春に戸惑う 中編


 陸遜と婚姻を結ぶ事になった尚香は、自分の邸に閉じこもる事を止めた。
 皆の前に姿を見せるようになった尚香は以前と変わらず快活に振る舞い、邸に閉じこもっていた彼女を心配していた者達は胸を撫で下ろした。
 率直で感情がすぐに表情に表れる尚香が、ふと見せるようになった幸福そうな笑顔が皆の目に留まるようになった。
 孫権に何度退けられても婚姻を求め続けた陸遜の逸話を皆は承知していたが、尚香の幸福そうな表情は決して陸遜の一方的な想いではない事を教えてくれた。
 邸に閉じこもっていた反動だろうか、尚香は城だけでなく練武場や街にも出かけるようになった。
 さすがに共を連れずに城郭の外に出る事は孫権が許さなかったが、彼女らしい活発な行動が以前のように皆の話題に上がるようになった。
 練武場で新米の兵卒達と試合をして次々に打ち負かした話や、街で若い娘の手荷物を盗んだ追い剥ぎを追いかけて捕まえた話など、噂というよりは武勇伝に近いような話題が多いのが尚武の姫君らしいと皆は口を揃えて喜んだ。
 その彼女がどこよりも足繁く現れるようになったのが陸遜の執務室だった。
 彼女が最初に陸遜の執務室に現れたのは、婚姻が成約されてから十日程経った頃だ。
 軍議を終えた陸遜が資料の竹簡を幾つも抱えて執務室に戻ると、尚香が共を連れずに一人で待っていた。
 窓辺の側で壁に凭れて座り、陸遜の部屋へ携えて来た愛用の武器の手入れをしていた。
 普段は動きやすさを重視して服を選ぶ尚香が、この日は女性らしく着飾っていた。
 華美ではないが繊細な刺繍が施された服は美しく、淡い色合いが明るい色の髪をした尚香によく似合っている。髪も結い上げて華やかな髪飾りを挿し、薄く化粧もしている。目尻に仄かに紅を刷かれた翡翠色の瞳を長い睫毛が縁取り、円やかな頬に小さな影を落としている姿は美しかった。
 初めて自分の執務室にいる尚香を見た陸遜は驚き、美しく着飾った姿に言葉を失って暫く見とれてしまった。
 その陸遜の視線を、約束もせずに現れた自分に驚いているのだと勘違いした尚香が、頬を赤く染めて立ち上がった。

「ごめんね。急に来て、驚かせちゃったかも」
「いえ、お越し下さりありがとうございます。軍議が長引いたので、お待たせしたのではないですか?」
「そうなるかもしれないと思って、武器の手入れをしてたの。お陰ではかどっちゃった」

 尚香が無邪気に微笑み、窓辺に置いたままの圏を振り返る。綺麗に磨かれた刃が、窓からの陽射しを浴びて煌めいている。
 後ろを振り返った尚香の普段は見えない白く細い頸が目に入り、陸遜は思わず視線を逸らした。
 改めて彼女と部屋に二人きりでいる状況に、胸の鼓動が速くなる。
 手を伸ばせば届く場所に尚香がいる事が幸せだった。彼女の姿を認めて、その声を聞く度に、いまだに夢では無いかという心境にもなった。

「姫様、今日はどこかに出かけられるのですか?」
「ううん。どこにも行かないわよ。どうして?」
「いつもより着飾っていらっしゃるので、ご予定があるのかと思ったんです」
「これは……。あなたに会いに行くなら、ちゃんと綺麗な格好をした方が良いって練師に言われたの。やっぱり急にいつもと違う格好で来ちゃったから、変だったかしら」

 尚香の頬が赤く染まり、翡翠色の瞳が恥じらうように伏せられた。普段は気丈な尚香の見せたしおらしい反応に、陸遜は自分の頬も熱くなるのを自覚した。
 女性の身支度は時間がかかる。普段は軽装を好む尚香が、陸遜に会う為に時間をかけて着飾る事にした気持ちが嬉しかった。

「い、いえ、決してそんな事はありません。その、とても似合っていらっしゃいます」
「ふふ、そんなに慌てないで。ありがとう。あなたにそう言って貰えたら、嬉しいわ」
「私も光栄です。あの、少しお待ち頂けますか?資料を片付けて参ります」

 陸遜は机の側にある資料を収めている棚に向かい、手にしていた竹簡の中身を一つずつ確かめて分類し、項目に分かれている棚に収めた。ふと視線を感じて振り返ると、陸遜の背中を見守っていた尚香と目が合った。気恥ずかしさを誤魔化すように、はにかんだ笑みを見せた尚香の表情が可愛らしく、陸遜の胸を幸福感が満たした。
 資料を全て片付けると、陸遜は窓辺に立ったまま待つ尚香の側に戻った。陸遜に促されて座った尚香の隣に腰を下ろす。
 
「お待たせしました。姫様のご用事をお伺いします」
「私の用事?」
「はい。私にご用があってお越し下さったのではないのですか?」
「……用がなきゃ、来ちゃいけない?」

 明るかった尚香の表情が微かに翳り、陸遜は戸惑った。

「え……」
「あなたに会いたかったの。それだけよ」

 小さく呟いた尚香は、隣に座る陸遜の側に寄ると、陸遜の身体に凭れるように身を預けた。驚いた陸遜は尚香を見たが、陸遜の肩に頭を乗せている尚香の表情を確かめる事は出来なかった。それでも、結い上げられた髪の間から見える赤く染まった耳が彼女の感情を雄弁に陸遜に教えてくれた。
 自分に身体を預ける尚香の重みや温もりが心地良く、このまま抱き寄せるべきなのだろうかと陸遜は悩んだ。二ヶ月後には婚姻をする事が決まっているが、出会った頃からこれまでずっと主従の間柄でいた尚香に対して自分の感情を優先した行動をする事に、陸遜は今でも躊躇いを覚えた。
 視線を落とすと膝の上に置かれた尚香の手が見えた。思い切ってその手に自分の手を重ねてみると、尚香の細い指が陸遜の指に絡められた。
 柔い力で握り返されただけで、たちまちに気持ちが高揚する。掌まで火照って温かくなっているのは自分だけではない事に安堵を覚えた。
 明晰な頭脳を持つ陸遜は、彼女の温もりを感じながら何も考えられなくなっている事に戸惑った。常にどうするべきが最善かを考えるのが、自分の筈だ。それが尚香と身を寄せ合っているだけで、思考が全く働かない。
 長い間、密かに想いを寄せていた相手に慕われる幸福が自分の心の許容を超えていて、思考を停止させているのだと、この時の陸遜はまだ気付いていなかった。
 頭が真っ白になっている陸遜にとって、身を寄せる尚香の温もりだけが真実だった。温もりを感じる内に、彼女にもっと触れてみたいと湧き上がる若者らしい衝動を必死に抑える。信頼しているからこそ身を預けてくれている尚香の気持ちを裏切りたくは無かった。
 元々、真っ直ぐな心根の尚香は想いが通じた陸遜に対して積極的に好意を示し、陸遜の執務室に通うようになった。仕事の邪魔はしたくはないからと、昼休憩の時間か仕事を終えた夕刻以降に訪れるのだが、彼女が来る時間が近づくと陸遜はそわそわと落ち着かない気持ちになった。
 次第に仕事の最中にも彼女との時間が思い出されて、仕事が手につかなくなったのだった。
 


 ☆



「なんでえ。結局、ただの惚気聞かされただけじゃねえか」
「す、すみません」
「おい、あんたねえ。言い方ってもんがあるだろ。陸遜に謝らせてんじゃないよ」
「んな、いちいち歯に物が挟まったような言い方出来るかよ。そうだろ、朱然」
「俺も甘寧殿に賛成です。珍しく客観的に考えられなくなってるみたいだから、こういう時ははっきり言わないと」

 甘寧と朱然が頷き合っているのを見て、凌統は小さく溜息をついた。

「すまんね。こいつらは気遣いってのがどうも下手くそみたいだ」
「いえ、私も率直に言って頂けると助かります。姫様との事でのぼせている自覚があるので、厳しい意見も頂いて頭を冷やさなければ」
「真面目だねえ。じゃあ、俺も遠慮なく聞かせて貰うけど、陸遜は姫様以外の誰かを好きになった事はあるのかい?」
「そ、それは……」
「え……!?ねえのかよ!?」

 陸遜が言い澱んでいると、甘寧が驚いて大きな声を出した。

「いけませんか」
「な、なんだよ。率直に言えってさっき自分でも言ってたじゃねえか」
「言いましたが、甘寧殿の言葉はご意見では無く、ただの誹りです」
「おお……。珍しく、陸遜がムキになってる」
「流石にこいつのバカ正直に、カチンときたみたいだね」
「まあ、でも仕方ないと俺は思いますね。陸遜は子供の頃に陸家を継がなきゃならなくなったから、恋愛を楽しむ暇もなかっただろうし」

 普段は穏やかな目を据わらせて甘寧を睨んでいる陸遜の手から盃を取り上げながら、朱然が陸遜を庇う。
 陸遜に対してまるで兄のように振る舞う朱然の態度が微笑ましく、凌統は目を細めた。
 確か二人は年齢も近く、朱然が一つだけ年上だった筈だ。

「そうだな。傍流の立場のままでずっといられたら、書生としてのんびり暮らす人生だって送れたかもしれないし」
「朱然殿……。凌統殿もありがとうございます」
「良いって。酒も飲み過ぎてたしな。少し頭も冷えたかい」
「はい。甘寧殿も、申し訳ありません。柄にも無くムキになってしまいました」

 陸遜が気まずげに頭を下げると、甘寧は腕を組んでカラカラと笑った。

「構やしねえよ。それにしても俺に言い返すたあ、おめぇも度胸が座ってきたじゃねえか」
「酒の力を借りてですが」
「へへ、でもスッとしただろ。たまにゃ言いたい事を言やいいんだよ」
「はいはい、そこら辺で良いかい?またこいつの調子に合わせてたら脱線しそうだから話を戻すぜ、陸遜」
「は、はい。承知しました」

 話を遮られて不服そうに睨む甘寧の視線を物ともせずに、凌統が腕を組んで陸遜を見た。
 これまで尚香以外との恋愛経験が無い事を揶揄わずに真剣な眼差しを向ける凌統の気持ちが嬉しくて、陸遜は姿勢を正して向き合った。

「俺がなんでこんな質問したのかっていうと、陸遜がどんな心境なのか想像したかったからさ」
「……私のですか?」
「ああ。俺達は市井の民のように惚れた相手と自由に野合する事は出来ないだろ?俺は陸遜や朱然程の名家の出じゃないが、それでも家の跡を継がなきゃならない責任があるのは一緒だ。俺達の婚姻ってのは、一族の繁栄を保障してくれる相手の家と姻戚になる手段なのが第一だ」
「はい」
「まあ、そうですね」

 凌統の言葉に陸遜と朱然が頷くのを見て、「めんどくせえんだな、お前らんとこは」と呟きながら、甘寧は手酌で注いだ酒をあおった。

「そうなると顔も性格も知らない相手と婚姻をする事になる可能性の方が高いからね。慕う相手と結ばれて生きていける事なんて、中々ないってもんさ。子供ん時からそうなる事を知っていたら、色々と観念するしかないでしょうよ」
「……そうですね。誰かを好きになっても、報われる関係にはなれない。それは確かに子供の頃から頭にありました」
「だからこそ、忍ぶ恋に燃え上がるってのもあるけどな」
「はは、朱然はな。まあ、俺もその口だったけど、陸遜は真面目で素直な奴だ。恋愛は二の次で、家の為に努力してきたんだろうね」
「ふうん、なるほどな。そんな陸遜でも、姫さんへの気持ちだけは抑えらんなかったって訳か。燃えるじゃねえか」

 甘寧が言いながら愉快げに陸遜を見ると、陸遜ははにかんだ笑みを見せて頷いた。

「……初めて好きになった方が姫様で、まだ力の無い立場の私では婚姻を申し出る事はとても出来ないと思っていました。陸家の再興の為に努力してきましたが、同時に姫様のご身分に見合うだけの立場になれれば、誰かに嫁がれる前に婚姻を申し出る事が出来るだろうかと密かに考えていました」
「それが急遽、政略で遠い地に嫁がれてしまったから、陸遜の気持ちの整理も中々つかなかったと思うよ」
「そうか……。そこへもう二度と会えなかったかもしれない姫様が戻られたら、今まで抑えていた気持ちの箍が外れてしまうっていうのも分かる」

 穏やかに話を継ぐ凌統と朱然に微笑むと、陸遜は話を続けた。

「……姫様のお立場を考えると、またどこか遠い地に政略によって嫁がれてしまう可能性は捨てきれません。そうなってしまわぬ為には、自分の立場にこだわらず急いで縁談を申し込むしかありませんでした」
「へへ。良いじゃねえか。俺ぁ、そういう熱い気持ちで動くのは好きだぜ」
「俺もだ。お前の熱い気持ち、胸が震えたぜ」
「あ、ありがとうございます」

 甘寧と朱然に褒めそやされて、陸遜は照れ臭そうな笑みを見せた。
 まだ少年の面差しが残る男だが、主君である孫権に何度も拒まれながらも縁談を申し込み続けた胆力には驚くべきものがあると凌統は思う。
 
「もし婚姻が成立しても姫様のお気持ちが私になければ、ただ恨まれる結果になっていたかもしれません……。その事を想像して不安が無かった訳ではありませんが、それ以上に二度と姫様を失いたくなかったんです」
「なるほどな。そんな不安もあったけどついに婚姻は受け入れられて、実は姫様も陸遜の事を想っていた。長年の想い人と結ばれる事が出来た上に、孫家と姻戚になる事にもなったから、陸家の再興についても安泰ってね」
「順風満帆だな」
「そりゃ浮かれんのも仕方ねえな」

 話をまとめる凌統に甘寧達も頷いて同意する。

「とても幸せだと思っています。ですが、幸せになる事で、こんなに色んな事が手につかなくなるなんて知りませんでした。呂蒙殿にまで心配される事になって面目無いです……」
「まあ、おっさんの事は気にすんなよ。俺が上手い事言っといてやるから」
「余計な事も言いそうだけどね」
「あぁん?また突っかかってきやがんのか、てめぇは」
「お二人とも、やめて下さい。呂蒙殿には、私が自分でご報告します」

 いつもの調子で口喧嘩を始めた甘寧達に、陸遜が割って入って止める。互いに剣呑な視線を向けながら、二人は口喧嘩を止めて盃を手に取り酒を飲んだ。

「なあ、陸遜。ここまでお前の話を聞いてて思ったんだけどな」
「なんでしょう」

 甘寧達の喧嘩をよそに考え込んでいた朱然が腕を組んだ姿勢のまま真剣な眼差しで、隣に座る陸遜を見た。

「お前はもうちょっと幸せに慣れた方が良い」
「し、幸せにですか?」

 朱然の言葉の意図が分からず陸遜が瞬いていると、凌統が朱然に同意するように小さな声で笑った。

「はは。俺もそう思うぜ、陸遜。もうちっと姫様に想われる事に慣れた方が良いって」
「おう。俺なら惚れた奴に会いに行って、オロオロされちまったら気が萎えるぜ」

 凌統や甘寧にも口々に言われて、陸遜は困惑した様子で皆を見た。

「人生は一回きりだろ。俺達は戦場にも出るし、後悔なんざしてらんない。そんな一回きりの人生で、ずっと想い続けた姫様を夫人に迎えられるんだ。姫様のお気持ちに戸惑って、おたおたしてる場合じゃないでしょうよ」
「わ、私は……。いえ、皆さんの仰る通りですね。一方的にお慕いする事が当たり前になっていて、姫様のお気持ちを受け止めきれていなかったと思います」

 諭すように声をかける凌統を見つめながら、陸遜は尚香を想った。用がなければ来てはいけないかと陸遜に尋ね、微かな不安を宿した翡翠色の瞳を思い出すと胸が痛んだ。二人で身を寄せ合って過ごした尚香との時間を思い出すと、今でも夢を見ているような気持ちになるが果たして心も重ねる事が出来ていたのだろうか。
 自分の気持ちに精一杯で、彼女の気持ちをきちんと思いやれてはいなかったように思う。

「なあ。姫様が最近、お前の執務室に通われてるって噂は聞くけど、お前の方から姫様に会いに行った事はあるのか?」
「そ、そういえば、ありません……」

 陸遜が静かに反省していると、朱然に声をかけられてハッと気づく。
 想いを寄せてくれる尚香の事で頭が一杯になり、仕事が手につかずに遅れている分、軍議で集まる時以外は、執務室に籠もりきりでいた。
 だからこそ城の中に姿が見えず、訪ねて来る事もない陸遜の為に、尚香が執務室まで通ってくれていたのだと今更のように気付き、自分の鈍感さを恥じて頬に朱が差した。

「おいおい。そういうとこだぜ、陸遜。遠慮してる場合じゃないって」
「会いに行けよ。姫さんも喜ぶぜ」
「は、はい。そうしたいです」

 凌統達に背を押された陸遜は、今すぐにでも尚香に会いたいと逸る気持ちを抑えながら窓の外を見た。
 窓の格子の間から、玲瓏に輝く下弦の月が見える。
 もしかすると、尚香も今あの月を見ているかもしれない。
 そう思っただけで、陸遜の胸は仄かな火が灯ったかのように温まった。

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なんとなくですが、陸遜って家の為に頑張って自分の幸せに慣れてなさそうだなっていうイメージがあってこの話を書き始めました。
色々と報われて幸せに過ごす陸遜と姫様を書けるのが楽しくて、if設定の話を書き始めて良かったなって思います。
四人の飲み会のやり取りも書くのが楽しかったですが、人数多いと台詞とか地の文をどうやって回したら良いかが難しくて、まだまだ精進せねばと思いました。
もう少しだけ話を続けたかったので、前後編の予定でしたが前中後編に分けました。
後編は今回より短めになると思いますが、皆のアドバイスを受けた陸遜が頑張る話を書けたら良いなと思ってます。
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