遠くのきみを
劉備と尚香の関係が原作とは異なっています。
原作と異なる設定が苦手な方は閲覧をお控えください
 尚香が、宮廷にある自分の宮に篭っているらしい。
 そんな噂が宮廷内にまことしやかに流れているのも、劉備の元から帰国した日から彼女の姿を見た者が誰もいないからだった。
 勿論、彼女の宮で働く侍女達は彼女の様子を知っている。
 だが、尚香から宮の外の者達に尚香の様子を言わないように侍女達に申し伝えているためか、彼女を心配した将官達が侍女達に声をかけても、芳しくない答えしか得られなかった。
 魯粛達の策で劉備の元から帰国させられた尚香が、帰国から数ヶ月経った今でも、かの地を懐かしみ思い詰めているのではないか。
 いや、かの地で病を患い、床に伏せられているのではないか。
 様々な憶測がされるが、真相は闇の中だ。
 活発な彼女が宮に篭っている事が、悪化する劉備の陣営との関係と相まって、宮廷に暗い影を差した。
 嫁ぐ前の彼女がそうだったように、活発に城の中を巡り、鍛錬に参加する尚香の姿はもう見られないのだろうか。
 宮に篭もったまま出てこない彼女に、以前の彼女が戻ってくる事を無意識に期待していた事に気付かされて、将官達は心を痛めた。



 ☆



 孫権が練師に声をかけたのは、立夏の頃だった。後宮に植えられた木々の枝には若葉が萌えて陽の光を透かして煌めき、芍薬の花も庭のあちらこちらで咲きこぼれている。
 孫権は、後宮にある練師の宮を訪ねて彼女の歓待を受けた。
 練師の穏やかで美しい笑みを見て、孫権は今日も安らぎを得る。手土産に持ってきた貴重な茶を練師に渡すと、練師は目を輝かせて喜び、茶器を用意して早速煎じた。
 二人で練師の淹れた茶を飲みながら、語らう。
 練師はあらゆる事に造詣が深く、孫権の語る話に的確な合いの手を入れてくれる。
 それに孫呉を率いる孫権に対して、出過ぎた発言もする事がない。練師の心地良い受け答えに、次第に孫権は饒舌になり、練師との会話を楽しんだ。

「……ところで、練師。お前に頼みがある」
「私に、ですか……?」

 ひとしきり語り合った後、願いを切り出した孫権に練師は小首を傾げて問いかける。
 練師の結わえられた長い黒髪が背中で揺れた。

「ああ。というのも、尚香のことなのだが」
「姫様が、どうかなされましたか?」

 尚香の名前を出されて、練師は孫権に向き直る。思わず身を乗り出したくなる気持ちを押さえた。
 尚香が宮に篭り、侍従達以外の誰にも会わずにいる事を、勿論練師も心配していたのだ。

「尚香が宮に篭っているのは、お前も知るところだろう。その尚香から書簡が届いてな」
「書簡ですか?直接お会いされたのではなく?」
「あの通り、頑固な娘だ。蜀から連れ戻したのが気に入らず、まだ臍を曲げているのやも知れぬが、私の顔をまだ見たくないようだ」
「姫様もお考えがあっての事と存じます。孫権様に書簡をお送りくださったことも、大きな進歩かと」

 練師が気遣うと、孫権は小さく頷いた。

「ああ。どうもあれの元気が無いと、私も調子が狂う。複雑な気持ちでいたが、書簡が届いて少し安堵したのも事実だ。一体何を書いているのかと思えば、髪を整えて欲しいと」
「御髪を、ですか」
「長い隠居生活で、すっかり伸びてしまったようでな。自分では、綺麗に整える事が出来ぬから、出来れば練師。お前に頼みたいとの事だ」
「姫様が、私を……」
「頼めるか?」

 孫権の問いかけに、練師は頷く。
 長く護衛を務めた尚香のたっての願いだ。練師には断る理由が無かった。それに、彼女が自分を指名したのは、彼女の心が助けを求めている故ではないかと、練師の胸を焦燥が満たした。

「ええ。勿論、お受け致します。いつ参ればよろしいですか?」

 今すぐにでも会いに行きたい気持ちを抑えて、練師は孫権に問いかける。

「明日、昼食を摂った後に訪って欲しいそうだ。土産はいらぬと書いてあったぞ」
「まあ。姫様らしいお言葉ですね」

 練師が微笑むと、孫権も気持ちが解れたのか笑みを見せた。
 尚香の宮は練師の住まう後宮の近くにあったが、兄の孫権さえも会う事を拒否している尚香の気持ちを無視して訪ねる事が、練師には出来ずにいた。
 その尚香が、まず自分に会いたいと願ってくれた事が嬉しく、同時に不安が胸に広がった。
 あの頃のように快活な彼女に、会えるのだろうか。
 例え彼女が練師の知る明るさを失っていても、練師は彼女の心を支えたいと願う。
 そして、練師には尚香に伝えておきたい事があった。
 明日は、晴れるかしらと練師は西の空を見やる。
 久しぶりの尚香との再会は、晴れやかな日であって欲しかった。







「久しぶりね、練師。元気そうで良かったわ」
「姫様も。息災な御様子に安心致しました」

 久しぶりに会った尚香は、勝ち気な瞳を輝かせて練師を自ら出迎えてくれた。
 表情に心配していたような翳りはなく、練師は胸を撫で下ろす。
 天気が良いからと尚香に誘われて、中庭にある四阿に向かう。練師と二人きりになりたいからと、尚香は侍女達を下がらせた。
 ニ年前、劉備の元へ嫁ぐ姿を見送った頃より尚香の髪はずっと長く伸びていた。
 練師に髪を整えて貰う予定の為か、結い上げて髪飾りを挿す事をせずに、無造作に背中に垂らしている。
 中庭を歩く尚香の黄褐色の髪は、陽射しを浴びて明るく輝いている。
 練師は髪を長く伸ばした彼女を見るのは初めてで、見知らぬ人の背中のようだと少しだけ寂しさを感じた。
 四阿に着き、尚香は練師に長椅子に座るように勧める。練師が座ると、隣に腰掛けた尚香は練師のほっそらとした腕に触れた。
 その掌の温かさは、練師の知る尚香と同じだった。

「急なお願いだったのに、来てくれてありがとう。驚かせたんじゃない?」
「ええ。驚きましたが、とても嬉しく思いました。姫様が私を御指名下さった事も、親しい人に会いたいとお考え下さった事も」
「……心配かけてごめんなさい。あなただけじゃないわね。権兄様も、きっと将達も、沢山の大切な人達に心配をかけてしまってるわ。……でも、これは私の意地なの」
「意地……で、ございますか?」

 練師は、尚香に穏やかに問いかけた。

「うん。練師、私ね。また戦いに出ようと思う」
「姫様……」

 尚香は、ひたむきに自分を見つめる練師から、そっと視線を逸す。

「私が玄徳様の元から戻るやいなや、私との縁談を求める書簡が沢山届いたと権兄様に聞いたわ」
「姫様、それは……」
「どの縁談も、きっと孫家とより強固な関係を築きたい為だと思う。私と結ばれたいのじゃなく、孫家と結ばれたいと考えているのだわ。だって、お互いに顔も知らないのよ」
「良縁もあるやもしれません。それに孫権様なら、孫家との繋がりを求めるだけの不遜な者に姫様をお渡しにはなられません」
「そうね。権兄様を信じてる。でも、全部断ってと言ったわ。寄越してくれた書簡も受け取らなかった。顔を出して見つかったら、縁談の話になるから、権兄様が諦めてくれるまで宮から出ない事に決めたの」
「もうご結婚は、されたくないのですか?」

 練師の問いかけに、尚香は小さく頷く。固く結ばれた唇が、どこか頑是なく見えた。
 彼女の心情を思うと、再婚を拒む気持ちも分かる。尚香は国家間の命運も背負って、劉備に嫁いでいたのだ。
 軍司達の策で結婚し、また別の策で帰国させられた。運命を人の手で翻弄されたと言って良い。
 だが、再婚を拒むだけではなく、戦に出たいとなると、また話が別だ。
 孫権が頑なな姫君に頭を悩ませる気持ちが、練師には分かった。

「……姫様。戦場に出れば、いずれ劉備殿の兵とも戦う事になります。姫様は、劉備殿の兵達に圏を向ける事が出来ますか?」

 練師の厳しい問いかけに、尚香は悲しそうに瞳を翳らせる。だが、意を決したように練師を振り返り、その手を握った。

「……きっと出来ないわね。それでも、呉の兵達に向けられた刃を受け止めて、守る事なら私にも出来るわ。戦いでなら私はちゃんと私自身の力で呉を支えられていると実感出来る。例え、戦場で力尽きる事になっても、生き抜いた証だと思えるわ……」
 
 尚香は悲しみを振り切るように毅然と言って会話を打ち切ると、練師に背中を向けた。拒絶されたように感じたが、背を向けたままじっとしている尚香に自分の務めを思い出す。
 髪を整えて欲しいのだろう。
 練師は長椅子の側の卓に既に用意されていた鋏を手に取って、尚香の柔らかい髪に触れた。







 尚香の指通りの良い長い髪を摘み、練師は鋏を入れた。切られた髪がはらはらと足元に舞い落ちる。切り過ぎてしまうといけないので、少しずつ丁寧に切る。
 尚香の黄褐色の髪は、陽の光を透かすとさらに明るい色に見えた。ハリのある練師の黒髪とは違い、柔らかく細い。
 彼女が嫁ぐ前に、こうして尚香の髪を整えた時も、彼女の髪を羨ましく思ったのを覚えている。
 それを彼女に伝えると、私は練師の綺麗な黒髪が羨ましいわと言われた。
 尚香は考え事をしているのか、練師に背を向けたきり無言のままだ。
 練師は無理に尚香に話しかけず、彼女の気持ちを慮った。

「……私ね。好きな人がいたの」

 長い沈黙の後、尚香が静かな声で呟いた。
 
「姫様がお好きな方……。劉備殿でございますか?」

 練師が問いかけると、尚香は小さく頭を振った。

「玄徳様は、素敵な方よ。覚悟を決めて嫁いだのだもの。彼とは家族になりたかった……」
「よろしければ、姫様。あちらで、どのようにお過ごしになられていたのか、この練師にお聞かせ願えませんか?」

 尚香は、練師に背を向けたまま小さく頷くと、劉備の元で過ごした日々を語りだした。
 劉備の妻として迎えられた尚香は、異国の地で家族を持つ事を願っていた。
 自分が劉孫同盟の要である自覚があり、また劉備の夫人として、二度と呉の国には戻ることは出来ないだろうと覚悟を決めていた。
 夫である劉備は魅力に溢れる人物で、仁の世を目指す志に敵うだけの大器であった。
 尚香よりも遥かに年上で、今は亡き父と年齢が近いが、尚香を大切に扱ってくれた。
 尚香は孫家に生まれて、家族の繋がりを大切にしてきた。
 だから、嫁いだ先で劉備と共に新たな家族を作らねばと息巻くように考えていたが、尚香を労り、気遣う劉備の胸には、未だに亡くした夫人達の存在が大きくある事にも気付いていた。
 尚香が嫁いで一年程が過ぎた頃、劉備は兵を引き連れて益州に遠征に向かった。
 その時、劉備が側を離れた尚香の護衛として差し向けた人物に、尚香は驚いた。
 その人は、劉備が重用している将の趙雲であったからだ。
 夫人の警護を任せられるのは、腕の立つ宦官が務めるのが慣例だ。
 だが、趙雲が尚香の護衛として指名された事で、尚香は劉備にとって自分はいつまでも呉の孫家の娘で、劉備の夫人ではなく彼にとっての賓客なのだと気付いてしまった。
 現に、劉備は婚姻の日から今まで尚香に妻として触れた事がなかった。
 年が離れているせいで、時間をかければ関係を深めていく事が出来ると尚香は思い込もうとした。
 けれど、彼と自分との距離を考える程に、固い絆で結ばれた彼の元に集う者達の輪の外に自分がいるように思え、尚香はいつしか呉を懐かしむようになった。

「玄徳様も、娘ほど年の離れた私をどう扱って良いのか分からなかったのかもしれない。それでも、異国で家族を得られない事も、呉に戻ることが出来ないことも、私一人の力ではどうしようもなかったわ」

 呉にいる家族や仲間達を懐かしみ、夫とも上手く育めなかった愛について考えていると、一人の男の姿が尚香の胸に浮かんだ。
 彼の穏やかな眼差しや、自分の名を呼ぶ声を思い出しただけで、胸の奥が甘く痺れた。
 その感情は甘美さと切なさを尚香にもたらした。

「……私、とっくに好きだったの。玄徳様に嫁いでから気付くだなんて、なんだか皮肉ね。だから、魯粛達が呼び戻してくれて、もう帰れないと思ってた孫呉に戻れる事になって、本当はホッとしたし嬉しかったわ。皆に会えるのも勿論嬉しかったけど、またあの人にも会えるって、帰りながら気持ちが逸ってた」
「そんなに焦がれた方がいらっしゃるのに、どうして宮から出てお会いにならないのですか?」

 練師が問いかけると、尚香は毅然と細い顎をあげた。彼女の動きに合わせて、柔らかい髪が背中で揺れる。

「帰りながら、気付いたの。私が嫁ぐ位なのだから、歳の近い彼はとっくに夫人を迎えられているわ。私が戻ったって、彼の隣にはもう然るべき方がいる。そして、私もまたどこかの誰か……、顔も知らない人のところに嫁ぐ事になるんだって」
「……姫様」

 練師は、尚香の髪を切る手を止めて、彼女の細い肩に手を置いた。その肩は、微かに震えている。

「それなら、戦士になろうと思ったの。女の私だけど、嫁ぐのじゃなくて、戦う事で孫呉の役に立ってみせるわ。だから、練師。思い切って昔のように短く切ってくれても良いのよ。長いと、戦いの邪魔になるわ」

 前を見据えたまま言う尚香の肩から手を離し、練師は片手にある鋏を卓の上に戻すと、尚香の向かいに移動して跪き、彼女の手を握った。
 毅然と顎をあげていた尚香が跪く練師を見下ろした拍子に、その大きな瞳から涙がひと粒流れ落ちた。
 涙を見られた気まずさからか、痛みを堪えるように笑おうとする度に、涙がひとつまたひとつと尚香の頬の上を流れ落ちる。
 そんな尚香の心の痛みを感じて、練師の胸が痛む。

「……姫様。お心の内をお教え下さり、ありがとうございます。お辛う御座いましたね……」
「ありがとう、練師。でも、私の勝手もここまでね。権兄様が、縁談を諦めて私を戦いに出してくれない限り、宮に籠城するつもりだったけど、これ以上、皆に心配をかけたくはないわ」
「姫様が宮からお出になられましたら、孫権様も皆も喜びます。……姫様、それと私からも姫様にお伝えしたい事が御座います」
「……私に?」

 気丈な姫は空いた手の甲で涙を拭い、練師を見つめた。普段は、涙を人に見せぬ為、気恥ずかしさからか頬がほんのりと紅く染まっている。

「姫様の縁談は、姫様のご要望通り、全て孫権様が退けました。ただ、お一方だけ、何度断っても縁談を乞い続けられている方がいらっしゃります」
「奇特な人ね。それとも、どうしても孫家と繋がりたいのかしら」

 尚香が呟くと、練師は掌に包んだ温かい尚香の手を握り直して微笑んだ。

「陸遜殿です」
「……え!?ど、どうして陸遜が……?」
「何故かは、私より姫様の方がお分かりになるのではないですか?」

 練師が問いかけると、尚香の頬がさらに朱に染まった。翡翠色の瞳が戸惑いと期待に揺れている。

「だって、もうとっくに婚姻しているんでしょ?私を迎えたい理由が陸遜にはないわ」
「……陸遜殿は、姫様が嫁がれた後に薦められた縁談を全て断ってこられました」
「……」
「もう、何故だか理由は良くお分かりの筈。孫権様も姫様に伝える術がなく、私にこの件を託されました。良ろしければ宮を出て、私と共に陸遜殿に会いに行きませんか?」
「……少し考えさせて」

 練師の問いに答えた尚香は、視線をあげる。まだ涙に濡れているが、その瞳の輝きは、練師の良く知る尚香のものだった。









 五日後、尚香は練師と共に謁見の間にいた。

「全く、頑固者なところは誰に似たのか。臍を曲げたまま一生宮から出ぬつもりなのかと、心配したぞ」

 先に玉座に座り待っていた孫権は、久しぶりに会った妹を咎めながらも、尚香の息災な様子に安堵したようだ。
 謁見の間には、孫権達以外の者はいない。暫く三人で語らっていると、静かに正面にある扉が開かれる音が聞こえた。
 扉を開けて入ってきたのは、陸遜だ。玉座の側に立つ三人の姿を認めて、その場で礼の姿勢を取る。
 孫権が労いの言葉をかける前に、尚香が彼をめがけて駆け出した。練師が肩口で綺麗に切り揃えた髪が、彼女の動きに合わせて跳ねる。
 駆け寄る尚香に驚いて礼の姿勢を解いた陸遜の腕の中に、尚香が飛び込む。
 陸遜の背にしっかりと腕を回して離さない尚香の背に、陸遜の腕がおずおずと回された。

「ふふ。我が妹ながら見せつけてくれる。人払いをしておいて正解だったな」
「お二人共、とてもお幸せそう。この場に立ち会う事が出来て、嬉しいです」
「これから諸々の準備で忙しくなるな。出来れば練師、尚香を助けてやってくれ」
「はい。慶んでお受け致します」

 孫権と練師は、いまだ離れずに抱き合う若い二人を見つめながら、来る日に想いを馳せた。

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正史では帰国後の記録がなくなり、生死が不明な尚香に生きていて欲しいなと思い書きました。
また、中文の考察記事で二人が帰国後に結ばれていた仮説もいくつか読んだので、思いきって話にしてみました。
作中の解釈や設定は、あくまで私の考えたものなので、原作・史実とは一切関係ない事を改めてお伝えいたします。
尚香が生きていてくれたなら、これから長く続く二人の人生が幸せなものだと良いなと願ってしまいます。
ここまで読んで下さりありがとうございました。

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