君想い、花開く


 孔明の自宅にある執務室は、整然としている。
 初めて孔明の部屋を訪れた者は、まずその整然と整理された書棚に圧倒されて、部屋の主に挨拶するのを忘れて、立ち尽くしてしまう。
 月英が部屋の寸法に合わせて作った書棚には、ぎっしりと竹簡や貴重な紙で綴られた書籍の資料が並べられている。それも雑然と積み重ねられているのではない。定規で測ったかのように竹簡や書籍の長さや厚みを揃えて、まるで組み木細工のように隙間なく置かれている。
 棚は天井にまで届く程高く、その最上段まで同じ様相で資料が収められている。その書棚が部屋の入り口や窓以外の壁を全て覆いつくしていた。
 背よりも高い場所をどのように整理しているのかというと、やはり月英の作った壁の中程までの高さのある可動式の昇降台を利用している。
 恐るべきはいずれの棚にも膨大な資料を分類する札が付けられていない事だ。それでも、孔明は不便なく過ごしている。棚のどの位置に、何が収められているのかを全て把握しており、この部屋では自分以外の者が資料を閲覧する事は殆ど無いので、札は不要だと考えていた。
 孔明は思索を巡らせるのに静かな場所で過ごす事を好む。午前中は城へと出向くが、午後からは自宅に仕事を持ち帰って日が落ちるまで机に向き合った。
 執務室の窓は悪天候でない限り常に開け放たれていて、裏庭に植えられた笹の枝が風に戦ぐ音や、小鳥の囀り、小さな獣が草を踏んで走る足音や、雨天の日は軒を叩く雨垂れの音を楽しんだ。
 資料や他国から届いた書簡を読みながら、それらの音を聞いていると、孔明は己という個から解放されたような心地になる。そうすると孔明の視点はまるで飛翔する鷹のように俯瞰して物事を見定められるようになり、天啓に近い閃きを得るのだ。
 孔明が自室で過ごしている時は、部屋の主に呼ばれない限り月英は彼の部屋には入ってこない。そうした理解のある伴侶の存在も、孔明の思索する時間を支えていた。 

 季節はようやく冬を越え、陽が地上を照らす時間も長くなった。春分を迎えた大地には草木の芽が小さく顔を覗かせ始めていた。
 孔明は自室で他国から届いた書簡を読み、自ら筆を取って返信を書いていた。
 書簡を読むだけで、孔明は書いた者の人となりや思惑を推し量る事が出来た。それは文面からだけではなく、書簡の上を走らせた筆跡からも読み取れる。
 結論から書く者、前置きが長く意図が不明瞭な者、美辞麗句を並べながらも威圧的な要求をする者もいてと、各国から届く書簡は多種多様だ。
 書簡をやり取りする相手は実際に対面した事のない者の方が多いが、孔明は会った事のない者達の喋り方の癖まで想像が出来た。それらは想像の域を出ないが、あながち的外れではないだろうと孔明は考えている。
 文机の上に積み重ねた書簡の中には、文のやり取りを楽しみにしている者達もいる。
 その中の一人が、孫呉の若き軍師である陸遜だ。
 彼とは赤壁の戦いに臨んだ際に、少しだけ言葉を交わした事がある。周瑜や魯粛が率いる呉軍の中で、若手の彼はまだ目立たぬ存在であったが、利発な眼差しと明晰な受け答えが印象に残っていた。
 孔明の元に陸遜から書簡が届くようになったのは昨年からだ。それまでは外交を担当する別の軍師が文を寄越していたが年嵩らしい文章を書いていた彼は退官したのか、その後釜を陸遜が担う事になったようだ。
 彼の文章は対面した時の印象と変わらず明晰で理路整然としており、その利発さが伺えた。劉備の陣営を誠実に立てながらも、外交的な要求は決して妥協しない姿勢を貫いている。
 彼からの書簡が届く度に、孔明は陸遜の書いた文を興味深く読んだ。
 彼がどのような反応を返してくるのかを想像して、返信に仕掛けを施す事もあった。細やかに見せかけて、外交の要に関わる問いを投げかけてみるのだ。
 普通に読むだけでは読み飛ばしてしまいかねない孔明の仕掛けを、陸遜は委細漏らさずに拾い上げて返信を寄越した。時には、孔明の仕掛けに応じて、更なる交渉を持ちかけてくる事もあり、孫権の擁する俊英に孔明は感心した。
 そして、いずれ呉と相対せねばならなくなった時に、彼は大きな障壁になるだろうと予感もしていた。
 今日持ち帰った書簡の中には陸遜からのものもある。孔明は短い書簡の束の返信を先にまとめて仕上げると、陸遜から届いた書簡を手に取った。厚みと重量のある書簡は読み応えがありそうで、孔明は口元に微かな笑みを浮かべた。
 書簡を留めた麻紐を解くと、ほとりと中から小さな小袋が落ちた。
 紅の錦で作られた袋は、孔明の掌に乗るほどの大きさだ。中身が入っていないのかと疑わしくなる程軽いが、袋の上から中を確かめると小さな粒のようなものが入れられているのが分かった。
 袋の口を開けて文机の上に中身を出すと、それは小さな種だった。同じ品種の物が、五粒ある。
 孔明は種を袋に戻すと、陸遜から届いた書簡を読む。時候の挨拶から始まり、劉備の陣営の隆盛を寿いでいる。後半は呉の情勢とそれを踏まえた外交的な要求だ。
 いつも通りの書簡の文面には、どこにも錦の袋については書かれていない。
 誤って書簡に紛れ込んだのかと疑うが、しっかりと留められた書簡の中から出てきた袋は意図的に入れられた物で間違いないだろう。
 孔明は再び錦の袋を手に取り、その繊細な模様を眺め、「……なるほど」と小さく呟くと立ち上がり、部屋を出た。



 ☆



 ふいに日が陰ったような気がして月英は工作をする手を休め、空を見上げた。上空は明るく晴れているが、西の空には雲が多い。今朝より強く吹く風も、これから天候が崩れる事を月英に教えてくれた。
 中庭で大掛かりな発明品の製作に取り組んでいた月英は道具を片付け、製作途中の発明品を庇の陰へと移した。
 部品の数が多く時間がかかったが、全てを移し終えると念の為に発明品を大きな麻布で覆った。
 工作道具も片付けて中庭から邸に入ると、広間に孔明の姿を見つけて驚いた。

「孔明様、いかがされましたか?いつもならまだお仕事をされているお時間ですが」
「ええ。まだ全ての書簡に目を通せてはいませんが、月英に頼みたい事が出来たので参りました」
「まあ、私にですか。お力になれる事でしたら、何なりと仰ってください」

 月英が明るく応じるのを見て、孔明が穏やかに微笑む。聡明な伴侶に頼られて、月英の胸を高揚感が満たした。
 孔明の理知的な瞳と視線が合うと、月英はいつも視線を絡めとられたかのように動けなくなってしまう。
 孔明と連れ合って既に何年も経つが、彼に惹かれる新鮮な気持ちを失わない自分を月英は自覚していた。日々進化していくように知識を深める孔明の側で過ごせる事が誇らしくもあった。

「これを尚香殿に渡して欲しいのです」
「……尚香殿に、ですか?」

 いつも軍事に傾倒している孔明から、劉備の夫人である尚香の名が出るのは珍しい。月英は不思議に思いながら、孔明が差し出した小さな赤い袋を受け取った。

「呉から届いた書簡に添えられていました。彼女に贈って欲しいとは書かれてはいませんでしたが、恐らく彼はそうなる事を望んでいる筈です」
「孔明様には、お分かりになるのですね」
「はい。彼も言葉で伝えずとも私が彼の意を汲む事を悟っています。だからこそ、彼も使いの者に託すのではなく、私が読む書簡にこれを添えたのでしょう」

 孔明が確信を持って指示をするならば、月英には断る理由がなかった。手元に託された小袋を改めて確かめる。錦を仕立てて作られた袋は小さいが、金糸で繊細に縫い付けられた模様が美しかった。

「美しい仕立ての袋ですね。中には一体何が入っているのですか?」

 袋があまりに軽いので、月英は不思議になり思わず孔明に問いかけた。

「花の種です」
「花の?種を見ただけで、孔明様にはお分かりになるのですか」
「いえ。作物以外の種には疎いので、見知らぬ種の種類までは分かりません。ですが彼が目的を持って私に届けたのなら、恐らく花で間違いありません」

 孔明の穏やかな微笑みには、確信があった。呉から届けられたという花の種に込められた想いを想像し、月英は小さな袋を持つ手を胸に当てた。そこに温もりがあるような錯覚を得る。

「贈り主の方は、どなたでしょうか。尚香殿にお伝えしなければ」

 月英が問いかけると、孔明はゆるゆると首を振った。

「彼は望んでいないでしょう。ただその花の種が尚香殿の手元に届く事だけを求めています」
「……尚香殿がお知りになりたいと、仰られてもですか?」
「呉からの荷に紛れていたと、それだけ伝えて下さい」
「……了解しました。明日、面会を請うてみます」
「ありがとう、月英。では、私は仕事に戻ります」

 ゆったりとした足取りで、部屋へと戻る孔明を見送りながら、月英は手に持つ錦の袋を見た。
 名も顔も知らぬ贈り主の心を想うと、月英にはそれが職人が手間暇をかけて磨き上げた珠玉よりも価値のある物のように感じられた。



 ☆



 翌日の昼下がりに、月英は城へと向かった。劉備は益州に遠征に出ているが、尚香は共に出陣せずに城に残っている。
 後宮の入り口を守る女官は、尚香に付き従って呉から来た者だ。尚香の女官達は噂に違わず佩刀しているが、それがただの飾りとして佩いているだけではない事が、武芸に親しむ月英には分かった。
 幸いにも女官は月英が孔明の夫人である事を知っていた。それに尚香とは何度か調練場で一緒になり、鍛錬を共にした事もある。その時の様子も女官は覚えていてくれたようだ。
 女官は月英を伴い、後宮を奥へと進んだ。建物には入らずに、広い庭の方へと向かう。
 庭の真ん中には大きな池があり、その周りを背の低い広葉樹が規則正しく植えられている。葉の落ちた枝には春を予感して、小さな蕾が膨らんでいる。春を迎えて花が咲けば、きっと美しい光景になるだろう。
 庭を進むと、池の畔に建てられた四阿から明るい笑い声が聞こえた。
 裁縫仕事をする女官達に囲まれて、尚香が愛用の武器の手入れをしているのが見えた。弓の弦を張り直す手つきは手慣れている。
 今日は天気が良いので、皆を伴って庭に出たのだろう。
 尚香を認めた女官が小走りに尚香の元に向かうと、月英を振り返った。
 女官に月英を示された尚香は立ち上がり、月英の側へとやって来た。
 動きやすさを重視しているのだろう。貴人の女性にしては簡素な漢服を身に纏っている。明るい黄褐色の髪は肩口よりも短く切り揃えられている。
 意志の強い翡翠色の瞳が光を宿して煌めき、月英の視線を捉えた。改めて美しい娘だと月英は感心する。

「久しぶりね。あなたの方からここへ来てくれるなんて嬉しいわ」
「お久しぶりでございます。尚香殿の息災なご様子を見れて、私も安心いたしました」
「ふふ、お陰様で。玄徳様も武器を扱う事を許してくれて自由に暮らさせて貰ってるもの。明日は調練場に鍛錬に行こうと思ってるから、弓の手入れをしていたのよ」
「それはようございました。よろしければ、私もお供しとうございます」

 月英が微笑みかけると、尚香が嬉しそうに手を合わせて喜んだ。

「ほんと!あなたと手合わせが出来るなら嬉しいわ」
「私も尚香殿のお相手を務められるのは光栄です。研鑽された武芸に学ばせて頂きたく存じます」
「ふふ。月英って、とっても真面目ね」
「そうでしょうか。面白味に欠け、面目ございません」
「ううん。そう言う意味で言ったのじゃないの。とても素敵って事よ。あなたが信頼出来る人だって分かるもの」

 世辞を嫌う率直な気質の尚香に褒められて、月英は面映い気持ちになった。政略で嫁いで来たとはいえ、尚香は劉備の元に集う将達を決して否定的な色眼鏡をかけて見る事がなかった。
 後宮に籠もらずに外に出て、積極的に将達や諸官と交流の機会を得ようとしている。
 そんな彼女の様子からは、自分が劉孫同盟を維持する要を担っているという自覚があり、両者を繋ぐ役目を果たそうと努める想いが汲み取れた。
 だがしかし、月英は劉孫同盟が恒久的なものでは無いと考えている。それは孔明も見解が同じだ。彼女の祖国とはいずれ三国鼎立の要である荊州を治める権利を奪い合う事となり、劉孫同盟は破綻し相対する運命にあるだろう。
 目の前の勝ち気な姫君が、将来の展望をどこまで得ているのかは分からない。
 それでも今を大切にし、繋ぐ努力を怠らない尚香を月英は好ましく感じるのだった。
 尚香は女官達に邸に下がるように伝え、月英を四阿に招いた。
 四阿に敷かれた敷き布の上に並んで腰を下ろして、話を続ける。

「それで、月英がわざわざ後宮まで来てくれたのはどうして?」

 尚香が大きな瞳に好奇心を宿して問いかける。

「今日は孔明様の使いで参りました」
「孔明の……?」

 月英の答えに、尚香が意外そうな様子で小首を傾げる。

「はい。尚香殿にお渡しして欲しいと言われ、これを持って参りました」

 月英は懐に大切にしまっていた紅色の小袋を出すと尚香に差し出した。
 尚香は袋を受け取ると、陽の光に翳すようにして確かめた。金糸で施された模様が陽の光を浴び、艶やかに煌めいて見える。

「綺麗な袋。けど、随分軽いのね。中には何が入っているのかしら。開けてみても良い?」
「勿論です」

 月英が頷くと、尚香は受け取った袋を開けて、中身を掌の上に取り出した。五粒の小さな種が袋から転がり出るように尚香の掌の上に落ちた。

「これは植物の種ね。でも、一体何が育つのかしら」
「孔明様は、花の種だと仰っていました」
「花の?尚更、意外だわ。孔明は何故これを私にくれたんだろう」

 種を袋に戻しながら、尚香が不思議そうに首を傾げる。不思議に思うのは当然だと思いながら、月英はどこまで彼女に伝えるべきかを悩んだ。
 孔明には、呉から届いた荷に紛れていたのだと伝えるように言われている。それでも彼女を想って届けられた種が、尚香に預かり知らぬ物として扱われる事が月英は忍びなく感じた。

「……呉から届いた書簡に添えられていたそうです」
「書簡に?」

 逡巡した末に、月英は尚香に真実を伝える事を選んだ。
 書簡と一緒に届いた物だと聞いて驚き月英を見つめる尚香の様子に、月英は胸のつかえが取れたような心地と同時に、伴侶の言いつけに背いた罪悪感も得た。
 胸に微かに苦い気持ちが過るが、孔明は敢えて自分に伝えぬようにと命じたのではないかとも思う。
 そうすれば月英が尚香に真実を打ち明けるであろう事を孔明が予測していない筈がない。
 自分以上に孔明は贈り主の想いを推し量っているのだと思えば、月英は自分の推測に確信を深めた。

「書簡の送り主は、誰?」
「孔明様は教えてくださいませんでした。ただこの種を尚香殿にお渡しするようにとだけ私に申し付けられたのです」
「……そう」

 尚香が長い睫毛を伏せて、手元にある袋を見つめている。
 普段は明るく快活な尚香の静かな様子に、月英は胸を打たれた。
 郷愁という言葉だけでは語り尽くせない感情を、尚香の横顔から感じる事が出来た。贈り物は手元にあるのに、決して触れる事の叶わぬ物に焦がれているような眼差しをしている。
 それはまるで描かれた花に触れる事を望むような表情だった。同時にそれが叶わぬ事を理解している諦観も孕んでいる。
 月英はかける言葉を探したが、何を言っても的外れになりそうな気がして躊躇った。
 尚香が背負う物は大きい。劉備と婚姻を結んだだけで、役目が終わったのでは決してない。その事を誰よりも彼女自身が理解しているのだという事を、月英は尚香の表情から改めて理解した。
 
「……孔明にありがとうと伝えてね。早速、この庭に植えるわ。良かったら、あなたも付き合ってくれない?」
「私で良ければ、喜んで」

 立ち上がった尚香は、晴れ晴れとした顔をしていた。翡翠色の瞳は生気に満ち、月英の良く知る尚香に戻っていた。
 月英を伴った尚香は、邸の側にある花壇に向かった。手ずから等間隔に小さな穴を掘ると、花の種を植える。全て植え終えると、種の上から土をかけ、あやすように優しく地面を叩いて馴らした。
 尚香の手元には紅の袋だけが残り、それを大切そうに懐にしまうと尚香は立ち上がって月英に微笑みかけた。

「花が咲いたら、使いをやるわね。あなたにも見て欲しいわ」
「お待ちしています」
「ふふ、約束よ。それにしても、早く咲かないかな。一体どんな花なんだろう」
「きっとこの庭に相応しい美しい花です」
「そうね、きっと……。楽しみだわ」

 晴れやかな顔をした尚香の眼差しを受け止めて、月英も笑みを浮かべた。
 開花を待つ気持ちは、どこか希望にも似ている。名も知らぬ贈り主の想いも尚香に届けられた事が、月英は嬉しかった。

 
 


 やがて種は芽を出し、葉を茂らせ、五弁の花びらを持つ赤い花をいくつも咲かせた。
 盛りを過ぎて花が散っても、二月もしないうちにまた新たな花を咲かせた。
 四季を通じて幾度も咲く花は、まるでこの場所で咲く事を喜んでいるかのように見えた。
 尚香が自ら水をやり、手入れを欠かさない花は、贈り主の心を宿し、また新たな蕾をつけた。 


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作中に出て来た花は中国中南部原産の薔薇で庚申薔薇という名前です。
薔薇には珍しい四季咲きで、春から秋にかけて花を咲かせます。そのサイクルが丁度、庚申(57日)に近いから名付けられたそうです。
花言葉は『幸福』。花を贈る場合は、『永遠の愛情を祈る』という意味になるようです。
尚香が嫁いでいた間、陸遜がどんな想いでいたのかと色々と想像していて思いついた話です。
自分自身の抱く尚香への想いや今後の展望を考えると色んな葛藤があると思うのですが、それでも遠くにいる想い人の幸福な日々も切実に祈るのかなと思います。
どうしても書いておきたい話だったので、書き上げられて満足です。
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