03 関所を越えて


 窓から射し込む陽の光が眩しくて、陸遜は小さく唸りながら目を覚ました。
 普段とは違う天井の模様を見て、自分が旅の途中である事を思い出す。
 隣室の尚香の気配が気になり、昨夜は眠れるだろうかと心配していたが、いつの間にか深く眠っていたようだ。
 旅の初日であったし、駐屯地を出てから一日中馬で駆けた疲れが出たのだろう。
 寝起きでまだ重い頭を押さえながら寝台の上で上体を起こし、寝起きの気怠さが抜け切らないまま窓の外を見る。朝日はまだ昇り始めたばかりのようだ。 
 まだ少し眠れるだろうかと逡巡していたら、主室の方から物音が聞こえて陸遜は慌てて寝台から降りた。靴を履くのももどかしい気持ちで扉に駆け寄って開くと、既に旅装を整えて卓についている尚香と視線が合った。

「あら、おはよう。よく眠れた?」
「お待たせして申し訳ありません……!すぐ身支度を整えます!」
「あはは、そんなに慌てなくて良いのよ。あなたが遅いんじゃなくて、私が早起きなだけなの。さっき部屋を出て見てきたんだけど、まだ食堂も開いてないみたい。だから、ゆっくり準備してね」

 尚香もよく眠れたのか、晴れやかな顔をしている。機嫌の良さそうな笑みに疲労の影が殆ど無い事に安心して、陸遜は寝室に戻った。
 手早く顔を洗い、旅装に着替える。荷造りを終えて主室に戻ると、尚香が卓の上に地図を広げていた。これからの旅先を確認しているのか、地図の上を細い指先でなぞっている。普段は赤く染められている爪は今は自然な色をしているが、艶のあるそれは小さな桜貝のようで愛らしかった。
 窓に嵌められた格子に切り取られた朝の光が尚香に複雑な影を落としている。普段は快活な尚香が長い睫毛を伏せて卓についている様子が美しく、陸遜は声をかける事を忘れて暫し見惚れた。陸遜の視線を感じた尚香が不思議そうに見つめ返す。翡翠色の瞳と目が合って我に返った陸遜は、気恥ずかしさを誤魔化すように改めて拱手をした。
 
「……お待たせいたしました。これは徐州の地図ですね」
「うん。あまり地理に詳しくないから確認しておこうと思って」
「魏に赴かれるのは、初めてだとお聞きしました」
「そうよ。陸遜は?」
「私も初めてです。建業を訪れた魏の外交官の対応を任された事はありますが、国境の防衛戦以外で魏に入った事はありません」
「そうなのね。一体どんなところなんだろう。呉とは雰囲気が違うのかしら」

 卓に頬杖をついた尚香が陸遜に問いかける。陸遜を見つめる大きな瞳には、まだ見ぬ地を訪れる不安よりも好奇心が見て取れた。

「魏は帝を擁していますからね。国力がありますし、民の暮らしも豊かな国である事は間違いないです。徐州は魏の都の許昌とは距離がありますが、建業のある揚州と隣接しています。孫呉との交易が盛んなので、許昌と結ぶ交易路も発達していると聞きます」
「という事は、交易路沿いにある街はきっと栄えているって事ね」
「ええ。街の様子を見れば魏の持つ力を直に知る事が出来ます。それだけでも今回の旅は十分有益です」
「そうね。ちゃんと任務を果たして、呂蒙に報告しなくちゃ。信頼して私達を選んでくれたんだもの」

 笑顔を見せる尚香に頷き返し、陸遜は旅の打ち合わせをする事にした。
 鐘離県は徐州と揚州の接する国境の北端に近い場所にある。陸遜達の任務は国境の視察なので、関所を抜けて魏に入った後は国境にある街を辿りながら南下する。丁度、国境の中間地点にある東成県まで辿り着いたら、今度は東へと向かう。国境も東成を境に東に折れて走っているからだ。国境の東端まで行き着いたら関所を越えて揚州に入る。国境の東端から呂蒙達のいる義成までは遠いので、陸遜達が戻るには数日かかる。なので最寄りの駐屯地に入ったら書簡を書いて早馬を送り、先に報告をする予定だ。
 陸遜が地図を指しながら尚香に説明すると、尚香は感心しながら陸遜を見た。

「呂蒙はそこまで詳しく指示をくれてなかったのに、ちゃんと考えてくれてたのね」
「昨日、馬を走らせながら考えていました。何事もなく国境の東端の関所まで辿り着ければ、恐らく十日以内に揚州に戻れると思います」
「分かったわ。頑張りましょうね!」
「はい。よろしくお願いします」

 目を輝かせて張り切っている尚香の様子が可愛らしくて、陸遜が微笑む。
 普段は他の将や諸官達が共にいるが、今は尚香と二人きりだ。任務の為とはいえ、彼女を独占して側にいられる機会はまたとないだろう。
 立場上、胸に秘めた想いを彼女に知られる訳にはいかないが、それでも心が弾むのを抑える事は出来なかった。




 ☆




 食堂で朝食を摂り、陸遜達は宿を出た。厩に預けていた馬を連れて大通りを歩く。
 通りを行き交う人々は多く、民だけではなく行商人の姿も見られた。国境に近い街なので、今にも戦端が開かれそうな情勢を察しているのか、腰に護身用の剣を佩いている者達の姿が目立った。
 関所に続く道は、城郭の北から延びている。北にある門を目指して歩きながら陸遜は尚香がなるべく人波から遠ざかるような道を選んだ。
 尚香は愛用の武器を駐屯地に置いてきている。圏や弓矢は折り畳む事が出来ず、身分を明かさぬ旅に携行するには嵩張る上に目立つからだ。それに駆け落ち中の商家の娘が扱うのに訓練が必要な武器を携えているのは不自然だ。
 かといって徒手空拳で魏に入るのも心許ないので、尚香は代わりに護身用の小刀を襦裙の帯に挿している。
 装飾過多な飾りのような小刀だが尚香なら人並み以上に扱える筈だ。それでも心許ないのは確かなので、陸遜は自分が尚香を守らなければならないと意気込んでいた。
 だが、その陸遜も腰に帯びているのは愛用の飛燕剣ではない。兵卒に支給されている両刃の剣を駐屯地から携えてきた。理由は尚香と同じで軍事に携わらない者が持つ武器として飛燕剣は不自然だからだ。
 重い武器を扱うには膂力が足りない自覚があるので、なるべく扱い易い重さの剣を選んだが使い慣れない事には変わりはない。なので無用な戦闘はなるべく避ける旅にしたかった。
 そんな心許ない状況で魏に入国するのは緊張をはらんだ。いざとなれば命を賭してでも尚香を守らねばならないと陸遜は覚悟を決めていた。
 想い人と二人で過ごせる喜び以上に、責任による重圧が陸遜の肩にのしかかる。
 周囲に目を配りながら二人は城郭の北門に辿り着き、馬に跨り国境の関所を目指して駆けた。




 ☆




「ふん。若い夫婦の二人旅か。商売で関所を越える訳でもないみたいだが、魏に入る理由も聞かせて貰おうか」
 
 呂蒙が手配してくれた通行証を見せたが、関所を守る魏の役人は気難しげに眉を寄せて陸遜達を見た。
 通行証は偽造された物ではなく呂蒙達の滞在する駐屯地がある義成県の役所が発行したものだ。役人も十分に検めて偽物では無いと認めたが、それでも陸遜達が魏に渡るのを訝しく感じたらしい。

「私達は建業より参りました。魏は豊かな国だと聞き及んでおりますので、二人で居を移したいと考えています」

 陸遜が拱手をしながら穏やかに答えると、役人は無精髭の生えた顎を掻きながら皮肉げな笑みを浮かべた。

「そうかい。だが、あんたらも建業からここまで来たんならこの辺の街の緊迫した雰囲気を察しているだろう。そんな時にそれだけの理由で魏に入ろうとするなんて、俺には気が知れんのだがな」
「ええ。だからこそ戦が始まる前に魏に移りたいのです。私達は駆け落ち同然に家を出て、建業には居場所がありません」
「ふん。まあ、俺から言わせれば、そんなのは自業自得だ。納得する程の理由じゃないな」
「ちょっと、そんな言い方はないんじゃないの!私達にとっては大切な事なの。だから、わざわざ通行証を手に入れて来たのよ」

 難癖をつけてなかなか関所を通してくれない役人に思わず尚香が言い返すと、役人は不快げに鼻を鳴らして尚香を睨んだ。

「随分、気の強い娘だな。美人だと思ってつけあがってるんじゃないのか?亭主の躾が足りてない証拠だな」
「な、なんですって!失礼な人ね!」
「尚香殿、お下がりください。この方とは私が話をします」

 役人の横柄な態度に柳眉を逆立てる尚香を後ろに下がらせて、陸遜は役人に向き直った。尚香を詰られた不愉快さが顔に出ないように努める。
 役人も機嫌を損ねているのか、ジロジロと二人を値踏みするように見て国境を通さない理由を探しているようだ。
 尚香の向こう意気の強さや、昔から不誠実な態度を取る役人達を嫌っている事を失念していたと反省する。
 概してこうした男は強欲だ。自分の一存で国境を越えたい者達の進退が決まる立場を利用して、難癖をつけては力の弱い者達から金品を強請っているのだろう。
 先程から役人の視線が何度も尚香の帯に留められた小刀を盗み見ているのに、陸遜は気付いていた。武器としては心許ないが、精緻な細工の施されたそれが値の張る物だという事は目利きで無くとも分かる。
 任務を優先させる為には、小刀を渡して通して貰うべきだろう。だがそうすると、尚香は身を守る武器を失う事になる。

「正式な通行証がありますし、魏に入りたい理由もお伝えしました。それでも、私達を通してはくださいませんか」
「俺は国境の検問を任されてるんだ。少しでも不審だと思ったら通す訳にはいかん」
「なるほど。ここを通れるかどうかは貴方の胸ひとつという事ですね」
「そうだ。まあ、俺に何か誠意を見せられるなら考えを改めても良いがな」
「誠意、ですか……」

 下卑た笑みを浮かべる役人が予想通りの台詞を言うので陸遜が内心呆れていると、尚香が一歩前に出た。
 
「あなたの言う誠意を見せたら良いのね。なら、これをあげるわ」

 尚香は両耳につけた耳飾りを役人の目の前で外して手渡した。真鍮の台座に真珠が嵌められただけの簡素な物だ。
 受け取った役人は小ぶりな耳飾りを見て、不満げに眉を寄せた。

「随分小さな耳飾りだな。俺はその帯に留めている小刀でも良いのだぞ」
「これは私の身を護る物だからあげられないわ。小さな耳飾りだけど目利きのある人に見せたら、この小刀より貴重な物だって分かるはずよ。これでも私は建業で一番大きな商家の娘なの。亡くなった父様が買ってくれた物なんだから大切にしてよね」
「ふん。なるほどな。確かに誠意を見せて貰った。通って良いぞ」

 役人は受け取った耳飾りを懐に仕舞ってふてぶてしく笑うと、ようやく検問所から関門へと続く道へ二人を通した。

 馬を引いて関所を通り、街道に出る。ようやく魏に入れたが、景色は呉のそれと特段変わりはない。
 関所の前の広場を囲うように小さな商店が軒を連ねている。陸遜は広場の端にある柵に馬を停め、商店で食事を買い求めると尚香と共に広場に置かれた長椅子に並んで座り、昼食をとる事にした。
 空を見上げると雲が孫呉のある西からゆるやかに流れている。当然ながら、空には国境は無い。
 食事を取りながら、陸遜は躊躇いながら尚香に声をかけた。

「尚香殿、あの者にお渡しになられた耳飾りは、もしや本当に父君に頂いた物なのでは……」
「ふふ、まさか。そんな大切な物をあんな人に渡したりしないわ」
「ですが、やはり貴重な物なのではないですか?」

 陸遜の問いかけに、尚香が明るく微笑み首を振る。
 良策が浮かぶ前に尚香が進み出てくれて関所を通る事が出来たが、守るべき立場の尚香に負担をかけた事が陸遜は心苦しく感じていた。
 だが陸遜の心配を他所に尚香が明るい表情で笑みを見せるので、陸遜は救われた気持ちになった。

「あれはね、練師と街へ遊びに行った時に露店で買ったものなの」
「露店でですか?」
「ええ。可愛かったから、二銭で買ったの。真珠に見えるけど実は偽物なのよ。気に入ってたから残念だけど、それで関所を通れるなら惜しくはないわ」
「それでは全て……」
「うん、全部ハッタリよ。途中でバレちゃわないかドキドキしたけど、昨日のあなたの真似をして堂々としてたら大丈夫だったわ」
「ふふ、お見事です。私もすっかり騙されました」
「あら、ありがとう。あなたに言われたら自信がつくわ」

 尚香が嬉しそうに笑うのに釣られて、陸遜も小さく声を立てて笑った。彼女を守らなければと気負い過ぎていた気持ちが軽くなった。
 食事を終えた二人は改めて旅の打ち合わせをした。魏軍の動きが無いか街道の様子を伺いながら、馬を走らせて最初の街を目指す。地図を確認すると関所から二十里程の場所にあるようだ。馬をゆっくりと走らせても夕暮れまでには辿り着けるだろう。
 二人で地図を見ながら、陸遜は尚香の横顔を覗き見た。
 円やかな弧を描く頬や、小さく口角の上がった赤い唇は相変わらず美しい。
 肩が触れ合う程の近くにいる彼女の耳飾りを失くした耳たぶはふっくりとして柔らかそうだ。
 思わず触れたいと思ってしまった自分を諫めて、陸遜は長椅子から立ち上がった。

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やっと魏に入国出来ました。
五話位で終われるかなと思ってましたが、もう少し長くなるかもです。
地の文が陸遜視点寄りで書いているので、顔に出さない心の中のデレを書けるのが楽しいです。
次回は、話も二人の仲ももう少し進展させたいです。
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