あなたを守る場所

陸遜の弟の陸瑁が登場します。
プレイアブルキャラではないので、私が性格や見た目等を自由に設定して書いています。
そうした創作が苦手な方は閲覧をお控え下さい。
 ふと涼やかな風に頬を撫でられ、陸瑁は顔を上げた。
 思わず窓から表門の方を見たが、人の訪れた様子は無かった。
 兄の陸遜が、丹陽郡の南西部で起きた山越の乱を鎮圧する為に出立してから、早一ヶ月が経った。
 当初は十日程で戻れる予定だと聞いていたのだが、まだ兄の帰還を知らせる便りはなかった。
 此度の遠征は軍師の補佐役として参加し、軍議で乱を鎮める為の策が決まれば建業に戻る予定だと兄には聞いていたのだが、何か戻れぬ理由が出来たのだろう。
 生真面目な兄は、幼い頃から人任せにする事が苦手だ。立案した策を成功させる為に、戦地を離れられなくなった様子が目に浮かんだ。
 兄とは違い、陸瑁は仕官をしていなかった。兄の後を追うように従祖父の陸康の元で学んでいたのだが、自分の役目は内から一族を支える事だと考えていたからだ。
 長兄である兄が、一族の再興の為に士官をして働いてくれているからこそ、彼が守る家を支える者が必要だ。
 江東に名を馳せる陸家の邸には一族の者だけではなく、下働きの者達も住み込みで働いている。一族だけではなく、彼らの生計も立ててやらねばならない。
 そんな陸瑁の器量を見て、仕官をしない事を勿体ないと嘆く親族もいたが、陸瑁は陸家を切り盛りする事に、これまで学んだ事を十分に活かせていると感じていた。
 兄が旅立った頃は夏の盛りで、陽射しが強く、邸の外にいると立っているだけで額に汗が滲んだ。だが今では、秋めいた涼やかな風が頬を擽るようになった。
 出来れば冬が訪れる前に、兄には戻って来て欲しいものだ。
 陸瑁は兄の無事の帰還を願いながら、兄のいる南西の方角の空を見た。秋らしい鱗雲が空を覆っている。
 物静かな兄だが、彼のいない邸は色彩を一つ失ってしまったかのように冴えなかった。
 今月の支出をまとめる帳簿をつける為に、広間を出た陸瑁が自室に向かっていると義姉の尚香に会った。
 遠乗りにでも出かけるのだろうか。艶やかな服では無く、兵卒が着るような動きやすい漢服を着ている。装身具も耳飾り以外はつけてはいないが、彼女の持つ華やかな雰囲気は、些かも損なわれてはいなかった。
 背には矢の入った矢筒を背負い、帯に弓を留めている。弓腰姫の通称通りの姿は、堂に入っていた。

「義姉上、お出かけですか?」

 通りすがりに陸瑁が声をかけると、尚香は立ち止まって笑みを見せた。

「ええ。今日は天気が良いから、隣の街まで遠乗りに行こうと思って。厨の手伝いに行った時にその事を言ったら、ついでに夕飯のおつかいも頼まれちゃったの」
「義姉上にですか?食材を求める使いなど、当主の夫人に頼むべき事ではございません。後で、私から注意しておきます」
「あら、構わないわ。私がどうしても桃饅を食べたいと言ったの。それなら、材料も私が買ってくるのが筋ってものじゃない?」

 尚香に瞳を輝かせながら言われて、陸瑁は言葉が見つからずに微笑んだ。
 尚香は兄が仕える孫権の妹姫だが、陸瑁の知る良家の娘達とは規格外な存在だった。
 行動力があり、自分が出来る事は自分でするのが心情のようで、深窓に籠もって手仕事に励む女性では無かった。
 だがそんな彼女の行動が、陸瑁の目には好ましく映った。

「陸遜から便りは来た?」
「残念ながら、まだです……。ですが、城郭の門が閉ざされる刻限まで、まだ時間があります。もしかしたら、使者がこちらに向かっている途上かもしれません」
「そうだと良いんだけど。でも、あんまり音沙汰が無いと心配ね。こちらから様子を見に行ってみようかしら」
「と、とんでもない!義姉上が自ら戦地に出向かれたら、兄に叱られます。どうかお控え頂ください」
「ふふ。分かってるわ。言ってみただけよ」

 慌てる陸瑁を見て、尚香が目を細めて微笑んだ。その笑顔が陸瑁にはとても魅力的に見えた。
 兄と共に育った陸瑁は、そんな彼女に惹かれる兄の気持ちが良く分かった。
 誠実な兄は、孫家の娘だから尚香を求めたのではない。ただ一途に、こうした彼女の気質に惹かれたのだろう。
 婚姻して間も無い兄夫婦だが、山越の起こす乱は度々起こり、兄は家を離れる事が多かった。
 なので皮肉な事に、連れ合いである兄よりも、邸を切り盛りする陸瑁の方が、尚香の側にいる時間が長い。
 陸遜と面差しの似ている陸瑁を尚香も親しみ易く感じたのか、打ち解けるのに時間はかからなかった。
 幼い頃から家督を継いで一族を守ってくれている尊敬する兄の為にも、新しい家族を守らねばならないと思う。
 気丈な姉は皆の前では心配を態度には出さないが、日に何度も表門の外に立ち、道の彼方を伺っているのを陸瑁は知っていた。
 兄からの便りを運ぶ使者を待っているのだ。
 普段は溌剌とした彼女の静かな様子は、陸瑁の胸を打った。
 乱世では、死と危険は日常と隣合わせに有り、決して忘れられる存在ではない。戦地にいる者なら、尚更だ。
 だから、ようやく待ちわびた使者が訪ねて来ても、無事の帰還の知らせとは限らない。その事を、尚香はよく知っているのだ。
 そんな義姉の為にも、兄には無事に戻って来て欲しい。共にある二人が見せる満ち足りた表情を、また見れる日が待ち遠しかった。



 ☆



「おかえりなさい、兄上」

 夜遅くに帰還した陸遜を出迎えた陸瑁は、穏やかな声で兄を労った。
 秋が深まる前に戻ってきた陸遜の息災な様子を見て、陸瑁は安堵で胸を撫で下ろした。
 陸遜はやはり軍議で決まった策が成功するのを見届けてから、建業へと帰還したのだ。
 戦力は明らかに呉軍の方が多く、調練された兵達は山越の手勢と比べるまでもなく強い。ただ山越を退けるだけならば、策を弄さず多勢で押し返すだけでも可能だった。
 だが、それだけでは山越は幾月も経たない内にまた攻め込んでくるだろう。なので、此度の乱の鎮圧では策を成功させて、山越の戦力と戦意を徹底的に削ぎ、乱が頻発する事を避ける必要があった。
 寝る間も惜しんで軍師や将達で軍議をして、目的を達成出来る策を決めた。
 策の要である火計も成功したので、上官の呂蒙に勧められて陸遜は建業に戻る事が出来た。婚姻したばかりの陸遜や尚香を気遣っての采配だと、陸遜自身も気付いていた。
 本陣を朝早くに出てから、休憩も殆ど取らずに馬で駆けてきたので、陸遜の身体には重りのように疲労が伸し掛かっていた。
 広間に敷かれた敷物の上に腰を下ろし、見慣れた我が家の景色を見渡すと、陸遜は深く息を吐いた。変わらない景色が齎す安堵は、途方も無かった。

「遅い時間になったのに、出迎えてくれて済まないな。子璋も家の仕事があるのだから、疲れているんじゃないのか?」
「戦地におられた兄上に比べれば、大した事はありません。無事に戻られて、安心しました」
「ありがとう。私も子璋や邸の変わらない様子を見て、安心したよ」

 陸遜は腰を下ろしたまま陸瑁を見上げると、穏やかな笑みを見せた。
 昨日まで戦地にいたとは思えないような柔和な笑みは、陸瑁が幼い頃から知る兄の好きな表情だった。
 
「子璋、少し会わない間にまた少し背が伸びたんじゃないか?」

 陸遜が問いかけると、陸瑁が微笑んだ。

「はい。少しだけですが」
「やはり。もう私より背が高いかもしれないな。隣に立って比べてみたいが、すぐに立ち上がる気力が無いよ」
「お戻りになられたばかりですからね。もう暫しお休みください」
「ああ。……ところで尚香殿だが、私の留守の間も息災であられただろうか」
 
 陸瑁に尋ねながら、陸遜の視線は邸の奥に続く廊下に向けられた。
 人気の無い廊下に灯された明かりは蝋が尽きかけて、灯火が心細げにゆらゆらと揺れている。

「お元気でいらっしゃいますよ。先程までここにおられて、兄上の無事なお顔を見られるまで起きていたいと仰られていましたが、明日のご用事に障るといけないので先にお休み頂きました」
「ここに尚香殿と、その、二人でいたのか……?」
「は、はい。兄上をお待ちになられて、広間から動かずにおられましたので、お一人で待たれるのはお寂しいかと思ったので……」

 問いかける陸遜の声に微かな不満を感じて、陸瑁は戸惑った。

「……そうか。尚香殿も子璋がいてくれて、気が紛れたと思うよ。……けど、少し寂しいな」
「あの、何か仰られましたか……?」

 兄が後半に呟いた言葉が聞こえずに、陸瑁が聞き返すと、陸遜は気まずそうに視線を落とした。

「いや。気にしなくて良いよ。ただの独り言だから」
「あの、兄上は暫く休暇を取られるのでしょうか。兄上がお側におられれば、尚香殿もお喜びになられます。良かったら、二人で旅行にでも行かれたらどうですか?」
「ありがとう。けど、それは二人で決める事だ。子璋は気にしなくても良い」

 陸瑁に答えた陸遜の声には、背を向けて拒絶するような響きがあった。
 その声に誰より自分自身が驚いたのか、陸遜は気まずそうに瞳を伏せた。
 何時にない態度を取る兄の気持ちを気遣って、陸瑁はかける言葉を探したが、見つけられずに兄の側に立ち尽くした。

「……すまない。子璋は私を気遣ってくれているのに、これでは子供の八つ当たりだな。……やはり疲れてるみたいだ。私はもう寝るから、子璋も早く休みなさい」
「はい。そうします。兄上もゆっくりお休みください」

 兄に拱手し、深々と頭を垂れたまま後退ると、陸瑁は広間を退出した。
 自室へと向かいながら、陸家を背負って戦う兄が、今夜は穏やかな夢を見られる事を願った。



 ☆



「おはよう、陸遜」

 まだ重い瞼を開けた陸遜は、間近から聞こえた尚香の声に驚いて、寝台の上で上体を起こした。
 寝台に腰掛けて陸遜を見ていた尚香が、翡翠を宿しているかのような大きな瞳を輝かせて微笑んだ。

「しょ、尚香殿……!?」
「ふふ。今日はいつも以上に朝が遅いわ。余程、疲れていたのね」
「いつもより……という事は、もうそんな刻限なのですか?とんだ不調法を、面目ないです」
「気にしないで。暫く休みなんでしょ。あなたはいつも忙しいんだから、たまにはゆっくり休みなさい。それに、陸瑁も言ってたわよ」
「子璋が……?」

 陸遜が問いかけると、尚香が頷いた。
 肩口で切り揃えられた明るい色の髪が、尚香の動きに合わせて優しく揺れた。

「今日はのんびり過ごすのが、陸遜の勤めだって。家の事は全て自分が引き受けるから、気にせず二人で過ごして下さいって言っていたわ」
「し、しかし……。家長の私が決裁をしなければいけない事もあるかもしれません」
「心配しないで。急ぎの用事はないそうだから」

 陸遜は戸惑いながら寝台から降りると、尚香に手渡された布巾で顔を拭った。
 尚香は寝台に腰掛けたまま、穏やかな表情で陸遜を見ている。暫く離れていたからか、尚香の姿が視界に入る度に、陸遜の胸は落ち着き無く鳴った。
 別室で着替えを済ませた陸遜が、まだ寝台に腰掛けている尚香の隣に腰を下ろすと、尚香のたおやかな手が陸遜の腕にそっと触れた。

「おかえり、陸遜」
「はい。……あの、お会いしたかったです。離れている間も尚香殿を想わない日はありませんでした」
「うん、私もよ。なのに中々戻らないから、心配したんだから」

 尚香がわざと唇を尖らせて言うと、陸遜は慌てて頭を下げた。

「も、申し訳ありません!策の成功を見届けておきたかったのです」
「良いの。あなたは人任せに出来ない真面目な人だって、分かってるから」

 尚香は微笑むと、陸遜の身体に身を預けた。
 身を寄せた尚香からは、微かに金木犀の香りがした。服に香を焚き染めているのだろう。乱の鎮圧に向かったのは夏の盛りだったので、尚香から薫る柔らかく甘い香りに、陸遜は季節の移ろいを感じた。
 身を預ける尚香の肩に腕を回して、そっと抱き寄せる。顔を上げた尚香のかんばせが仄かに赤く染まるのを見て、陸遜の胸に喜びが満ちた。
 目が合うと、互いの視線が絡まってしまったかのように目を逸らせなくなった。
 尚香の唇が、まるで陸遜に触れられる事を望んでいるかのように、赤く色づいている。
 少し身を寄せれば触れる事が叶う距離だ。
 一度だけ触れた事のあるその唇に、口付ける事を想像すると鼓動が早くなった。
 だが尚香は、陸遜にとって決して手の届かない深海で育まれた真珠のような存在だ。一度は遠くに嫁いだ彼女を、夫人として迎えられた事が、今でも奇跡のように感じられる。
 だからこそ、自分だけの身勝手かもしれぬ欲求に任せて触れたくは無かった。
 陸遜は尚香から視線を外すと、小さく息をついた。視線を外しても、脳裏には尚香の赤い唇や、潤んだ翠の瞳が焼き付いている。
 自分でも自制心が強い方だと考えていたが、身を寄せる尚香の温もりを感じていると、絶えず心にさざ波が立ったように落ち着かない気持ちになった。

「ねえ、陸遜。あなた、やきもちを焼いてくれたの?」
「え!?いえ、決してそのようなことは……」

 突然の問いかけに、陸遜は驚いた。慌てて尚香を振り向くと、赤い唇の口角を上げて、いたずらっぽく微笑まれた。

「あら、違った?」
「……もしかして、子璋が言っていたのですか?」
「ううん、なんにも。でも、何だか慌てた様子で、今朝顔を合わせた途端に二人で過ごして下さいなんて言うから、昨晩何かあったんじゃないかなって思ったの」
「なるほど。尚香殿に、隠し事は出来ませんね」

 観念して陸遜がため息をつくと、尚香が大きな瞳を輝かせた。

「じゃあ、図星?」
「……出来るだけ尚香殿と共にありたいのですが仕事でままならずにいるのに、子璋は毎日のようにお側で過ごせるのだと思うと、少しだけ……」
「ふふ」
「おかしいですか?」
「違うわ。嬉しいの」

 昨夜も眠る前に自分の態度をみっともなかったと内省しながら眠りについたので、陸遜は尚香の反応を意外に感じて戸惑った。
 尚香に知られたら、幼子のような悋気だと呆れられても仕方がないと考えていたのだ。

「あなたって、いつも真面目で良い人でしょ。なのに私が原因で、弟に拗ねる事もあるんだなって」
「……大人気ありませんでした」
「気にする事ないわ。陸瑁は家族でしょ。あなたの立場も気持ちもちゃんと分かっているわよ。それに私はあなたの妻だもの。それだけ想ってくれてるんだって思うと、嬉しいの。だからって束縛されたら嫌だけど、あなたは、そんな事をする人じゃないし」

 尚香は立ち上がると、窓辺に寄った。
 窓から見える楓の葉はすっかり赤く色づいていて、薄紅の漢服を着た尚香が側に立つと一幅の絵のように美しかった。

「陸瑁が誠実なのは、あなたのお陰ね」
「私ですか……?」
「うん。弟は兄を見て育つものよ」

 尚香の呟きには、慈しむような響きがあった。もしかしたら、兄達と過ごした懐かしい日々を思い出しているのかもしれない。

「尚香殿が仰ると説得力がありますね」
「ふふ。ありがとう」

 陸遜も立ち上がり、尚香の隣に立った。
 穏やかな時間を共に過ごし、尚香と同じ景色を見られる事に深い喜びを感じた。
 これからも自分は戦地に立たなければならない。孫呉の為だけではなく、尚香や家族を守る為に。
 朝食を摂る前に、陸瑁に声をかけよう。天気が良いから、弟妹達も連れて川下りに行くのも良いかもしれない。家族で賑やかに過ごす事が好きな尚香なら、提案すればきっと喜んでくれるだろう。
 今こうして過ごす時間がかけがえないからこそ、陸遜は知略を磨いて戦い続けたいと願った。
 

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陸遜がやきもちを焼いたら、どんな感じかなと思いながら書いてみました。
例えば家族以外の相手だと、嫉妬しても感情を噛み殺して表に出さなさそう気がするので、弟なら素直に拗ねるかなあと思って。
普段から本音と建前を状況に合わせて使い分けてる陸遜を知っているから、尚香も嬉しいかもしれないなと思いました。
陸瑁の性格も自由に書いちゃいましたが、楽しかったです。
陸瑁は顔立ちは陸遜に似てるけど、陸遜より体格が良い子だと良いなって思います。
子供の頃からの状況を考えると、お兄ちゃん子なイメージあります。
陸遜とのやり取りを書くのが楽しかったので、また登場する話が書けたら良いな。
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