殺されると、思ったのは初めてだった。今この男の機嫌を損ねてしまえば、私の首は角度を変える。一般人の私でも、それぐらいのことはわかった。それほど、目の前の男は危ない。ただ立っているだけだというのに、腹の底をつかまれたような薄気味の悪い感覚を私に与える。もう声などでなかったし、声をかける気にもならなかった。言葉もでぬまま、私達は見つめあった。鋭い目が、私を狩ろうとする。私の眼は今、震えている。逸らせば終い。私に分かるのはそれだけで、他に何もできることはなかった。
砂を踏みにじり、彼が三歩前に出る。私は後ろに退くこともできないので、彼の腕の範囲まで距離が縮まった。つーん。と少しだけ鼻を刺す鉄の匂いがした。原因はまぎれもなく男で、しかしそれ誰のものなのか私には判別がつかない。彼の骨ばった指が、私の腕を掴んだ瞬間、私は痛みと恐怖で彼の目から視線を下に外した。それを彼が見逃すわけもなく、瞬く間に私は彼に組み敷かれた。カーペットが敷いてあれど、勢いを殺せぬスピードで叩きつけられれば痛みは強い。恐ろしさで閉じた目が開かれると、彼の顔と天井が眼前に映る。また目が合う。目つきは先ほどと寸分も変わらず、私に恐ろしいことが待ち構えているのではないかと思うことは簡単だった。
彼は顔を私の首元へと持っていくと、私の首に噛みついた。情けない私は痛いと叫ぶ。手加減されているのだが、私の柔い肌は彼の犬歯を簡単に受け入れ、だらだらと血を流す。生ぬるく、粘っこい舌が流れた筋を舐めるので私は身震いする。ハッ、と彼が言った。笑ったのかもしれないが、私はその表情を見ることはできない。それと同じく、ゴソゴソと私の体を大きな手が這う。そこでやっと、私は殺されているのではなく、犯されているのか、と現状を把握した。すると今まで動くことができなかった四肢が、水を得た魚の如く動き出す。手が彼の胸板を押し、足は溺れているように、右往左往にも暴れたが、彼の力は私の貧弱な力をすべて許容し、服従させるほどの大きなものだった。どれだけ暴れても、平気で行為を進めてくるのだ。傷みと熱で、私の力はだんだんと無に近くなる。ただ痛みで甲高い声をあげて、荒い息を繰り返すだけの女になる。わめく私が煩いのか、彼は食いつくように私に口付けた。短い呼吸の間に、金魚のように息を吸う。声をあげられなくなった私は、彼のあちこちに爪をたてた。私の爪はきれいに切り揃えたばかりなので、彼の肌に傷をつけることができなかった。
「なんでいるんだ」
その問いはあまりにも突然だった。そしてあまりにもひそやかで、重苦しいものだった。燻っている火種のような、線香花火が爆ぜる手前のような不安定さだ。その声色で、私の感覚は私と彼以外を感じ取る。床からひんやりと、冬の寒さが包み込んでいた。なんでいるんだ。と男は言ったのだ。先程まで暴れていた手に余る感情を無理やり押し込めてまで、私に尋ねた。彼は胸を上下させ私を見つめ、答えを待っていた。それはいつ爆発しても可笑しくはない。一時的なものだ。だが、その質問はあまりにも不鮮明だった。私の部屋だから。という答えは正しいが、それは彼の求める答えと違う。彼の拳が振り上げられる。私の顔のすぐ横の床に、それは叩き付けられた。もう一度、言葉を繰り返された。なんでいるんだ。どうして。これは質問なんてものではなかった。私への罵倒だ。なぜ、まだ、ここにいる。と声を枯らした。なんて声だ。これじゃあ、泣き声じゃないか。
「あんたは、ちっとも悪くない」
「違う。そうじゃねえ」
「違うなんてことはないわ。フィンクス」
「違う。聞きたいのはそれじゃない」
「これで、いいのよ」
フィンクスは聞きたくないと、しかし縋るように私の肩に顔を預ける。背中の、乱れた服の下から、乱暴だった彼の腕が、力なく這う。熱い息が首にかかる。私は彼を抱きかかえるように、腕を回した。
いずれこうなることは、予想がついていた。再会したあの日から、私たちは急速に距離を戻していった。そして、新たな道を歩み始めた。それはあの場で起きたかもしれない選択肢の一つ。初めに捨てようとしたのは私。引き寄せたのはこの男。覚悟を決めたのは私。そして、壊したがったのがこの男。この男は先のことなど考えもしなかったのだ。私の思いも、自身の胸の内も、見て見ぬふりで瞬間を楽しんだ。
「子供のころから全く捨てられないのよ」
「そんなのは、知っている」
「これでも捨てたつもりだったのよ。けれど、引きずっていただけだった」
「ならここで断ち切ればいい」
「そうできないことを、あんたは知っているわ」
「なら次は、おれが捨てる」
「あんたはそれができるほど寡欲でもないよ」
彼は私の背中の腕に力を込めると、私を抱きかかえ床に座った。私の肩から顔を外して、私を見下ろす。狼狽えているのか、瞳が揺れる。私はまっすぐ彼を見る。愚かだと知っていても、私は彼を捨てられないし、彼はとても欲深く、私が欲しい。
いずれ落ちる柘榴になる