春に戸惑う 前編


 カタンと何かが机の上に落ちる音がした。
 呂蒙が軍議の進行を止めて音のした方を見ると、気まずそうな顔をした陸遜と目が合った。
 瞳を伏せて呂蒙に小さく目礼するとそそくさと落ちた筆を拾って硯の上に置き、墨で汚れた机を布で拭き始める。
 今回の軍議の議事録を任されている陸遜は、いつも通り姿勢良く台座に立てかけた竹簡の前に座っていた。普段なら人並みならぬ集中力で軍議の内容を聞き取り、要点を分かりやすく纏めて議事録を書いている陸遜が、軍議の最中に筆を落とした事が呂蒙には意外に感じられた。

「どうした、陸遜。お前が議事録を書いている時に筆を落とすとは珍しいな」
「面目ないです。……少し考え事をしていました」
「ふむ。此度の戦の事か?お前にも何か意見があるなら、軍議に参加してくれて構わんぞ」
「……あ、ありがとうございます。考えがまとまれば、そうさせて頂きます」

 はきはきと答えながらも、珍しく言葉に詰まる様子を見せた陸遜を不思議に思いながら、呂蒙は軍議の進行を再開した。
 言葉に詰まるという事は、陸遜が考えていたのは軍議とは関わりの無い事だったのだろうか。
 何事も真面目に取り組む陸遜が、議事録を纏めながら他の事を考えていたとなると、余程気がかりな事があるのかもしれない。
 呂蒙は陸遜の様子を気に留めながら、次第に軍議の進行に没頭した。



 ☆



「ふむ……。どうしたものか」

 執務室で陸遜の書いた議事録を読みながら、呂蒙は太い眉根を寄せた。
 陸遜の纏めた議事録はいつも通り分かりやすく要点が纏められている。
 だが、彼らしくなく誤字が目立った。議事録をまとめる際は速記も求められるので、字を間違えるのは誰しもままある事だ。しかし、これまで陸遜の書いた議事録には、誤字は殆ど認められなかった。幼い頃から良く学び、まだ若輩ながら陸遜は呂蒙に負けない程、博覧強記だ。
 それが今回はごく簡単な文字まで書き間違えている。軍議中の様子からも彼が何か悩みを抱えている事は明白だった。
 陸遜は幼い頃に主家を率いる事を任されただけあって、努力家であると同時に責任感が強い。陸家の長子である自負もある為か、誰かに頼るという事が下手な男だと呂蒙は見受けていた。
 仕事や私事で悩みがあっても、顔に出す事は殆どない。陸遜が呂蒙の配下の軍師となって二年程経つが、悩みに囚われて仕事がままならなくなる様子を、呂蒙はこれまで見た事がなかった。
 人に頼るのが下手な男だからこそ、自分から声をかけてやるべきかと呂蒙は悩む。だが悩みは仕事と関わりのない事のようなので、陸遜よりも年長で上官である呂蒙が声をかけると負担に感じる可能性もある。
 陸遜は文武両道を地で行く呂蒙を慕ってくれている。だからこそ力になってやりたいと呂蒙は思うが、師と仰ぐ者には言い出し難い事もあるだろう。
 
(それに例え悩みを打ち明けられたとしても、俺に良い答えが出せるとも限らんからな……)

 呂蒙は腕を組んでいた片手を上げて、無精髭の生えた顎を指先で撫でた。陸遜の悩みを推察し、無骨な顔を寛げて微笑む。
 陸遜の悩みが戦に関わる事でないのならば、恐らく来月に予定されている婚姻の事だろう。陸遜は孫家の末姫である尚香を夫人として迎える事になっているのだ。
 孫劉同盟を繋ぐ為に劉備の元へ嫁いでいた尚香が帰国したのは半年程前だ。
 中原を支配する曹魏に対抗するべく結ばれた同盟だったが、荊州の領有を巡って孫呉と劉備の関係は次第に悪化していった。
 いずれ戦端が開かれる事になる相手の元に、孫家の姫君を置いてはおけぬと魯粛達が一計を講じて尚香を半ば強引に孫呉へと連れ戻したのだ。
 帰国した尚香は劉備の元に戻るとは言わぬ代わりに、新たに齎された縁談も全て断っていた。
 強情な妹を説得しようとする孫権を避けて自分の邸に籠もり意志を貫いていたが、尚香に頼まれた孫権に何度退けられても婚姻を申し出続けた陸遜の存在を知り、尚香は遂に陸家に嫁ぐ事を受け入れたのだという。
 聞き分けが良く、情勢を見て動く事の出来る陸遜が意固地に尚香との婚姻を求め続けたのは、彼女を二度と失いたくなかったのだろう。
 劉備との関係を良好に保ち続ける事が出来ていたならば、尚香は二度と建業に戻る事はなかったに違いないからだ。
 諦めていた機会を得られた陸遜の情熱を後から知って呂蒙は胸を打たれた。戦場に立つ者として、若者には悔いの無い選択をして欲しいと思う。
 呂蒙の元に婚姻の報告に来た陸遜の晴れがましい表情を思い出す。式の日取りも来月に控えて、本来であれば陸遜の胸は喜びに満ちている筈だ。
 それなのに物憂げに瞳を伏せて考え込むのは、改めて孫家と姻戚になる重圧を感じているのだろうか。
 呂蒙は陸遜が几帳面な字で書いた議事録を読み直しながら考える。誰よりも自分が望んでいる婚姻で生じる悩みとは一体何なのか。推察しようとするが、呂蒙の慧眼を持ってしても確信は得られなかった。
 呂蒙は読み終えた議事録の竹簡を巻き直して机の上に置き、席から立ち上がって執務室を出た。



 ☆


 
「そんで俺達に用事ってなんだよ、おっさん」
「ったく。口の聞き方の知らない男だね。呂蒙殿が上官だって分かってんのかい」
「あぁ?お前の方こそ、いちいちうっせえんだよ。話の腰を折るんじゃねえ」
「まあ良い、凌統。甘寧が上品な口を利いたら、俺はその方が薄気味が悪い」

 苦笑しながら呂蒙が言うと、凌統が眉尻を上げて呂蒙を見た。

「呂蒙殿もそうした態度を取られるから、いつまで経ってもこの男が将としての自覚を持たないんです。孫呉の将として戦うんなら、それなりの品格だって大事でしょうよ」
「へん。んなもん無くたって戦えらあ。俺はおめぇじゃなくて、殿に雇われてんだよ。殿には上品に喋れなんざ、一度も命じられた事はねえぜ」
「そんなのは言われなくても、周りを見て察するもんだっての」
「全く、仕方ない奴らだな。お前らの言い分は後で聞いてやるから、もうその辺にしておけ」

 呂蒙が呆れて溜息をつくと、並んで立つ甘寧と凌統は互いに一瞥をくれて不機嫌さを隠さずに腰を下ろした。

「朱然、お前も座れ。煩い先輩共に気を使う必要は無いぞ」
「は、はい。それじゃ、遠慮なく」

 甘寧達の後ろに立っていた朱然も凌統の隣に進むと腰を下ろした。
 呂蒙と差し向かいで座る三人に目を配ると、呂蒙は小さく咳払いをして話を始める事にした。

「調練中に呼び立ててすまなかったな。お前達を呼んだのは、頼みたい事が出来たからだ」
「俺達に頼みたい事ですか?」
「なんだよ、おっさんが神妙な顔して。また奇襲しかけるってんなら、力になるぜ」

 身を乗り出す甘寧に、呂蒙は首を振る。

「お前のやる気はありがたいが、此度は戦の事では無い」
「じゃあ、何だよ」
「お前達に頼みたいのは、陸遜の事だ」
「「「陸遜の?」」」

 呂蒙の申し出が意外だったのか、異口同音に声を出した三人は互いに顔を見合わせた。

「ここ最近の陸遜の様子を見ていると、何やら悩みがある様子なのだ。俺が自ら聞いてやっても良いんだが、上官で一回り歳が上の俺には言い難い事もあるだろう。お前達ならば、俺よりも歳が近いし普段から親しくしている。飲みにでも誘って、相談に乗ってやってはくれないか」

 呂蒙の申し出に、甘寧が不可解そうに首を傾げる。その隣で凌統も腕を組んで思案しているようだ。

「今のあいつに、悩みがあるねえ」
「姫様との婚姻も決まって、この先も順風満帆ってとこに見えますけどね」
「だよな。浮かれるならともかく、俺には悩む理由が見つかんねえ」
「……そうですかね?」

 話し合う甘寧と凌統に、朱然が口を挟む。

「陸遜は真面目な奴だから、今後の孫家との関わり方とか色々考えてしまうと思います。そりゃずっと想い続けていた方と結ばれたのは嬉しいだろうけど、先の事を考えられる分、悩んでも変じゃないんじゃないですか」

 物怖じせずに先輩である甘寧達に率直な意見を述べる朱然を見て、呂蒙は微笑んだ。
 陸遜と朱然は歳も近く、豪族の出である立場も似ている。朱然は養子だが、陸遜も元々は傍流の子だ。それが今は一族を率いる期待をされている。
 思慮深く発言する陸遜と直情的で率直に意見を述べる朱然は性格も対照的だ。だが互いに良い同輩となれていると呂蒙は見ていた。

「朱然も、そう思うか」
「はい。俺も最近あいつに話しかけても生返事をする事が多いし、なんか変だなとは思ってました」
「あの陸遜が生返事だと?」
「ああ、とか、ええ、とか言って、なんか上の空なんですよね」
「へえ。あいつがそんな態度取るなんて、考えらんねえな」
「確かに、悩んでるって言われても仕方ないかもね」
「ならば、皆で話を聞いてやってくれるか」

 納得した様子の甘寧と凌統に呂蒙が声をかけると、二人は力強く頷いた。

「良いぜ、おっさん。俺達に任しとけ。ウジウジ悩んでも仕方ねえって、俺が背中叩いてきてやらあ!」
「勢いだけは上等だよな。あんたが関わったら、余計こじれそうな気もするけどね」
「なんだと!?てめぇ、つっかかってばっかきやがるなら置いてくぞ!」
「つっかかってんじゃなくて、忠告してやってんだっての!」
「甘寧殿も凌統殿も仲が良いんだか悪いんだか分からないですね」

 また口喧嘩を始めた二人に呆れた様子の朱然を見て、呂蒙は思わず声を立てて笑った。

「はは。まあ、こいつらの喧嘩はいつもの事だ。いちいち気にしても仕方ない」
「そういうもんですか?」
「ああ、お前も直ぐ慣れるだろう。お前は二人と共に戦にはまだ出た事が無かったな?こう見えて、戦場では中々息が合っているのだぞ。あいつらの戦功が数多いのも、互いの軍の連携が見事だからだ」
「噂には聞いてますが、この目で見たんじゃないから中々信じられないですね」

 朱然が率直に言うので、呂蒙はまた声を立てて笑った。

「率直な奴だ。あいつらのように、言葉と想いは裏腹な事も多い。お前も経験を重ねれば、気付けるようになる」
「はい。心得ました!若輩の胸に刻んでおきます」

 素直に頷く朱然に微笑み、呂蒙は早速今晩陸遜を誘うように頼んだ。



 ☆



「おう。陸遜、今日は気にせず飲めよ。金の事は考えなくて良いからな!」
「は、はい。ありがとうございます」

 卓を挟んだ向かいに座る甘寧に差し出された盃を陸遜はおずおずと受け取った。
 終業を知らせる鐘が鳴った後も執務室で机に向かっていたら、突如どやどやと現れた甘寧達に半ば強引に連れ出されたのだ。
 引き立てられるように連れて来られたのは、建業でも一二を争う老舗の酒場だった。既に予約をして合ったのか、出迎えた番頭に格式の高さが伺える建物の奥の座敷へと通された。
 品のある調度品で調えられた座敷は居心地が良く、陸遜はもの珍しげに部屋の中を確かめながら朱然の隣に腰を下ろした。
 甘寧達が適当に頼んだ酒や肴が机に並べられ、舌鼓を打つ。
 同輩の朱然とは顔を合わす事も多いが、内乱を収める為に遠征に出る事の多い甘寧や凌統とゆっくり話が出来るのは久しぶりで、互いの近況を語り合うだけで瞬く間に時間が過ぎた。
 突然の誘いに戸惑っていた陸遜だったが、気の置けない仲間との会食は楽しく、次第に寛いで笑みを見せた。

「ところで、陸遜。お前、何か悩んでんじゃねえのか?」
「え!?わ、私が、ですか?」

 卓に並べられた食事もほぼ平らげ、静かに語り合っていた時だ。突然、甘寧に尋ねられて、陸遜は驚いて手に持つ盃を落としそうになった。
 戸惑う陸遜の様子を推し量るような甘寧の鋭い視線に、内心ぎくりとなる。

「おい、バカかあんたは。物には順序ってのがあんのに、いきなり切り出すんじゃないよ」
「なんでだ。話は早え方が良いだろうが。俺は、たらたらすんのが好きじゃねえんだよ」
「あんたの好き嫌いは知らねえっての。ったく。だから、あんたが同席すんのは嫌だったんだ」

 隣に座る甘寧の肩を凌統が小突いて悪態をつく。互いに酔っているので、目が座っており睨み合う姿は迫力があった。さすが一軍を任された将だと半ば感心しながら二人の様子を見ていると、隣に座る朱然が陸遜に声をかけた。

「まあ率直に言うとだな、陸遜。呂蒙殿がお前の事を心配されてる」
「呂蒙殿が……!?」

 朱然に言われて、陸遜は驚いた。同時に先日の軍議の最中に筆を落とした事を思い出す。常ならない自分の様子に、師である呂蒙が気取られぬ筈がないと納得する。

「ああ、お前の様子が変だって気付かれてるぞ。だから、俺達に話を聞くように言われたんだ」
「……そうだったんですね。いきなり連れ出されたから、きっと何か理由があるんだろうとは思ってましたが」
「まあ、なんだ。お前の悩みがなんだか分からないが、俺達にだって聞いてやる事ぐらいは出来る。賢いお前で分からない事でも、違う頭で考えたら案外風穴が開けられるかもしれないぜ」
「ありがとうございます。しかし……」

 陸遜が言葉に詰まり、次第に頬を赤く染める様子を朱然は不思議そうに見つめる。
 卓を挟んだ向かいに座る甘寧と凌統も言い争いをやめて、予想外な陸遜の態度を訝しげに見た。

「なんだよ。なに照れてんだ?」
「もしかして言い出せないような悩みなのかい?」
「いえ、その……。ほんとに個人的な事なので、皆さんに打ち明けるような事ではないと思うのですが、こうして私を案じる場を設けてくださったのに話さない訳にはいかないですよね……」

 気恥ずかしげに視線を落とす陸遜は、既に耳まで赤くなっている。いつもより盃を重ねた為だけではない事は明らかだ。

「ああ、そうだぞ。おっさんも心配してるからな」
「ちゃんと報告しないと拳骨をくらうかもしれないんでね」
「遠慮せず言えよ。こっちは悩みも言えない仲じゃないつもりだぜ」

 身を乗り出す三人に囲まれて、陸遜は頷いた。姿勢を正して三人に向き直り、小さく咳払いをする。
 
「……ならば聞いてください。私が色んな事に集中出来ずにいるのは、姫様が私の事をとても好いてくださっているからです」

「「「……はあ!?」」」

 意を決して言った陸遜の言葉に、三人は異口同音で気の抜けた声を出した。
 だから言いたくなかったんですと呟く陸遜の小さな声は、半拍置いて騒ぎ出した三人の声に飲み込まれてしまった。
 
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陸遜を心配する皆を書けて楽しかったです。仲の良い孫呉の皆が好きです。
やっと7猛将伝をプレイ出来たので、朱然も登場させられて嬉しいです。
オチがなんじゃそれな感じで申し訳ないのですが、後編で陸遜が色々と手につかなくなってる尚香とのやり取り書けたらと思うのでお待ち頂けたら嬉しいです。
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