きっかけの贈り物 |
夏も盛りに近づいてきた頃、尚香は女官達を伴って城を出た。 目的地は城下町の外れの山沿いにある果樹園だ。今年は気候が良く桃が豊作だと城に果実を納めに来ていた果樹園の園主に教えられて、収穫を手伝わせて貰う事になったのだ。 目的の果樹園に着き、桃の畑に向かった尚香達は歓声をあげた。 桃の木の枝に、大きな桃が鈴なりに実っている。食べ頃の桃からは微かに甘い香りも漂い、尚香達の期待を刺激した。 園主の指示を受けて、尚香達は手分けして桃を収穫した。熟している桃は柔らかいので、果肉や皮を傷つけないように慎重に摘み取った。 夏の陽射しを浴びながら、女官達と語らって収穫する時間は楽しい。いつもとは違う場所で労働に励めるのも尚香は新鮮に感じ、瞬く間に時間が過ぎた。 近くにある木々に実った桃を全て収穫し終えた尚香は、他にも収穫出来る桃が実っていないか探す為に畑を奥へと進んだ。 だが、園主達も収穫に精を出して取り組んでいたので、枝に実をつけた桃の木は近くには見当たらなかった。 それでも諦めずに、畑の中を散策していた時だ。 (……あら?あんなところに、一つだけ実ってる) 畑の外れにポツンと植えられた桃の木に、一つだけ桃が実っているのを見つけた。 小ぶりだが、他の実よりも香りが強い。甘く芳醇な香りに誘われるように、尚香は桃の木に近づき、その実に触れた。 産毛が生えたようなさわさわとした肌触りを確かめ、枝からもぎって良いものか逡巡する。 この木に一つだけ実がついているのは、実が小さいから敢えて残しているのだろうか。 (園主に聞いた方が良いかしら……。でも、何故だろう。私、この実を凄く食べてみたいわ) 気づけば、尚香は実を枝からもぎっていた。無意識の行動に慌てて園主の元に駆け寄った。事情を説明してこの実を買い取ると伝えると、園主が不思議そうに小首を傾げた。 「あの木の実っていた桃は、昨日全て摘み取った筈ですが……。はて、不思議ですが、その実は姫様に差し上げます。姫様の手ずから摘んで欲しくて、隠れていたのやもしれませんな」 朗らかに笑う園主に礼を良い、尚香は桃を背に負う籠に入れた。他の実と区別する為に印を付けるべきかと思ったが、小ぶりで香りの強い実は間違えようがなかった。 桃を全て収穫し終えた後も、収穫した桃の仕分けを手伝った。日が暮れるまで果樹園の仕事を手伝った尚香達は、園主から収穫物の一部を手伝いの報酬の代わりに譲って貰い、意気揚々と城に戻った。 明くる日、朝食に収穫した桃が出された。その中には、あの不思議な小ぶりの桃もある。昨日のうちから、朝食に出して貰えるように調理を担当する女官に頼んでいたのだ。 粥と点心を食べ終えて、食べやすい大きさに切り分けられた桃を見た。器に綺麗に盛りつけられた桃の果肉は美味しそうだ。まずは皆と収穫した桃を選んで楊枝を挿し頬張った。 囓ると甘い果汁が口の中に広がり、水気が多く柔らかい果肉は舌に心地良かった。夢中になって桃を食べる尚香は、器の中に少し小ぶりな果肉を見つけて瞳を輝かせた。 (昨日の桃だわ。凄く良い香り……。でも、味はどうかしら) 期待に胸を膨らませながら尚香は果肉に楊枝を刺して、まずは一口頬張った。 果汁が尚香の口の中に広がり、その甘やかな味は美酒にも似ていた。瑞々しい果肉は口の中で溶けてしまうように柔らかい。 (凄く美味しい......!それになんだか不思議。食べているとお酒を飲んでるみたいな気持ちになるわ) 一口食べると止まらなくなり、尚香は忽ちのうちに件の桃を全て食べてしまった。 朝食を終えると、調練場に赴くのが日課の尚香は眠そうに欠伸を噛み殺している。 「姫様、いかがなされましたか?」 「心配しないで。なんだか眠いだけだから……」 心配そうに問いかける女官に、尚香は微笑みかける。その矢先に、また一つ欠伸が出そうになって、口元を掌で覆った。 「もしかして、寝不足でございますか。日中になる前にお起こしいたしますので、少しお眠りになられてはいかがですか」 「うん、ありがとう。そうしようかな」 女官に促された尚香は自室に戻り、寝台に横たわるやいなや眠ってしまった。 眠りは深く、夢を見る事もなかった。 幾ばくかの時が経ち、部屋に女官が入って来る気配を感じて尚香は目を覚ました。瞼を擦りながら寝台の上で上体を起こすと、こちらを心配そうに見ている女官と目が合った。 『良かった!朝より姫様の顔色が良いわ』 人の良い女官の安堵した声に、尚香は笑みを浮かべる。 「ありがとう。お陰で良く眠れたわ」 「え……?私、何か申し上げましたか?」 礼を言う尚香に、女官が驚いて胸の前で手を組んだ。女官の反応に尚香も驚いて、大きな瞳を瞬く。 「あら、今声をかけてくれたじゃない」 「い、いいえ。私は何も……」 女官が戸惑いながら首を振るので、尚香も不可思議に思い小首を傾げた。 確かにはっきりと聞こえたのにと尚香が思った時だ。 『……もしかして、姫様はお聞き間違いをされたのかしら?まだ寝起きでいらっしゃるものね』 「ううん、違うの。聞き間違いじゃないわ」 女官の呟きが聞こえたので、尚香が返事をすると、女官が更に驚く。 「ひ、姫様、私はやはり何も喋っておりません。ですが、姫様のお答えはまるで私の心の声が聞こえているかのようです」 「え?あなたの心の……?で、でも、心の声なんて普通は聞こえないわよね」 「その筈です。私も最初は空耳がお聞こえなのではと思いましたが、何度もお返事を頂くと、私の心をお知りになっているとしか思えません。姫様の御身に何か起こっているのでは無いかと心配でございます。確かな事は私には分かりかねますので、侍医を呼んで参ります。暫くお部屋にいらして下さい」 なかば駆け去るように部屋を出た女官を見送った尚香は寝台から降り、窓辺に腰を下ろして考え込んだ。 心の声が聞こえるなどという不可思議な事が、本当にあるのだろうか。 世の中には不思議な能力を持つ者がいるという話を聞いた事がある。だが、それらは噂に過ぎずないと尚香は思っていた。もしくは、物語や伝説の中だけで語られるものだ。 だけど、先程はっきりと女官の声で聞こえた言葉を彼女は話していないと言う。 子供の頃から身の回りの世話をしてくれている人の良い女官は、尚香に嘘をつくような人ではない。 原因は何で、自分の身に何が起こっているのだろうか。 窓の外の変わらぬ景色を見ながら、尚香は不安な気持ちで侍医が来るのを待った。 ☆ 女官に連れられて来た老齢の侍医は、尚香の正面に座ると、尚香の腕を取って脈を測った。脈に異常がないのを確かめると尚香に承諾を取り簡単な触診をしたが、やはり異常は認められなかった。 「ふむ。特に体調にお変わりはないようですな。女官に事情は聞いておりますが、まだ思い違いの可能性もあります。心の声が聞こえているのが確かか試させて頂きたい。これから私が考える事を当ててくださいませぬか」 「分かったわ」 尚香は頷くと、侍医と向き合った。侍医は考え込むような表情のまま尚香を見つめている。 『不思議な事もあるものだ。もしや、これが師が言っていた仙の気まぐれだろうか』 「……不思議な事もあるものだ。もしや、これが師の言っていた仙の気まぐれだろうかって聞こえたわ」 尚香が答えると、侍医が驚いて目を見開いた。 「な、なんと……!まさしく私が考えていた事ですな」 「じゃあ、やっぱり心の声が聞こえているのね。ところで、仙の気まぐれってなに?」 初めて聞いた言葉を不思議に思い、尚香が問いかける。 「仙の気まぐれとは、暇を持て余し崑崙山から下りた神仙が人間にいたずらを仕掛ける事と古より伝えられています。総じて一時的に不思議な力を得る事を呼ぶのですが……。姫様、今朝は何かいつもと違う物を召し上がられませんでしたか?」 「特に何も……。いつも通りの朝食と昨日収穫した桃を食べただけだわ。あ、でも……」 昨日、見つけて収穫した小ぶりな桃の事を思い出す。甘い香りの強い桃は、どうしても収穫して食べたくて仕方なかった。その事を侍医に伝えると、彼は長く伸ばした髭に触れながら頷いた。 「なるほど。その桃に不思議な力が宿っていた可能性はございますな。その場にいた訳ではないので、確実にとは申し上げられませんが」 「他の実より小さかったのに、どうしても摘み取って食べたかったの。もしかしたら神仙に心を操られていたのかしら」 「我が師も一度だけ姫様のように仙のきまぐれに見舞われた者に会った事があると申しており、その者も何かを食したようでした。ですが不思議な能力を得ても、あくまで一時的なもの。摂取したものが消化されて体外に排出されれば、能力は失われてしまうと言っておりました」 「ようするに、どういう事?」 「明日には、普段通りの生活に戻れるという事にございます。仙の気まぐれとは、名の通り気まぐれな能力なのです。万が一明日になっても続くようでしたら、またお呼びくだされ」 侍医が穏やかに微笑むので、尚香は息をついた。一時的なものだと分かり、安心する。相手の声そのもので聞こえてくる心の声は、実際の声と区別がつかず誰より尚香自身が混乱していた。 『良かったわ。姫様がずっとこのままだと、どうしようかと思った……』 女官の声が聞こえて尚香は彼女を振り返るが、女官は尚香を見ておらず退室する侍医の背を見送っていた。 (話しかけるなら私を見る筈だから、今のは心の声ね。相手の様子を良く見るのが見分ける秘訣みたい) 最初は恐ろしく感じた不思議な力も、慣れると興味深く思えた。 心の声を聞く事で人の良い女官が尚香の事を心から心配をしてくれている事も知り、信頼を深める事も出来た。 だが、心を知る事で不都合が出る相手も勿論いるだろう。 今日は部屋から出ずに、能力が失われるまで部屋にいるべきだろうか。 女官が退室し、部屋に一人で残った尚香は悩んだが、元来好奇心の強い尚香は仲間達が普段何を考えているのか知りたいという気持ちに抗えずにこっそりと部屋を出た。 ☆ 部屋を出た尚香は、中庭を抜けて調練場に向かう事にした。調練場なら、兵を指導する将達に会えるに違いない。 城から中庭に出たが人影は少なく、その分、はっきりと皆の心の声が届いた。 『忙しい!忙しい!身体が二つ欲しいくらいだ!!』 『失敗しちゃった……。報告するのが憂鬱だわ』 『眠い……。昨日は遅かったからな。今日は早めに仕事を終えて、真っ直ぐ家に帰ろう』 『ひどいわ!あんな言い方するなんて、上司とはいえ腹が立つ!!あんな奴、左遷されちゃえば良いのに!!』 中庭の小道を通り過ぎる人達は無表情に近いが、心の声は多種多様な感情に彩られている。 勝手に他人の心を知る事に後ろめたさを感じながらも、尚香は興味深く皆の心の声に耳を傾けた。 本来、体裁の取られていない心は人に知られるものではない。その為、喜びも悲しみも、全て真実に彩られている。 中には聞こえてしまった事を後悔するような罵詈雑言もあったが、勝手に知っておきながら胸の内に秘められた怒りを否定出来る立場ではないと、尚香は理解して忘れるように努めた。 中庭を抜けて、調練場に向かうと予想通り将達が自軍の調練をしていた。 彼等のところへ向かおうと大勢の兵がひしめく調練場に入った途端、大勢の心の声が一斉に聞こえて、押し寄せるようなその騒々しい声に頭がクラクラとした尚香は慌ててその場を離れた。 (あまり大勢の人がいるところは良くないのね。聞く人を選べないし、全部聞こえちゃうから仕方ないか……) 調練場を離れた尚香は静かな場所を求めて、城へと引き返した。中庭を抜けて、渡り廊下に入ると見知った人の話し声が聞こえてきたので、思わず身を屈めて柱の影に隠れた。 渡り廊下の柱に背を預けるようにして前方を伺うと、甘寧と凌統が言い争いをしている。 「だから、あんたの兵の動かし方は気にくわないって言ってんの。どうせ、あんたの事だ。あんたが突っ走った分、俺達の軍が尻拭いしてるのも分かってないんでしょうよ」 「へん。戦場にゃ役目ってのがあんだ。俺はおっさん達に、とにかく突っ込めって言われてんだよ。先頭切って戦える奴がとっととケリつけりゃ、その分戦を早く終わらせられんだろうが」 「突っ込むにしても限度があるっての。ちったあ後ろを振り返ってくれないもんかね」 「しつけえな。ガミガミ言われたって、俺はやり方を変えやしねえよ!」 二人の言い合いはすっかり膠着していてまだまだ続きそうだったが、二人の心の声を聞いた尚香は微笑み、二人に見つからないように気をつけながらその場を離れた。 (甘寧は心がそのまま口をついて出てたけど、凌統ったらやっぱり優しいのね) 『戦うなら自分の身を守る事も考えろってんだ。あんたに簡単に死なれちゃ困るんだよ。……そうでないと、父上が報われない。それにあんたが連れてきた部下達もだ。死んじまったらそこで終わりなんだよ。俺の目の届かないとこにいられちゃ、あんたの背中を守るにも守れないっつの』 (……私も戦に出れたら、凌統を助けよう。一緒に甘寧達の背中を守りたいもの) 切実な気持ちが込められた凌統の心の声を、甘寧にそのまま聞かせられたら良いのにと思いながら、尚香は城の中に入った。 城内の通路を行き交う人達の脈絡のない心の声が聞こえてくるが、尚香の対処出来る範囲のもので調練場にいた時のような目眩はもう感じなかった。 部屋に戻るか悩みながら目的もなく散策していると、前方を歩く陸遜を見つけて尚香は喜んだ。今日は執務だけの日なのか、戦闘用の服ではなく平服姿だ。 幼少の頃から苦労している為か、陸遜は尚香と変わらない年齢であるのに既に泰然自若とした態度を身につけている。そんな陸遜が普段心の内でどんな事を考えているのか興味が湧き、尚香は陸遜の背を追いかけた。 だがしかし、陸遜の背に近づくにつれ、尚香は急に不安になる。 常に誠実な彼はきっと心でも不遜な事は考えていない筈だ。そう確信を抱きながらも、もし幻滅するような事を考えていたらと考えてしまったのだ。 心の中は自由なのだから、陸遜が例えどんな不遜な事を考えていようと自由だ。心の中で思うだけの事は、帝ですら咎める権利はない。 むしろ咎められるべきなのは、勝手に心を知ろうとしている尚香の方だ。そう思い至り、自分を諌めながらも、どうしても知りたいという好奇心が胸を満たして、若干の後ろめたさを感じながらも、尚香は追いついた陸遜の背に声をかけた。 「陸遜!どこに向かっているの?」 振り返った陸遜は、尚香の姿を認めると慌てて拱手をした。 「姫様、お声がけ下さりありがとうございます。先程まで軍議に出ておりましたが良案が浮かばず、呂蒙殿に許可を頂き気分転換に散策しておりました」 『姫様の方から声をかけて頂けるなんて。今日もお会い出来るとは思わなかったから、嬉しいな』 「え……?」 「姫様、どうかなさいましたか?」 喜びに満ちた陸遜の心の声に驚いて、尚香は陸遜に拱手を返すのを忘れて立ち尽くした。 不思議そうに自分を見つめる陸遜の視線に気付いて、尚香も慌てて拱手をする。 「ご、ごめんね。私から話しかけたのにぼんやりしちゃって」 「いえ。お気になさらないで下さい。ところで、姫様はどちらへ?」 「私も散策してたのよ。今日は調練場に向かう気がしなくて、でも部屋にいても退屈だから」 互いに拱手の姿勢を崩して話しながら、尚香は陸遜の様子を盗み見る。特段、普段と変わった様子はない。 随分と気持ちの籠もった心の声だったが、自分だって親しい友に会えたら嬉しいと思う。それと変わりない気持ちなのだと尚香が思い直した時だ。 『思い切ってお声がけしても良いだろうか。姫様と二人で過ごせる機会を逃したくはない』 「あの、姫様。散策なされてるのならば、良ろしければ私と一緒に歩きませんか」 「え……?あ、あの。うん、私で良かったら」 「ありがとうございます。じゃあ、参りましょうか」 『お受け下さった。嬉しいな。他の何ものにも代えがたい時間だ』 (どういうことなの、陸遜の気持ちってまるで私の事……) 陸遜と並んで歩きながら、尚香は頬が勝手に熱を持ち始めたのが分かった。陸遜にきっと他意はないのだと思いながら、どうしても隣を歩く彼を意識してしまう。 今日まで尚香は陸遜から恋愛感情を向けられていると感じた事は一度もない。誰に対しても一貫して誠実な態度を崩さず、尚香に対しても適切な距離を取って接してくれていた。 きっと友愛で想ってくれているのだから勘違いしてはいけないと自分を諌めるが、それでも頬の火照りは治まらない。思わず片手の掌で頬に触れてみるが、普段よりもじんわりと温かい熱が伝わってきた。 きっと顔も赤くなっている。陸遜に顔を見られるのが恥ずかしくて、尚香はわざと陸遜の半歩後ろを歩くことにした。 『姫様、なんだか今日はいつもよりしおらしくていらっしゃるな。私と二人で過ごすのがご不満なのだろうか……』 「そんなんじゃないの!」 「え……?」 少し前を歩く陸遜の寂しげな心の声に思わず返事をしてしまい、驚いた陸遜が尚香を振り返った。 まさか尚香が心の声を聞けるようになっていると知らぬ陸遜は、頬を赤く染めた尚香を暫し見つめた。 「あはは。驚かせちゃって、ごめんね。私ったら、空耳が聞こえて間違えて返事しちゃったみたい」 「いえ。私もそのような時はあります。どうかお気になさらないで下さい。それより姫様、お顔が赤いようですが……」 「き、気にしないで。ほら、今日は暑いでしょ。だから少し火照っちゃったみたい」 「ならば涼めるところに向かいましょうか。お供致します」 陸遜が穏やかに微笑むので、尚香が頷く。平常心を取り戻そうと、静かに息を整えていた時だ。 『お加減が悪いのでなくて良かった。それにしても、ご無礼を承知で暫く見つめてしまったが、やはりお美しいな。……いつか誰かに嫁がれる前に、姫様を娶りたいと申し出られる立場になれるよう努力を続けなければ』 また聞こえてきた陸遜の心の声は想いを寄せられている事が決定的で、尚香は思わず陸遜から視線を逸らしてしまった。 これでは陸遜を意識してしまっている事が丸わかりだ。さらに動揺してしまった尚香は平静を取り戻そうと努めるが、今では頬どころか全身が火照ったように熱かった。鼓動も早鐘のように打ち、尚香の動揺を煽る。 (ど、どうしよう。こういう時って一体どうしたら良いの。慣れてないから全然分からないわ) 「姫様、ほんとにお加減が悪いのではないですか?」 「だ、大丈夫。ほんとに暑いだけなの」 『姫様の態度、普段と違い過ぎる……。これでは、まるで……。いや、きっと私の思い違いだ。姫様も私に好意を寄せて下さっていると考えるなんて虫がよすぎる』 心配して声をかけてくれている陸遜が、尚香の気持ちを悟り始めてるのを知って、尚香は動揺のあまり陸遜を置いて全速力で駆け出した。 「ご、ごめん、陸遜!やっぱり私、調子が悪いみたい!!部屋に戻るわ!!誘ってくれてありがとう!!」 あっけに取られて尚香の背を見送る陸遜に向かって叫ぶように言うと、尚香はまっしぐらに部屋に戻り、尻もちをつくように床に腰を下ろした。 心を落ち着けようと目を閉じるが、陸遜の穏やかな表情やひたむきな心の声が脳裏に浮かび、火照った身体も早くなった鼓動も中々落ち着かない。 (どうしよう。聞かなければ良かったわ。明日からどんな顔して陸遜に会えば良いの……) 明日には、この不思議な力も失われている筈だ。だが、新たに尚香の心に芽生えたこの気持ちは無くならず、彼に会う度に更に育っていくのだろう。戸惑いと同時に確かに喜びも感じている自覚がある尚香は切ない溜息をついた。 忘れなければと思う気持ち以上に、忘れたくはない。そう思ってしまう気持ちを偽る事はきっと出来ないだろう。 もしかしたら自分に不思議な力を与えた神仙はこうなる事を知っていたのだろうか。知っていた上で、自分を選んだのだろうか。 文字通り神仙に気まぐれに気持ちを弄ばれているようで腹立たしい気持ちにもなりながら、尚香は明日へと想いを馳せた。 翌日の朝。尚香を心配して拝謁を願い出た陸遜の元にやって来た尚香は、既に不思議な力が失われているのに彼の言葉から、表情から、視線から自分を想う気持ちが伝わってくるように感じて、まともに陸遜と視線を合わせる事が出来なかった。 普段は溌剌とした尚香が頬を火照らせ、しどろもどろになっている様子に確信を深めた陸遜が、運命を変える一歩を踏み出すのは、また別の話である。 - - - - - - - - - - 尚香がスパイファミリーのアーニャな能力を手に入れて、陸遜の気持ちを知ったらどうなるのかなと思って書いてみました。 メインの陸遜までの前置きが長くなっちゃいましたが、甘寧と凌統の友情も少しだけ書けて満足です。 陸遜の場面も、心の中だから思い切りノロけられて楽しかったです。 オチに書いた別の話もまた書けたら良いなと思います。 [back] |