02 旅立ちの日


 早朝に旅装を整えると、陸遜と尚香は駐屯地としている義成の城を出た。
 地平の果てで旭日の兆しを感じ始めたばかりの時間であるから、街道をすれ違う者も殆どいない。
 これならば、陸遜達が城から出立した事に気付く者もいないだろう。
 二人は安心して馬を並べて、街道をひた走った。日が暮れる前に国境近くにある鐘離県に着きたかったからだ。
 陽が中天にかかった頃、二人は街道沿いに見つけた野原に馬を留めて、昼食を摂る事にした。
 荷物から乾かした蓮の葉に包まれた食事を取り出す。味気のない見た目だが栄養価の高い軍用食だ。
 陸遜の隣に腰を下ろした尚香は、満足そうに食事を頬張っている。思えば、彼女が戦に参加して、食事に文句を言っているところを陸遜は見た事がなかった。
 
「ねえ。今回の任務の間、私はあなたの事をなんて呼べば良いのかしら?」

 食事を終えた尚香が、陸遜に問いかける。民が着る簡素な漢服を着ているが、陽の光を宿した瞳は宝玉のようで美しかった。

「私ですか?……そうですね。確かに魏の兵には、私の名を知る者がいるかもしれませんし」
「うん。陸遜は最近活躍してるもの。名前で素性を知られたらいけないわ」
「そうですね。……では、私の事は陸議とお呼びください」

 思案した末に陸遜が提案すると、尚香は円な瞳を瞬いた。

「あなたの元々の名じゃない。でも、そっか。皆、あなたの名は陸遜だと思ってるものね」
「ええ。呉の者ならいざ知らず、恐らく魏で私の元の名を知る者は殆どいない筈です」
「分かったわ。じゃあ、陸議ね」

 尚香が嬉しそうに微笑む。その微笑みから、いつもとは違う特別な任務を楽しんでいる事が伝わってきた。
 明るい尚香の笑みを見ていると、陸遜の緊張も幾分和らぐ。
 広場を囲う白樺の林からは、軽やかな小鳥の囀りが聞こえ、明るく晴れた空を長閑な雲がゆっくりと流れている。南から吹く優しい風が二人の頬を撫ぜ、柔らかな髪を戦がせた。
 この旅が任務でなければと少しだけ残念に思うほど、今日は好天だった。
 
「ところで私は、姫様をなんとお呼びすればよろしいですか?」

 今度は陸遜が尚香に問いかける。尚香は慣れた手つきで食事の片付けをしながら、陸遜を振り返った。

「尚香で良いわよ。孫家の娘の名まで知る人は殆どいないもの」
「尚香殿、ですね」
「殿は余分じゃない?呼び捨てで良いわよ。一応、私達は駆け落ちした事になってるんでしょ?」
「しかし、姫様を呼び捨てにするのは抵抗があります。姫様は商家の令嬢で、私はその従者で駆け落ちをしたという事にして頂けませんか。そうすれば、姫様を呼び捨てにせずとも自然かと思うのですが」
「うーん。……そうね。陸遜がそうしたいなら、それで良いわよ」

 尚香が、微笑みながら頷く。荷物を整えて、陸遜と尚香は立ち上がった。
 鐘離県までは、まだ距離がある。明るい内に出来るだけ馬を走らせておきたかった。
 辿り着けずに野営をせねばならない事になるのは、出来れば避けたい。
 自分は構わないが、尚香には宿でゆっくり体を休めて欲しいと陸遜は思った。
 馬の身体に取り付けてある荷台に荷物を留めると、陸遜はひらりと馬に跨って、隣に馬を進めた尚香を見た。

「参りましょうか。尚香殿」
「あら、もう名で呼んでくれるの?」
「言い慣れておかねばなりませんので」
「それもそうね!じゃあ、行きましょう。陸議」

 尚香が馬の腹を強く蹴って馬を走らせる。先に立って進んでいく尚香を追いかけながら、陸遜は「……尚香殿」と、もう一度小さな声で呟いた。
 言い慣れぬその名は、陸遜の心に甘やかな余韻を残した。







 鐘離県に日が暮れきる前に辿り着いた二人は、宿を探して城下町を歩いていた。
 馬を預けられる事の出来る厩もある宿となると、かなり大きな宿でなければならない。
 大通りを暫く歩くと、道沿いに立派な門構えの宿があった。ここならば厩がありそうだと、門前で片付けをしている番頭に宿代が幾らなのかを尋ねた。
 番頭に教えて貰った宿代を聞いて、陸遜は思わず尚香と視線を合わせた。呂蒙から路銀を余分に渡されていたが、それでも値が張る宿だ。
 旅の日程を一週間として、手元にある路銀とを比較すると初日から使い過ぎになるかもしれない。
 陸遜が思案していると、尚香が声をかける。

「ねえ。私はこの子達が預けられるところなら、どこだって良いのよ。無理に立派な宿に泊まらなくたって、眠る事が出来たら疲れは取れるわ」
「……しかし、今から他の宿を探して街を歩いては、徒に疲労を溜めて明日の旅に響きます。やはり今日はここに決め、早めに休む事にしましょう」
「そう?じゃあ、そうしよっか」

 尚香が素直に頷くので、二人は馬を引いて門を潜り宿の敷地に入った。先程、声をかけた番頭が慌てて二人を追いかけ、馬を預かってくれた。
 宿の建物は、入り口の門と釣り合うだけの立派な構えをしていた。広い入り口から中に入り、帳場で宿泊を願い出る。
 陸遜が宿帳に名を記していると、帳場に座る初老の女が目を細めて二人を見比べた。
 白髪混じりの長い黒髪を結い上げて、恰幅の良い身体をしている女は、帳場から身を乗り出すようにして陸遜達に声をかけた。

「あら、まあ。素敵なお二人ですね。二人旅をされてるって事は、ご夫婦でございますか?」

 女の問いかけに、陸遜と尚香は視線を合わせた。急な女の問いかけに、尚香は緊張しているようだ。
 陸遜は軽く息をつくと、人の良さそうな女に微笑みかけた。
 旅の間は、嘘をつき続けねばならない。女とのやり取りは、旅先で万が一尋問などを受けた時に良い予行演習になると思ったのだ。

「ええ。先月、婚姻したばかりです」
「まあ!それなら、幸せ真っ盛りでいらっしゃいますね。この鐘離県から、お二人でどちらに向かわれますの?」

 女の問いかけに、陸遜は意味有りげに尚香の横顔を暫し見つめ、悩ましげな吐息をついた。
 事情のありそうな様子を装う陸遜が、まさか演技をしているとは知らぬ女が気遣うような表情を浮かべる。

「あの……、いかがなされましたか?」
「……実は、私達は建業から駆け落ちをしてきたのです」
 
 陸遜が声を落として言うと、女が驚いて口元に手を当てた。

「か、駆け落ち……で、ございますか?」
「ええ。妻は私がお仕えしていた商家のご令嬢です。私達は密かに想いを通じていたのですが、妻に断れぬ縁談が持ち上がり、二人で魏に向かう事を決めたのです」
「まあ、そんなご事情が……。それは大変でございましたね」
 
 深刻な表情で語る陸遜に、気の良さそうな女はすっかり感情移入をしているようだ。両手を胸元の前で合わせて、瞳を潤ませている。

「私達の事情をお伝えせずに宿泊して、ご迷惑をかけてもいけませんので申し上げました。ただ、どうかこの事はご内密にしておいて頂きたいのです。妻を連れ戻そうと、旦那様が派遣した追手がそこまで来ているやもしれません」
「え、ええ。他言は決していたしません。お二人が無事に魏に入れるように祈っておりますわ」

 好奇心と戸惑いが綯い交ぜになった表情で女が頷く。陸遜達には他言はせぬと約束したが、恐らく女は店に対して責任を感じ、念の為に店主に伝えるだろう。
 だが、そうなった方が好都合だと陸遜は考えた。
 この宿に泊まるのは、あくまで駆け落ちした男女であり、決して呉軍の関係者ではないと印象付けたい思惑があったからだ。
 女に事情を聞いた店主が宿を移るように申し出てくる可能性もあったが、その時は素直に他の宿に移れば良い。
 自分達が魏に潜入し調査をしようとしているように、魏からも間違いなく斥候が派遣されている。彼らが国境沿いにあるこの街に、そしてこの宿にいないという保証はなかった。

「それでは、こちらがお部屋の鍵でございます」

 帳場での手続きを終えた陸遜に、女が鍵を手渡した。
 渡された鍵は一本で、ということは部屋も尚香と同室という事だ。
 駆け落ちをしてきたと女には伝えているので、尚香と別室にして欲しいとは今更言い出しにくい。
 内心の動揺を隠しながら、咄嗟に尚香に視線をやったが、泊まれる場所が得られた事に安堵した表情で微笑まれた。
 その表情からは、陸遜の手にある鍵が一本である事に気付いていないのか、それとも陸遜を異性として意識していないので、同室で一晩過ごす事にも躊躇いがないのかの判断がつきかねた。
 後者だと辛いなと少し気落ちしながら、陸遜は女に声をかけた。

「あの……この部屋の寝台は、いくつありますか?」
「ご夫婦用のお部屋ですので、一台でございます」
「え……ッ!?」

 ここで初めて、尚香が声を出した。身分を偽る為に、女とのやり取りを全て陸遜に任せる事にしていたようだが、驚きに思わず声が出てしまったようだ。
 慌てて口元を押さえて気まずそうにしているが、その頬に朱が差しているのを見て、陸遜の胸が小さく鳴った。全く意識をされていない訳ではないのかもしれないと期待しそうになる気持ちを抑える。
 今はそれよりも、現状に対処せねばならない。

「奥様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ!なんでもないの。どんなお部屋か楽しみだわ」
「尚香殿、お気を使われる必要はありません。私が代わりにお伝えしますのでご安心を」
「陸議……。そ、そうね、じゃあお願いするわ」

 率直な性格故に動揺が全て表情に出てしまっている尚香を庇って、陸遜は二人のぎこちないやり取りを不思議そうに見ている女に向き合った。
 女の視線が自分から外れて安堵したのか、隣で尚香が小さく息をつくのが聞こえた。

「……あの、出来れば寝台が二台ある部屋の方が良いのですが」
「あら、ご夫婦であられるのに?」
「実は妻は身重でして、夜は一人でゆっくり眠って貰いたいのです」
「まあ、そうでしたの!それは気づかずに申し訳ありませんでした」
「いえ、まだこの通り妻の腹は大きくなっておりませんので、お気づきにならないのも無理はありません。私達からお伝えすべきでした」

 陸遜が女を気遣うと、人が良い女は気を良くしておっとりと微笑んだ。その表情から、女の不信感が晴れた事に気付き、陸遜はホッと胸を撫で下ろした。

「お気遣いありがとうございます。それでしたら、ご家族向けの部屋がございますよ。主室に続いて寝室が二部屋ございまして、寝台は全部で三台あります。先程の部屋より値は少しあがりますが、構いませんか?」
「ええ、構いません。部屋が空いていて良かったです」
「では、こちらが鍵でございます。ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 女が差し出した鍵を受け取って、陸遜達は帳場から宿の奥へと続く通路を進んだ。
 奥行きのある宿の通路を半ばまで歩くと、渡された鍵に付けられた下げ札と同じ模様の木札が留められた扉があった。
 扉の金具につけられた海老錠に、帳場で受け取った鍵を差し入れるとカチャリと仕掛けが外れる音がした。
 金具から海老錠を外して扉を開けて中に入る。扉を開けると居心地良く整えられた居間があり、寝室へと続く扉も見えた。
 部屋が広いお陰で、別の宿泊客達が泊まる部屋からの声も殆ど聞こえてこない。
 居間で旅の荷物を長椅子の上に置いた二人は互いに顔を見合わせると、大きく安堵の息をついた。

「ようやく人心地が付きましたね」
「ほんとね。それにしても、緊張したわ。旅に出る前は、上手く演じられると思っていたんだけどなあ」
「慣れぬ事ですから、仕方がありません」
「ありがとう、陸遜。旅の道連れがあなたで良かったわ。私には、とてもあんな風に機転を利かせた話は出来ないもの」
「微力ながら、お役に立てて良かったです。……ですが、咄嗟のこととはいえ、部屋を替える為に姫様が身重だなどと勝手に申し上げて、申し訳ありませんでした」

 帳場の女と話してから、尚香を不快な気持ちにさせていたのではないかと気掛かりだった陸遜が謝罪すると、尚香が小さく頭を振って微笑んだ。

「良いのよ、とても助かったわ。それに全部、仮のお話じゃない。陸遜が気にすることなんてないわよ。お陰で、今晩はゆっくり休める事になったんだもの」

 気を遣った様子もなく朗らかな笑顔を見せる尚香に、陸遜は安堵する。
 お互いに気持ちが解れ、旅の初日で気が昂ぶっているのもあり、いつもより饒舌に初日の旅について語り合いながら、宿泊する部屋を確かめた。寝台が二台ある少し広い部屋を尚香が、寝台が一台の部屋を陸遜が使う事にして、それぞれの荷物を寝室に運ぶ。
 旅装を解いた二人は食堂に向かい、夕食を摂った。老舗の宿らしく、手間暇のかけられて作られた食事はどれも美味だった。
 腹も気持ちも満たされた二人は部屋に戻り、それぞれの寝室へと向かう。
 明日の出立も早い時間を予定しているので、沐浴を済ませて早めに眠ってしまいたかった。

「おやすみ、陸遜」
「……お、おやすみなさいませ」

 こちらに小さく手を振りながら寝室に入った尚香の背を見送り、陸遜は頬が熱を持つのを感じた。
 別室とはいえ、これほどの近くで彼女と一晩を過ごした経験が陸遜には今までなかった。戦場の本陣に張られた幕舎で寝泊まりする時も、尚香や練師達は男性陣とはかなり離れた場所に幕舎を設けて過ごしていた。
 耳をそばだてまいとしても、尚香が部屋の中で沐浴の準備をしている音が聞こえてくる。
 すっかり彼女の存在を意識してしまった今宵、明日の為に早く眠りにつけるだろうかと陸遜は心配になった。

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もだもだしている陸→尚を書くのが好きなので色々書けて楽しかったんですが、話的にはあまり進展のない二話になってしまい恐縮です。
次回から潜入調査開始予定なので、ちゃんと話も展開出来るように頑張ります。

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