伝えるのは今


 終業を告げる鐘の音がする。
 視線をあげると、確かに窓から射し込んでいるのは夕暮れの光だ。
 昼食を摂り終えてから、ずっと文机に向かい執務に集中していたので、まるで一息に時間が経ってしまったような不思議な感覚を得た。
 陸遜は手にしていた筆の先を拭って文机の上に置き、天井に向けて突き上げるように両腕をあげた。腕を上げたままの姿勢で、背を後ろにしならせる。強張っていた身体の筋がほぐれる心地良さと同時に、肩にのしかかるような重い疲労も感じた。
 明日も執務があるので、文机の上を簡単に片付けて、陸遜は執務室を出た。
 戦の無い平時でも、変わらずに忙しいのが軍師の仕事だと思う。今後の戦に備えて軍備を整える手配や、軍紀の見直し、戦地の地図の作成に、他国との外交にも気を配らねばならない。
 出来ればその間に軍略についても学びたいとなると、寝る間すらも惜しいと感じる。
 事実、昨夜も夜更けまで自学していた陸遜は、欠伸を噛み殺しながら帰路についた。
 城門へと続く長い道には、帰宅する同僚達が列をなすように歩いていた。西から差し込む夕日が皆の足元に長い影を落としている。
 城門の手前まで来た時だ。陸遜の背に声をかける男がいた。
 明るく張りのある声は聞き馴染んだもので、彼の歩調に合わせて鳴る鈴の音まですれば、人間違いのしようもなかった。

「よう、陸遜。冴えねえ顔してお帰りか?」
「……甘寧殿は、随分とお元気そうですね」
「俺か?へへ、まあな!これからこいつらとイイとこに行くからよ」

 甘寧の勢いに気圧されそうになりながら陸遜が答えると、甘寧は嬉しそうに自分の後ろに立つ男達を振り返った。
 そこには、甘寧の軍に所属する兵達がいて、中には甘寧が水賊をしていた頃から仕えている男の姿もある。
「兄貴の奢りっすよね!」と、陽気に囃す男達に「任しとけ!おめぇらに一晩の夢を見させてやらあ」と、甘寧が威勢良く応えている。
 甘寧の言うイイところとは、間違いなく妓楼のことだろう。酒を飲みながら、美しい女性達に接待して貰える店は、それなりに値が張る為に連日のように通える場所ではない。
 そういえば、先の戦いで武勲をあげた将達に対して特別な賞与が今日支払われ、甘寧もその中の一人に入っていた筈だ。
 それを早速、部下達と共に一夜に溶かしてしまおうとしている甘寧の磊落さに、陸遜は驚くと同時に些かの憧れも感じるのだった。

「おめぇも行くか?そろそろ大人の世界を知っても良い歳だろ。なんなら、おめぇの分も奢ってやっても良いぜ?」
「結構です。私は酒も強くありませんし、この通りの堅物ですから、楽しみ方を知らずに場を盛り下げたくはありません」
「それを勉強しに行くんじゃねえか。綺麗な姐さん達にも会えるんだぜ」
「尚更、結構です。持ち帰りの仕事があるので、女性にうつつを抜かしてる暇はありません」
 陸遜が手に提げている他国から届いた書簡を束ねた荷物を見せる。
 甘寧は必死に誘いを断る陸遜を見ていたが、快男児らしい笑みを浮かべて陸遜の肩に手を置いた。

「まあ、お前がそこまで言うなら、そういう事にしといてやるか」
「ど、どういう意味ですか」

 胸の内を見透かすような甘寧の真っ直ぐな視線に射竦められて、陸遜は動けない。

「いいか、陸遜。一途なのも上等だがな、想ってばっかじゃ一生伝わらねえぜ」
「……な!?」
「戦も女も先手必勝よ!まごまごしてねえで、さっさとケリつけねえと横から掻っ攫われんぞって事だ」
「せ、先手必勝も何も、私は……」
「そうやって、誤魔化してっから何も起こらねえんだ。分かってんだろ」
「は、はい……。って、こんな場所で大きな声で言わないで下さい!皆が見てるじゃないですか!」
「う、うっせえな!おめぇの声の方が、でけぇじゃねえか」

 騒ぐ二人の後ろで、甘寧の部下達が意外そうに陸遜を見ながら話をしている。
 それもそうだろう。これまで女性に関して浮いた噂もなく仕事に打ち込んでいると思われていた自分に想い人がいる事は、甘寧の口ぶりで明白だ。
 それも自分の想う相手が、孫呉の誇る姫君である事まで甘寧には気付かれているようだ。
 甘寧には一度も自分の想い人について話をした事はないが、勘と観察眼の鋭い甘寧には、陸遜が尚香に取る態度でとっくに見抜かれていたのだろう。
 自分には学が無いと言うが、軍師の自分から見ても、甘寧はなかなか侮れない男なのだ。
 そんな男にいつから知られていたのかと考え出すと、胃が痛くなりそうになった。身分にとらわれない甘寧から見れば、陸遜の恋慕など、まだるっこしく感じるのだろう。
 ついに機会を得て言ってやったとばかりに、爛々と瞳を輝かせて笑みを浮かべる甘寧と向き合う気力も底を尽きかけて、陸遜が肩を落としてその場を去ろうとした時だ。

「陸遜って、好きな人がいるの?」

 高く澄んだ声が聞こえて、陸遜の胸が痛みを覚える程鳴った。
 振り返ると、好奇心に瞳を輝かせた尚香がいた。調練場の方からやって来たのだろう。平服ではなく、動きやすい男性用の漢服を着ている。
 先程まで調練場にいたという事は、甘寧達も共にいた筈だ。もしや、尚香がここに現れるのを分かっていて、この話題を振ったのかと甘寧に視線をやると、笑顔を強張らせて頬を掻いている。
 どうやら、すっかり忘れていたらしい。
 思わず、大きな溜息をつきそうになったが、それよりも尚香に答えねばならない。
 いると言うべきか、いないと言うべきか。
 寝不足で頭が回らない上に、気持ちがひどく動揺していて普段は機転の利く陸遜が珍しく答えあぐねていると、甘寧が尚香の前に出た。

「姫さんは、誰だと思いますかい?」
「誰だろう。私の知ってる人かしら」
「よぉくご存知で。誰だか分かれば、姫さんにも良い事があるかもしれやせんぜ」

 そう言って、甘寧は尚香と陸遜に背を向けて門の方に歩き出した。慌てて、部下達も彼の背を追いかける。
 甘寧は励ますように陸遜の肩をすれ違いざまに叩き、振り返った陸遜と視線が合うと太い笑みを浮かべて見せた。
 気づけば、城門への通りの人影も殆どいなくなっていた。尚香と二人でその場に残された陸遜は、いまだに早鐘を打つ胸を意識しながら尚香に向き合った。
 騒がしい男が去ったからか、余計に自分の心音をうるさく感じた。

「甘寧殿の言った事、どうかお気になさらずにいてください」
「分かってるわ。陸遜も言いたくないって顔をしてるのに、あんまり詮索するのも良くないもの」
「……ありがとうございます」
「でも、あなたに想われる人は幸せね」

 尚香が柔らかな笑みを浮かべて呟く。夕陽を浴びた尚香の微笑みは、いつも以上に温かく見えた。
 
「そう、でしょうか……」
「うん。あなたなら、きっと大切にしてくれるって分かるもの。その人もあなたをよく知る人なら、きっとそう思ってるわ。だから、自信を持って伝えるべきよ」
「……ならば、姫様。聞いてくださいますか?」

 考えるより先に口につき、気づけば、陸遜は尚香の手を握っていた。
 自分より小ぶりな手は温かく、陸遜の手の温もりにすぐに馴染んでしまう。
 自分がこんな大胆な行動に出たのは寝不足のせいか。それとも、あの豪放磊落な男に感化されたからだろうか。
 驚いてこちらを見る尚香から視線を逸らせずにいる陸遜に、判じる事は出来なかった。
 陸遜が次に何を伝えようとしているのかを悟ったのか、尚香が恥じらうように視線を落とす。
 その頬が赤く染まっているのは、夕陽のせいばかりではなかった。

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拍手お礼2作目です。
甘寧とのやり取りを書くのが楽しくて、一気に書けました。
立場や身分的に自分の気持ちは叶わないものだって思い込んでる陸尚の背中をどーんと豪快に押す兄貴だと良いなって思います。

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