あなたのために


 立夏の午後。自分の宮の入り口から外に飛び出した尚香は、軽やかな足取りで中庭を駆ける。
 朝は小雨が降り、さらに天候が崩れる事を心配していたが、昼から雨雲は東の空へ流れ、明るい陽射しが雨に濡れた大地を照らしている。
 雨露に濡れた若葉が陽射しを浴びて輝く光景は、尚香を明るい気持ちにさせた。

(絶好の遠乗り日和だわ)

 馬に乗りやすいようにと、尚香は兄が少年の頃に着ていたお下がりの漢服を着ていた。女性用の襦裙より、短い上衣とゆったりした袴褶(こしゅう/ズボンのようなもの)の方が馬に乗るのも都合が良いと考えたのだ。
 あっという間に中庭を横切った尚香は、厩へと続く小道に入る。
 走る速度を落とさずに駆けていると、平服姿の練師とすれ違った。

「あら。姫様、お出かけですか?」

 練師ににこやかに問いかけられ、尚香はたたらを踏みそうになりながら急停止し、練師に向き直った。

「陸遜と丹陽まで遠乗りに行くの」
「お二人でですか?」
「そうよ」

 尚香が答えると、練師が考え込むような視線で尚香を見た。
 尚香は練師の視線の意味が分からず、わずかに小首を傾げる。

「恐れ入りますが、姫様。私の部屋へお越し頂けませんか?」
「え?でも、陸遜を待たせているの」
「陸遜殿には、少し遅れると女官を使いにやります。ご心配なさらず、こちらへお越しください」

 有無を言わさぬ態度で尚香の腕を掴むと、練師は自室へと向かった。
 いつもより強気な態度の練師に戸惑いながら、尚香は渋々練師に従う事にした。




 ☆



 女官に尚香が少し遅れると伝えられた陸遜は、待ち合わせ場所である庭園の四阿で竹簡を読んでいた。
 女官からの知らせの後、一度部屋に戻り仕事をしようと考えたが、万が一尚香を待たせてはいけないと、読みかけていた竹簡を手に待ち合わせ場所に戻ったのだ。
 尚香と出かける約束をしたのは、二週間程前だ。長く建業に留まる日々が続いていた尚香が、どこかに出かけたいとぼやいていたので、陸遜から声をかけたのだ。
 尚香なら、馬を駆って一人ででも出かけかねない。孫呉の誇る尚武の姫とはいえ、護衛もなしに建業の外に出す訳にはいかないと咄嗟に声をかけたのだが、約束の日を待ちかねて今日まで落ち着きのない気持ちで過ごしていたのは、むしろ自分の方だと思う。
 竹簡に書かれた文字を読もうとするが、目が滑って頭に入らない。何度も顔をあげては、尚香が現れないかと庭園の入り口を見てしまう。胸の奥をくすぐられるような感覚は去らず、陸遜を落ち着きのない心地にさせた。
 元々の約束の時間から、四半刻が過ぎた頃。ようやく尚香が待ち合わせ場所に現れた。

「陸遜、お待たせ!!」

 庭園に入るやいなや、大きく手を振りながら駆けてきた尚香の出で立ちに驚く。
 繊細な刺繍の施された鴇色の襦裙を身に纏った尚香は、唇には紅を引き、頬や目元にも薄く化粧が施されている。髪には蓮の花を象った髪飾りがつけられ、尚香が動く度に小さく揺れる姿が美しい。

「姫様、そのお召し物は?」
「ああ、これ?最初は兄様のおさがりを着てたんだけど、来る途中で練師に見つかっちゃったの」
「そうでしたか。……あの、そのお姿もとても似合っていらっしゃいます」

 陸遜が微笑みを浮かべながら伝えると、尚香が頬に朱を差してはにかんだ。

「あ、ありがとう。動きにくいけど、たまには良いわね。じゃあ、行きましょうか」

 照れ臭さもあって先にたって歩き出した尚香を追いかけて、陸遜も歩き出した。
 高い空から落ちる立夏の柔らかな陽射しが、二人を優しく照らしていた。



 ☆



 二人で遠乗りに出かけた二週間後、尚香はまた陸遜と出かける約束をし、待ち合わせ場所に急いでいた。
 先日と同じ四阿で待つ陸遜の姿を見つけて、胸が小さく高鳴る。
 陸遜と目が合うと、先日と同じように驚いた表情でこちらを見ていた。
 尚香がこの日も綺麗に着飾っていたからだろう。
 
「また、練師殿に見つかったのですか?」

 微笑む陸遜に見つめられて、尚香は自分の頬が火照るのを感じた。
 淡緑の襦裙は気に入りの物で、襦裙と揃いで誂えた翡翠が飾られた髪飾りもとっておきのものだ。化粧の上手な女官に頼んで、紅も差して貰った。
 準備を万端に整えて、得意な気持ちでやって来たのに、いざ陸遜の前に立つと心が高鳴ると同時に、何故か心許ない気持ちになった。

「……違うわよ」

 陸遜と何故か視線が合わせられず、はにかみながら尚香が言うと、陸遜が再び驚いた表情で尚香を見る。
 尚香が着飾って現れた理由に思い当たって、彼の頬もわずかに上気しているのに、尚香は気付かない。

「姫様、それでは今日の日の為にご準備を……」
「ゆ、夕刻までに城に戻らないといけない用事が出来たの。早く行きましょう!」

 照れ臭さのあまり、陸遜の問いかけを遮って、尚香は厩に向けて駆け出した。繊細な刺繍の施された淡緑の襦裙の裾が翻る姿は美しい。
 今日が特別な日になる予感を胸に、陸遜は尚香を追いかけた。

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拍手お礼1作目です。
折角お礼なので、両片想いで甘めのをと思って書きました。
思ったより早く拍手お礼2作目が書けたので、お礼に置いてた期間が約1週間と短くなっちゃいましたが、青春もだもだが書けて満足してます。

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