる風は、黒い革靴の男の髪を揺らす風と同じではない。まるで自分だけが今に取り残されてしまったかのようだった。目の前の男が喉奥で笑っていた。紀田は唐突に胸がむず痒くなったが、咳き込むこともできず、ただ男を見つめていた。
男の白い爪が、ケースを持つ紀田の手首を引っ掻いた。

「、。」

力の抜けた手からシガレットケースが落ちて、無機質な音を響かせる。それを皮切りに紀田は現実に引き戻された。
先に動いたのは革靴の男だった。シガレットケースからこぼれた2本の煙草を拾い、一本だけを紀田に渡す。時間がひっくり返ったような感覚に動転しつつも、手渡された煙草を受け取るしかなかった。

礼も言うことができない紀田の様子を横目に男は、手慣れた動作で煙草を咥える。真似をするように紀田も渡された煙草を咥える。先に男の煙草に火を与えようとしたが、男はそれを拒んだ。紀田は自分の煙草に火をつける。男は紀田の煙草の先端に自らのを重ねた。真っ暗闇のびろうどが黄緑色に色あせていくのが分かる。炎は二つになった。

「煙草は嫌いなんだけどなあ。」

男は涼しい顔をしてそう言った。燻る煙草の煙は空へと立ち上っていく。二つの煙が一つになる。
皮肉にも聞こえた言葉に顔をしかめそうになったが、そのうち男は手すりに突っ伏してしまった。

「無理して格好つけなきゃいいのに。」

男はいいんだよと突っぱねて、もう一度煙草に息を馳せた。俯し気味にむせ返る男は、早く大人と認められたいが故に意地になる幼子のように見えた。
少しの間、惚けるようにして紀田は言葉を模索していた。煙草を嫌う男がわざわざ好まないものを口にする理由を、紀田は漠然と理解している。それは男にとって一種の逃避であり、何かしらが原因で弱り果てた末のものである。
なるべく綺麗な言葉で男を包んでやりたかった。だが、男に対してキザな言い回しや口説きは無意味に思えて、直ぐに諦めた。少しの間、己の惨めさに身を縮めた。
当たり前のように会話は無かった。もうすぐ夜が明けるだろう。

ビル群の隙間からほのかに薄暗い光が差し込んでくる。光は波紋のようにゆるやかに広がっていって、霞を思わせる不透明さを持ちながら雲間に流れていった。小さな太陽が起き上がり、風は蜻蛉色に色づく。新宿の雲はどことなく平べったい。

男が笑った。思わず紀田も口元が緩む。煙がたゆたって消えた。夜のびろうどが薄く剥がれて、煙草の先端の赤い炎が太陽に溶けていく。
紀田は男に言った。

「おかえりなさい。」

男はもう一度煙草をふかした。





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