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一人暮らしには度の過ぎたマンション。黒いソファが硬いのはあの子が気に入っているから。白い壁紙に傷が無いのはあの子の気分を害さないように毎日手入れをしているから。
インテリアとして配置された観葉植物も淡白なこの部屋の差し色としては幾分浮きがちだ。それでもあの子は気にしない。端から部屋の色合いなど眼中に入れる事すら面倒なのだろう。
臨也があの子の為に何を尽くそうと、それは意味を成さない。仕舞いには言葉さえ途切れて道端へと捨てられる。努力が何物も生み出さない結果として実に良い例だ。


「臨也さん。見ましたかお昼のドラマ。」

また始まった。私は遠く鳴り響く偏頭痛の足音を微かに感じた。

「ああ、そうだね正臣くん。良く分かってるよ。パソコンはやっぱり機能性だけじゃないと思うんだ。デザインとか、ほら、色々あるだろう?」
「俺もそう思います。何だか最近お腹が痛くて。病気とかじゃ無いと思うんですけど。」
「そうかな? 違うなあそれは。抹茶はアイスが一番美味しい。」
「それは同感です。お魚はお刺身が一番ですよね。」
「うん。たい焼きはやっぱり頭からだよね。」
「いいえ。ちゃんとご飯は残さず食べてください。三食しっかり食べて。」

会話という仕切りの中で、お互いただ無意味な言葉を打ち返しているだけ。傍から見れば脳の異常を疑うだろう。手にしていた書類をわざとらしく机に散らす。最後には棘を一本ずつ刺していくような、臨也の濁った笑みだけが帰還してきた。

「波江さん、不満?」
「何が。」
「俺達の会話。」
「別に。悪いけど脳の検査はお勧め出来ないわ。もう手遅れだもの。」

書類を束ねる白い手が、彼の喉仏が鳴る度にはねる。横目で紀田正臣のどこか諦めた苦笑をかすめれば、どこともなく溜息が洩れた。

「あなた達の会話に何の意味があるのかしら? そもそも貴方、楽しいの?」

その問いに紀田正臣は何度か丸い猫目をぱちくりとさせる。何やら考えこんだ後に「全然」と口を開けば、それに連動して臨也は男にしては華奢な肩を揺らすのだ。それが何だか意味も無く神経を逆撫でして、でも何故だか憎みきれない。
もう一度、咎める意図を込めて溜息を吐く。悪戯っ子に似た笑みが、二人の顔にそっくり浮かんでいた。




「気になっちゃうんだ。」

二人きりだけの空間で、臨也の声が弾む。先程と同じ悪戯っ子の笑み。本来、私のみでは決して見ることの出来なかったであろう笑み。彼の不躾な質問でも、その笑顔のせいで稚拙ささえ伺える。

「……何だよ。」
「別に。随分と嬉しそうにしているから。聞いて欲しいの?」
「俺はさあ、波江さんのそんな顔初めて見たよ。」
「あら、奇遇ね。私もよ。」

口巧者も流石にもごもごと言葉を濁した。咳払いで、思わず零れた笑いを隠す。口先を尖らせた彼は油断していたのだろうか。ふにゃりと破顔した自らの顔を、恥じるように書類で覆った。

「…………俺と彼の会話にはちゃんと意味があるんだ。別に無意味な会話なんかじゃない。」
「頭がおかしくなったのでもないのね?」
「ちゃんとしたね、意味があるんだ。」
「書類で声が篭って聞こえないわ。」
「波江さん何でそういうこと、ああもう嫌だ。何で俺は君を雇ったんだろう。」

くるりくるりと回転式のソファで回る彼。そうして項垂れながらも、どうせ頬は紅潮しているのだろうと想像出来る自分に嫌気が差す。午後五時半のコーヒーが鼻腔をかすめる。少し気分が晴れるのを感じた。
時計が長針を二針進めた所で、臨也は机に突っ伏す形で、ぼそぼそと答えを紡ぎだす。

「キーワードがあるんだ。あの子は頭が良い。賢い子だよ、まあ俺ほどじゃあないけど。だから喋れる。例えば、パソコンは日常生活で使うだろう? だから、日常生活を彩るもの。俺の昼間の、ああ、何だっけ。」
「"パソコンは機能性だけじゃない。デザインもあるだろ。"」
「そう、だからそれと組み合わせてね。俺はさ日常生活において、ただ機械的に動くだけじゃあつまらない。ちゃんとした色を、感情を持った方が良いってことを言っていたんだ。分かるかい? 俺達はそんな面倒臭くて嫌で皮肉な会話しか出来ないんだよ。」

何よそれ、という言葉が口をついだ。臨也は相変わらず机に雪崩れ込んだままだ。散らばっている書類を分類わけしてから机に置き直す。ガラステーブルに居座る、既に体感温度と同化した自分のコーヒーを、勢い良く煽った。

「何よそれ。」
「波江さん何か混乱してない?」
「くっだらない。面倒臭い。嗚呼、嫌になる。馬鹿なんじゃないかしら。いいえ馬鹿ね。忘れてたわ。」

ひと時遠のいたと感じた偏頭痛が、確固たる足取りでまた近づいてくる。頬を机に擦り寄らせてブーイングをする彼。呆れと同情が繰り返し掘り起こされていくのを胸奥で味わうことになろうとは。

「それで、あの子なんて答えたの。」
「"お腹が痛い。でも病気じゃないです"。あの子、お腹弱いだろ。いつも腹痛起こしてる。だから、俺の言葉すら日常的で、大した変化は見られないってことじゃないの。俺の自虐と訳し方が間違っていなければ。」
「多分訳は完璧よ。いいえ、もっと酷いかも。」
「それこそ酷いや。」

流れ込んだカフェインが口腔に苦味を広げる。彼もコーヒーを口に含む。まるで妬け酒みたいだなと、今度こそは言葉にする前に心中で思いを溶かした。
黒いソファ。白い壁紙。毒気さえ感じる観葉植物。家具洋品店のバーゲンで買ったなんて彼がうそぶく、あの子専用のクローゼットはイタリア製。ぶつぶつと呪詛を巻く彼の要塞は、精神的にも物理的にもあの子を蝕んでいるのだと思うと肌が粟立つのも仕方が無い。

「……言えば良いじゃない。どこにも行かないでって。」
「嫌だよそんなの。」
「面倒臭い会話なんてせずに、ちゃんと目を見て話せば良いじゃない。」
「……嫌だよ。」
「意気地なし。」
「……うるさい。」

黒髪を一瞥して、マグカップを片手にコーヒーメーカーへと歩く。そもそも会話とは人間が古来より意思の疎通を図る為に使用されてきた一つの手段だ。わざわざそれを投げ捨てて合っているかも分からない語句の弾き合いを求めるなんて、と考えたところで冷めた。面倒臭い。面倒臭い。何て奴等だ。カフェインがより濃さを増した。漂うあの子の残り香と交わったように感じる。
飽きもせずに机に頬を重ねる臨也。無造作に床に落ちているコート。そこから除く携帯。どうせパスコードはあの子の誕生日で、ロック画面の夜景を越えればあの子の寝顔が映し出されるのだろう。
減給されようが知ったことではない。部下の扱いを知らない男は、金の扱い方も横暴なのだ。
どうせ駄々をこねてこのまま睡眠へと身を投じる上司が居るのなら、あたかも彼の振りをして恋人のあの子へと誘いをかける部下が居たとしても、可笑しくは無い。








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