春に戸惑う 後編


 夕立が、世界を洗っていく。
 窓から見える景色を見て、尚香はふとそう思った。
 篠突く雨が激しく地面を叩く音が、尚香の私室の中まで響いている。空を駆ける閃光を追いかけるように轟く雷鳴が、ほど近い空から聞こえた。だが空の荒れ模様とは不釣り合いなほど空は明るく、この悪天候が長くは続かない事を尚香に教えてくれた。
 陸遜との婚姻を来月に控えた尚香は、裁縫道具を片付けて立ち上がった。
 長い時間、敷物の上に座っていたので、脚が強張っている。尚香は膝を軽く曲げ伸ばしして、強張った筋肉をほぐした。

「はあ……。慣れない事は、するもんじゃないわね」

 尚香は手に持っていた赤い婚礼衣装を丁寧に畳むと、衣裳箱の中に収めた。
 手仕事が得意では無い尚香だが、待ち望んだ婚姻に向けて、婚礼衣装に散りばめられた小さな模様の一つを自ら刺繍する事にしたのだ。
 殆どの模様は母の呉国太や女官達が協力して刺してくれていたが、折角のハレの日に何もかもを人任せで用意して貰った衣装を着る事は躊躇われたからだ。
 尚香が刺繍を刺すのは、胸元にある蓮の花を簡略化した意匠だ。
 針仕事をするよりも武芸に励む事を選んだ尚香は、幼い頃に受けた刺繍の指導をすぐに投げ出してしまったが、それでも刺繍の基礎は母に教え込まれていた。
 だから、親指の爪程の大きさの意匠ならば自分でもすぐに刺し終える事が出来るだろうと考えていたが、中々思うようにいかなかった。
 少し針を刺しても、納得がいかなくて糸を解いてしまう。及第点の出来栄えで良しとすれば、とっくに終わっているのだが、周りに散りばめられた母達が丁寧に刺した美しい刺繍と比べるとどうしても見劣りがしたからだ。
 
(……比べたって仕方ないのに。私は母様達を守る為に、戦う事を選んだんだもの)

 母達と自分は、刺繍の技術を培ってきた時間が違う。だから、出来栄えに差があるのも当然だ。その事が分かった上で刺繍を始めた筈なのに、出来栄えを諦められずに何度も糸を解く自分に尚香は陸遜との婚姻に臨む自分の想いの強さを改めて感じた。
 荊州の地から帰国した尚香にとって、陸遜とは二度目の婚姻だ。
 劉備と結んだ婚姻は、尚香自身も運命の大きな力を感じた劇的なものだった。
 孫劉同盟が破綻して長くは続かなかったが、仁の世を目指す男の側にいられた期間は、尚香にとって確かに実りのあるものだった。
 劉備の夫人としても同盟の要としても、役目を果たせなかった事には無念があるが、劉備と静かに対話する時間は、孫呉の外の世界を知らなかった尚香の視野を広げてくれた。
 尚香が劉備に嫁いでいた期間は二年と短く、途中で益州へ長期の遠征に向かった劉備と共に過ごせた時間は実質一年にも満たなかった。
 劉備とは年齢差があり、夫婦というよりも親娘のような関係だった。歳の差がある為に躊躇いがあり、夫婦らしい触れ合いをする事は遂になかった。だが劉備は尚香と対話する事で、尚香自身や孫呉について理解しようと努めていた。彼のその真摯な態度を尚香は好ましく感じていた。
 目を閉じると、彼の深い慈愛と微かな寂寥を宿した瞳を今でも思い出す事が出来る。高い志のある稀代の英雄だが、普段は穏やかで飾らない性格の男だった。
 益州を制した劉備が彼の地で正室を迎えた事を知ったのは、つい先日のことだ。その知らせを聞いて、尚香は寂しさや悔しさを感じるのではなく、彼に対して寿ぎたい気持ちになった自分が嬉しかった。
 そして、彼の幸せを願うと同時に自分も大切な祖国で幸せに生きていきたいと願った。
 陸遜との婚姻は孫家の姫として嫁ぐのではなく、孫尚香という一人の娘として嫁ぐのだと尚香は考えていた。
 陸遜が当主を務める陸家は、呉の四姓として江東に名を馳せる名家だ。その陸家に尚香が嫁げば、孫家と陸家は互いに姻戚の関係となり、両家の繋がりは更に深まる事となる。
 なので兄の孫権や諸官達にとっては、此度の尚香の婚姻も孫家の姫君としての役目を果たす期待を寄せられている事に尚香自身も気付いていた。
 だが彼らの願いや思惑に、尚香は気持ちを囚われたくはなかった。市井の民達のように、想い人と結ばれる事が出来る喜びで胸を満たしていたかった。
 陸遜に会うと、彼も尚香と同じ気持ちでいる事が分かった。決して孫家と結ばれたいのではなく、尚香という一人の娘と結ばれる事を望んでくれている。例え、尚香が名も無い家の娘でも、彼はきっと婚姻を望んでくれただろう。
 陸遜に嫁いで、いずれ母となり、大切な家族と日々を慈しんで過ごす事を想像すると、胸が温かい気持ちで満たされた。
 史書には決して記される事の無いその日々が、尚香にはかけがいのないものに感じられた。
 
「失礼いたします。姫様、お客様がお見えです」

 一礼して部屋に入ってきた女官に声をかけられて、物思いに耽っていた尚香は我に返った。
 地面を叩く雨音は相変わらず激しく、時折閃く稲光が尚香を落ち着かない気持ちにさせた。

「あら。こんな夕立の中、誰が来たの?」
「ふふ。陸遜様ですよ。お仕事を終えられて、すぐにお見えになられたようです」
「陸遜が……?今日は会う約束はしていないけど、何かあったのかしら」
「慌てていらっしゃったご様子はありませんでしたよ。広間にお待ち頂いておりますので、お支度が出来たら、いらっしゃってください」
「良いわ。このまま、行く。用件が気になるもの」

 自室を出た尚香は、廊下を軽やかに駆けて広間に向かった。尚香の暮らす邸は、敷地の中に小さな建物が幾つもある造りになっている。広間がある建物へは中庭を横切るのが近道だが、雨が降っているので仕方なく屋根のある渡り廊下を通った。
 向かう先で陸遜が待っていると思うと、尚香の胸は弾んだ。昨日の昼に会ったばかりなのに、胸を満たす想いは恋しさを孕んでいた。
 広間のある建物に着くと、入り口に置かれた衝立の前で、尚香は身だしなみを確認した。急いで駆けてきたので緩んでしまった襟元や、乱れた服の裾を整える。
 普段着のまま部屋を飛び出してきたが、もう少し着飾れば良かっただろうかと少しだけ後悔した。化粧もしていないし、身につけている装飾品といえば、母に貰った耳飾りだけだ。
 陸遜とは戦場を共にした仲だ。尚香が動きやすい服装を常日頃から好んでいる事も知っている。それでも、少しでも綺麗だと思って欲しいと望む自分の気持ちに、尚香は戸惑った。

「姫様、お見えですか?」

 衝立の向こうから、陸遜に声をかけられて尚香の胸が小さく鳴った。
 今更、部屋に戻って着替えて来る訳にもいかない。尚香は普段通りを心がけながら衝立の陰から出て、陸遜の側に歩み寄った。
 陸遜は礼服を着ていて、仕事が終わってすぐに尚香の元を訪ねて来たのが分かった。
 尚香が現れると陸遜は嬉しそうに穏やかな瞳を細めた。その表情が嬉しくて、尚香の口元も自然に綻んだ。
 陸遜は敷物の上から立ち上がると、尚香に向かい合った。
 目の前に立つ陸遜と視線を合わせようとすると、女性の中では長身の尚香も少し顎を上向けなければならなかった。
 尚香が劉備の元に嫁いで暫く会えずにいた二年の間に、陸遜にも確実に時が流れ、頼もしい青年へと成長しているのを改めて実感した。

「今日は、どうしたの?会う約束はしていなかった筈だけど、何か急用かしら?」
「いえ、特に用事はありません。ただ姫様にお会いしたくて」
「え……!?」

 陸遜は驚く尚香に微笑みかけると、尚香の手を取った。指を絡めるように握られて、尚香の鼓動は早くなり、頬が一気に熱を持った。

「それだけの為に、雨の中来たの?」
「ええ。理由が無くては、いけませんか?」
「……もう、真似しないでよ」

 以前、陸遜を訪ねた時に自分が言った言葉を返された事に気付いて、尚香は思わず小さな声を立てて笑った。
 陸遜がその言葉を使った意味を理解して、尚香の胸が温かくなる。
 陸遜は満たされた表情をした尚香を満足気に見ると、その背に腕を回して抱き寄せた。
 尚香は抱き寄せられるままに陸遜に寄り添い、彼の胸に頬を当てた。頬から伝わる陸遜の鼓動を、尚香は優しい音だと思った。

「……私も自分の気持ちを取り繕うのは止めようと思ったのです。もう貴女に寄せる想いを、忍ぶ必要はありません。貴女に会いたいと思えば、こうしてすぐに会いに来たい。これからは願いのままに姫様と共にありたいのです」
「願いのままに……」
「伴侶となって共に生きるという事は、幸せな事ばかりではありません。それでも私は姫様と共にいたい。それが私の願いです。これから、どんな困難に見舞われようと、必ず私が貴女をお守りします」
「あら、私だってあなたを守れるわ。あなただけが立ち向かう必要なんてないのよ」

 思わず尚香が顔を上げて言うと、陸遜が嬉しそうに微笑んだ。尚香の背に回した腕に力を込め、更に自分の方へと抱き寄せる。

「姫様なら、そう仰られると思っていました」
「期待に応えられたみたいね」
「はい。それでこそ、私の姫様です」

 陸遜は微笑むと、腕の中にいる尚香の額に静かに口づけた。
 初めて身体に触れた陸遜の唇に、尚香は驚くよりも先に穏やかな気持ちになった。
 願いの込められた口づけに対して言葉を返す代わりに、尚香は陸遜の背に腕を回して抱き締めた。
 いつの間にか夕立は過ぎ去ったのか、広間の入り口から夕日の赤い光が射し込んでいる。
 もしかしたら雨上がりの空には虹が出ているかもしれない。それとも鮮やかな彩雲が、空に浮かんでいるだろうか。
 雨に洗われた世界に広がる景色は、きっと美しいだろう。
 その事を知りながら離れ難い気持ちのままに、若い二人は日が暮れ落ちるまで、その場で寄り添っていた。


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連載中なのに、後編の更新が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。
これから二人で生きていける事を幸せに感じる二人が書けて満足です。
陸尚が結ばれているif設定の話は、無双の世界観やキャラに、私なりに調べた歴史(まだまだ勉強中ですが……)を交えて書いているので、違和感のある方もきっといらっしゃるだろうなと恐縮しながら書いていますが、それでも読んで頂ける方がいる事がとてもありがたいです。
今回は尚香の劉備への想いも書けたのが、嬉しかったです。
私は陸尚が好きですが、劉尚の事を決して否定したくはないので、姫様なら劉備や自分の運命にどう向き合っていたかを考えながら取り組めて、自分の中でも陸尚と劉尚の関係を整理する事が出来て、この話を書く事にして本当に良かったです。

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