朝の駆け引き


 尚香の朝は早く、日の出の時間が早い夏でも夜明け前には目覚めている。
 幼い頃から早朝に鍛錬をする習慣が身についているからか、寝起きもとても良い。
 夜明けと共に起き出し、まだ眠っている伴侶を起こさないように気をつけながら寝台を抜け出す。動きやすい漢服に着替えて、中庭で鍛錬に励むのは、陸家に嫁いでからも変わらない尚香の習慣だ。
 それに尚香は夜明けを迎える景色を見るのが好きだ。
 暁の気配を感じながら、まだ暗い庭に出て東の空を見る。朝日が徐々に顔を出し、中庭に光が満ちていく光景は何度見ても飽きない。
 邸の甍も、庭に植えられた植物も、朝の光を浴びて本来の色を取り戻し、自分を取り巻く世界も深い眠りから目覚めていくように感じられた。
 訪れと同じように静かに去っていく夜に少しだけ恋しさを感じながら、新しい一日への期待が胸に満ちていく。そうすると、今日一日を精一杯生きられるような気持ちになれた。

 尚香が陸家に嫁いだばかりの頃、邸に住み込みで働いている使用人達は、朝早くに厨に顔を出した尚香に驚いた。
 朝食の支度をする皆に、何か手伝える事はないかと尚香が聞くので、孫家から嫁いで来た当主の夫人を働かせる訳にはいかないと使用人達は断った。
 それでも尚香は、家の事を知る為に手伝わせて欲しいと頼み続けた。
 使用人達は顔を見合わせて、ひたむきな尚香の気持ちに折れ、夫人が手伝っても支障の無い作業を相談した。
 細かい作業はあまり得意ではないと言うので、調理する前の食材を洗ったり、粥を作る為の水を井戸で汲み、鍋に火をかける作業を手伝って貰った。
 使用人達に手順を確認しながら、尚香は良く働いた。
 厨の裏にある立派な井戸を見て、「あら!立派な井戸があるのね。城の井戸より大きいかもしれないわ」と言って使用人達の笑みを誘った。
 食事が出来る頃にはすっかり使用人達と打ち解けた尚香が、皆と談笑しながら机に食事を並べているのを見て、遅れて食堂に来た陸遜は驚いた。
 それから、早朝の鍛錬の後に使用人達の朝食の準備を手伝う事も尚香の朝の日課になった。
 立場や身分を考えると異例の事だが、尚香は昔から身分に甘んじて人任せにする事が好きではなかった。
 今では江東の大勢力となった孫家の姫君とはいえ、自分で出来る事があれば自分ですべきだというのは亡き父が母に継いだ方針だ。
 陸家の夫人の立場にお飾りのように座っていたくはないという、信念に近い気持ちを尚香が抱いている事を知っているので、陸遜は尚香のある意味豪族の夫人らしからぬ行動を咎める事はなかった。
 そんな朝の早い尚香とは対照的に、陸遜は起きるのが遅い。窓から射す陽射しに目覚めても、いつの間にかまた微睡みに落ちてしまう。そんな調子なので目覚めも悪く、ようやく身体を起こしても暫くぼんやりと寝台に座している事が多い。元々目覚めが悪い質だが、持ち帰りの仕事も多く、眠る時間が夜更けになる事が多い為でもあった。
 陸家に嫁ぐまで陸遜の朝が遅いと知らなかった尚香は、朝の鍛錬を共にしようと陸遜の部屋に勢い良く訪れた事がある。
 まだ寝室を別にしていたので、尚香は陸遜が夜更けまで書見をしていたと知らず、寝台にうつぶせるように顔を埋めて眠る陸遜の肩を掴んで揺り起こした。

「陸遜!もう朝よ。早く着替えて、鍛錬しましょう」
「……姫様、……あの、出来ればもう少しだけ眠らせて頂けませんか」
「あら、まだ眠いの?城の練武場にはこれ位の時間から鍛錬に来てたじゃない」
「そ、それは……。姫様にお会いしたかったから、頑張っていたのです」
「も、もう!それならそうと……って、言える訳ないか」
「言えません。でも、やっと言えましたね」

 今にも微睡みに落ちそうな陸遜が微笑むと、尚香は頬を朱に染めて陸遜の寝台の端に腰掛けた。
 眠たげに欠伸を噛み殺している伴侶の手に触れてみると、そっと握り返されて尚香の胸に温かい気持ちが満ちた。

「まだまだあなたの知らないところ、沢山あるのね。付き合いが長いから、なんでも知ってるような気がしてたわ」
「私もです。姫様が目覚めてすぐに、こんなにお元気だとは今日まで知りませんでした」
「ふふ、安心して。もう無理に起こそうとしたりしないから」

 尚香が微笑むと、陸遜も笑みを浮かべた。まだ眠気の去らない無防備なその表情も、尚香の初めて見るものだった。

「来て下さっても構いませんよ。目覚めて最初に姫様とお会い出来るなら、寝不足も厭いません」
「陸遜ったら、照れ臭くなるような事ばっかり言うんだから」
「こうしていられるのが幸せだから、仕方がありませんね」

 微睡みながら微笑むと、陸遜はまたうとうとと瞼を閉じてそのまま穏やかな寝息を立て始めたので、手を取られたままの尚香は動くに動けず、その日の朝の鍛錬を諦めた。

 それ以来、尚香は陸遜を無理に起こす事はしなくなった。
 流石に朝食の支度が終わっても食堂に来ない時は尚香が自ら起こしに行ったが、夜中に目覚めた時に陸遜の書斎から明かりが漏れている事が度々ある事に気付いてからは、寝室にいられる時間は穏やかに眠っていて欲しかったからだ。
 婚姻を結んでから二年が過ぎ、尚香は陸遜と共に眠るようになったが、尚香が朝早くに目覚める生活は変わっていない。
 以前と変わった事というと、すぐには寝台を飛び出さずに、隣で眠る陸遜の寝顔を眺めるようになった事だ。
 陸遜は明け方の時間でも深く眠っている事が多く、寝息も静かだ。普段は自分よりも年長の諸官や将達を相手に物怖じせず対峙する彼も、眠っていると年相応よりも若く見えた。
 伏せられた長い睫毛を間近で見たり、短く伸び始めた口髭を見れるのも自分だけの特権だと思う。
 目覚めて最初に見た伴侶の寝顔が穏やかだと、尚香は自分がいられる場所に喜びを感じた。
 いたずらをしかけるような気持ちで、陸遜を起こさぬように気をつけながら頬に口付ける事もあった。
 そっと触れるだけの口付けなのに、尚香の胸は少女のように高鳴った。
 そうした自分の行いを陸遜は知らないのだと思うと、尚香は少しだけ得意な気持ちになった。



 ☆



 夏至をとうに過ぎ、大暑の節気に差し掛かった頃の事だ。窓から射し込む朝の光は、昇り始めたばかりだというのに夏らしく力強い。
 いつも通り早くに目覚めた尚香は、寝台の上で上体を起こし両腕をあげて背筋を伸ばした。身体の筋が心地良く解れるのを感じると、腕を下ろして小さく息をつく。少し身体を動かしただけで一気に覚醒し、今すぐにでも鍛錬に向かえそうだ。
 隣で眠る陸遜を見ると、いつも通り静かな寝息をたてている。尚香の方に身体を向けて眠る姿が微笑ましかった。
 相変わらず長い睫毛に感心しながら、伴侶の寝顔を見つめる。端正な顔は出会った頃より精悍になった。それでも、まだ年若い彼には少年の面差しが残っていて、その事に尚香はどこか安心する気持ちになった。
 ふと視線をやった唇は薄く開かれ、白い歯が覗いている。血色の良いその唇に触れられた昨夜の事を思い出して、尚香は頬を赤らめた。一度思い出すと、記憶は連鎖的に蘇り、尚香の鼓動を速くした。
 一人で狼狽えていると彼に対して後手に回ったような気持ちになり悔しくなる。尚香は自分を狼狽えさせた張本人に意趣返しをしようと、眠る陸遜の頬に口付ける事にした。
 陸遜を起こさぬように気をつけながら上体を屈めて、頬に口付けた瞬間の事だ。
 眠っている筈の陸遜に腕をそっと掴まれて、尚香は小さな悲鳴をあげて驚いた。

「お、起きてたの!?」
「はい。珍しく、尚香殿より先に」
「な、なら、どうして寝たフリなんかしてたの!」
「いつも目覚めると、一人ですからね。たまには、貴女と朝を過ごしてみたいと思ったんです」

 陸遜に不意をつかれたのが悔しくて尚香がむくれるが、陸遜は不機嫌な尚香に動じる様子も見せずに笑みを浮かべている。
 寝顔を見つめていた事も、陸遜が眠っていると思い頬に口付けた事も、全て気取られていたのだと思うと頬が火照り、耳の先まで熱を持った。
 陸遜が自分より早く起きる筈がないという尚香の思い込みを利用して策に嵌められたのだと気付き、尚香は小さく溜息をついた。
 まだ若いとはいえ、陸遜は孫呉の次代を担っていく事を期待されている軍師だ。こうした細やかな駆け引きでも、敵う相手ではないと尚香が密かに観念した時だ。
 陸遜が掴んだままでいた尚香の腕を、自分の方に引き寄せた。
 突然強い力で腕を引かれて、寝台の上に身体を横たえたままの陸遜の胸に倒れるように尚香が身を寄せると、陸遜は尚香の背に腕を回して抱き締めた。

「念願が叶いました。やはり尚香殿がいる朝は違います」
「もう。私があなたをほったらかしているみたいに言わないでよ」
「ふふ、失礼しました。早く起きて鍛錬をしたり、皆の仕事を手伝ってくださる尚香殿は素晴らしいと思ってます。ですが伴侶がいるのに目覚めたら一人きりなのは、中々侘しいのですよ」
「じゃあ、あなたも私と同じ時間に起きれるように頑張りなさい。夜中に起き出して仕事をしないようにしたら、きっと起きれるわ」
「それは尚香殿のご忠言でも約束は出来ません。ですから、たまにで良いのです。私が起きるまで側にいてくださいませんか?」
「……もう、仕方ないわね」

 陸遜が静かに願うように言うので、尚香は微笑みながら頷いた。
 思えば今まで想像した事も無かったが、自分が逆の立場ならどうだろうか。
 目覚めたら共に眠っていた伴侶が部屋のどこにもいないとなると、置いて行かれたような気持ちになるかもしれない。
 窓から射し込む朝日に照らされ、徐々に明るくなる寝室で陸遜と身を寄せていると、特別な時間を過ごしているように感じた。
 尚香の背を抱く陸遜の腕が尚香の身体をさらに掻き抱くので、尚香が顔を上げるとすぐ近くで自分を見つめる陸遜の瞳と目が合った。
 言葉を交わす必要もなく気持ちを悟った尚香が目を閉じると同時に、唇に柔らかいものが触れた。
 次第に早くなる鼓動を感じながら、たまには二人で過ごす朝も良いかもしれないと尚香も思うのだった。
 
- - - - - - - - - -
姫様は朝から元気そうで、反対に陸遜が朝に弱かったら可愛いなと思いついて話にしてみました。
甘めのやり取りは書くのが楽しいですが、同じくらい照れ臭くて、短い話ですが書き上げるのに時間がかかりました。
書いたもののなんだか二人がいちゃいちゃしてるだけな感じになりましたが、それも二次創作の醍醐味だなあと思うので、また甘めの話も書きたいです。
back
×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -