ならんでとんで


 最近、呉軍に勤める兵士達の鍛錬場が賑わっているらしい。
 らしいというのは、あくまで同僚達に聞いた噂で把握しているだけで、実際に鍛錬場に赴いた訳ではないからだ。
 ここ数年は、正規軍を派遣するような大きな戦は起こってはいない。
 だが、最近の陸遜は朝から日が暮れるまで、上官の呂蒙達と軍議室に籠もりきりだ。
 というのも、ここのところ魏との国境がきな臭く、徐州から帰還した斥候が、許昌から徐州の国境付近へ武器や防具が多数運ばれている事や、徐州の青年達の徴兵が進められている事を伝えたのだ。
 魏が戦の準備を進めているのは明らかで、呉の軍師達は斥候の情報に色めき立った。
 攻め入られる前に、こちらから攻め入るべきか。それとも徹底して防御に徹するべきか。国境を守る為に打つべき案を策定するには、皆の知恵を集めて熟考すべきだが、時間ばかりかけて後手になってもいけない。
 軍師としてまだ経験の浅い陸遜は、皆を納得させるだけの策を提案する事が出来ず、上官の軍師や歴戦の将官を交えた軍議の場で発言の機会を得ることが中々出来ずにいた。
 軍議が終わり退室する度に、自分の力不足を痛感して大きなため息をつくのが、ここ最近の陸遜の日常だ。
 そのように忙しく日々を過ごしているので、陸遜は鍛錬場の賑わいを知らずに過ごしていたのだ。


 話は冒頭に戻る。
 鍛錬場が何故賑わっているのかというと、その原因は孫家の末姫である孫尚香にあった。
 自他ともに認めるじゃじゃ馬の尚香は、自分も皆の力になりたいと言って、戦場にも得意武器の圏を握って参戦する。
 だが現在は他国とも膠着状態が続いているので、お転婆な姫は城から出る理由もなく日々を過ごしていた。
 だからといって、大人しく城中で過ごしていられる尚香ではない。自分の宮に篭って刺繍をしたり、楽を奏でるよりも、圏を振るって身体を動かしていたいのが孫呉の姫君だった。
 日々の鍛錬も怠らず、得意武器の圏を握って宮の庭で身体を動かす。手合わせの相手は主に尚香の護衛の練師が務めていたが、陸遜が相手を務める事も多かった。
 戦場で見せた飛燕剣での素早い剣撃を見初められて、尚香のたっての願いで練習相手に指名されたのだ。
 週に三日。時間を決めて、尚香と刃を潰した模造刀で打ち合う。最初はこれも仕事の一環と考えていた陸遜だが、快活な姫君と鍛錬をする時間は気持ちが晴れ、次第に尚香と過ごす時間を楽しみにするようになった。
 その陸遜が軍議室に上官達と籠もるようになってから、尚香は鍛錬相手を求めて鍛錬場に出向くようになったのだ。
 日頃、厳しい修練を汗と泥に塗れながら耐える兵達の元に現れた美しい姫君は、まさに掃き溜めに鶴といった存在で、鍛錬場が一気に華やいだ。
 更に尚香の側には、美しい護衛の練師がいる。それに、側付きの佩刀したうら若き侍女達の姿もあった。
 美しい女性達が鍛錬場に通うようになり、兵達は活気づいた。尚香達が現れる時間になると、鍛錬場の外にまで彼女達の姿をひと目見ようと雑兵達が集まるようになった。
 そんな訳で、鍛錬場が賑わうようになった一端を自分も担っているとは知らずに、陸遜は今日も軍議で発言の機会を伺いながら、良策が浮かばないかと頭を悩ませていた。


 その時だ。


 軍議室の厚い扉が叩かれた。
 扉越しに、入室の許可を求める問いかけがあったので、呂蒙が承諾する。
 入室するや礼の姿勢を取ったのは、兵達の隊をまとめる伯長の男だった。

「恐れながら、呂蒙殿にご助力頂きたく参りました」
「俺に?一体、何があった」

 呂蒙が尋ねると、伯長は礼の姿勢を解き、姿勢を正した。

「鍛錬場が荒れております。統率が効かず、鍛錬に支障が出ております」
「何が理由だ。確か、お前の指揮する隊は、かなり統率が取れていたはずだが」
「それが、最近入隊した兵達が、姫様の護衛になりたいと、兵同士で諍いを始めまして……」
「姫様の?」

 呂蒙が尋ねると、伯長は事の顛末を語った。
 最近、尚香達が鍛錬場に通うようになって、入隊したばかりの若い兵達が浮足立っている事。そして、昨日、練師が伯長を訪ね、尚香が寿春にある施設に視察に向かう事になったので、護衛に隊の精鋭を借り受けられないかと依頼があった事を伝えた。

「……なるほど。大方それで、お前が姫様の護衛となる精鋭を選定する前に兵達に情報が漏れ、兵同士で役目を奪い合って鍛錬場が荒れているといったところか」

 呂蒙が推察すると、伯長は短息しながら頷いた。

「お察しの通りです。血気盛んな奴らで、我々の指示を聞かず、ほとほと困り果てております。ですが、呂蒙殿の統率力ならば、状況を変えられるのではないかと思い、参りました」

 呂蒙は考え込むように伯長の顔を見つめていたが、ふと隣に座る陸遜を振り返る。

「陸遜、お前が行ってこい。確かこの伯長の隊は、お前の軍に所属していた筈だ」
「わ、私がですか?しかし、若輩者の私の指示を、兵達が聞くでしょうか」

 突然、自分に役目を振られて狼狽える陸遜に、呂蒙は微笑みかける。

「案ずるな。お前なら出来るだろう。それに、目の前の小競り合いを収める策を思いつけずに、国境を守る案が浮かぶとは思えぬが……」

 呂蒙に告げられ、陸遜は呂蒙の真意を悟り、ハッとする。
 自分がこのところ、発言の機会を得られずに気を落としていたことを、とっくに見抜かれていたのだ。

「承知しました。陸伯言、鍛錬場の諍いを収めて参ります」

 陸遜は席を立つと、伯長を連れて鍛錬場に向かった。







 鍛錬場に着くなり、陸遜は壁に立て掛けられた刃を潰した剣を両手に取った。愛用の飛燕剣より少し重いが、扱う事は出来そうだ。
 伯長に、兵達がこちらに注目するよう号令を頼むが、若い兵達は伯長の号令に聞く耳を貸さず、争いを続けている。
 陸遜は、躊躇わずに争いの輪の中に入ると、剣で打ち合っている兵達に割って入り、振り下ろされた一撃を両手の剣で受け止めて見せた。

「だ、誰だ、てめえは!?」
「邪魔すんじゃねえよ!!」

 戦いを邪魔された兵達が、陸遜に怒鳴る。だが、陸遜は恫喝に怯むことなく男達を睥睨すると、手に持った剣の切っ先を向けた。

「私は、軍師の陸伯言です。軍紀で私闘は禁じられています。今すぐ、剣を収めてください」

 陸遜が指示するが、兵達は剣を下ろそうとしない。入隊したばかりの彼等は、まだ陸遜の名も顔も知らない。それに軍師とはいえ若輩で彼らよりも体格の劣る自分を、侮っている事を悟り、予想通りですねと心中で呟く。

「姫様の護衛の座を争っているそうですね。ですが、姫様がこのような私闘を好む御方でないのは、皆も承知の筈。かといって、私の独断で護衛を隊から選んだとしても、皆も納得がいかないでしょう。そこで、私に案があります」
「案だと……!?じゃねえ。ですか?」

 先程、陸遜に剣を止められた兵が問いかける。

「ええ。私が皆の相手をしましょう。武の心得は多少ありますが、私は一介の軍師です。その私に敗れるようであれば、姫様の護衛に相応しいとはとても言えません。姫様の御身をお守りする覚悟があるのならば、全力でかかってきて下さい。最初に私の剣を打ち落とした者を勝者とします」

 陸遜の提案に、兵達はどよめいた。
 まだ少年の面差しの残る陸遜の提案は無謀なもののように思えたからだ。
 入隊して間もない兵達は、陸遜が戦場で神速の剣技で活躍している事をまだ知らない。それを逆手に取って皆を油断させ、軒並み制してしまおうと陸遜が考えているのが、古参の伯長には分かった。

「ちなみにこれは、私闘ではなく軍師による選抜試験とします。一人ずつではなく、皆を一度にお相手いたしましょう。いいですか?始めますよ」

 陸遜が両手の剣を構える。
 兵達は互いの顔を見合わせて互いに牽制し合いながら、一斉に陸遜に挑みかかった。







 陸遜に向かった兵達は、四半刻もせぬ内に陸遜に打ち負かされ、床に伏した。
 入隊して間もなく、鍛錬不足の兵達の剣技は洗練されておらず、隙だらけだった。
 陸遜は軽やかに身を翻して攻撃を躱し、兵達の急所を剣の腹や柄で強かに打った。
 最初は侮っていた兵達は、陸遜の実力に驚き、だが膂力は自分達の方が上だと踏んで果敢に挑んだが、ことごとく打ち倒さる結果となり、最後の一人となった者は剣を放り投げて両手をあげ、降参の白旗を上げた。
 場内を見回し、他に挑む者がいないか確認したが、陸遜に剣を向ける者は一人もいなかった。
 伯長に軍紀を破り私闘に及んだ者達の処罰を命じ、陸遜は軍議室に戻った。
 鍛錬場での経過を、軍師達に報告する。

「見事、収めてきたようだな。油断した相手の虚をつくとは、お前ならではだ」
「ありがとうございます。軍紀を乱した者達は、厳しく処罰するように命じたので、暫く争いは起きぬと思います」
「良くやった。素早い判断を下したお前を、誇らしく思う」

 師匠である呂蒙に労いの言葉をかけられ、陸遜の気持ちは高揚した。この晴れやかな気持ちで臨めば、軍議においても良策を発案出来る気がしてくる。

「ところで、陸遜。姫の護衛なのだが……」
「はい。伯長に信頼のおける精鋭を選定するように命じましたが」
「選定は不要だ。お前が務めろ」
「わ、私が!?しかし、魏軍も迫っている今
、軍議を抜ける訳には……」
「なればこそだ。姫の視察先は、徐州との国境に近い。魏の不穏さは、必ず寿春の街に影響が出ている。お前の目で、確かめて来い」
「この目で、ですか……」

 確かに、軍師である自分が現地を視察する事は意味がある。しかし、禄に意見も出せないまま軍議の場を離れる事は、呂蒙にこの場では役に立たぬと言われているようで、晴れやかだった陸遜の気持ちはたちまちに萎れてしまった。

「不服なようだな。だが、若いお前だからこそ、気付ける事がある。お前の視点は、俺には無い鋭さがある。軍議から遠ざけるのではなく、より良い策を生む為の抜擢だと心得よ」
「は、はい。心して務めます」

 心情を悟られている気まずさを誤魔化すように、陸遜が礼の姿勢を取ると、呂蒙は厳しい目元を寛げて微笑む。

「それに、もう長い事、姫にお会いしていないのではないか?お前の息災な顔を見れば、姫もきっとお喜びになられる」
「え!?い、いえ、その、私は……」

 呂蒙の不意の問いかけに戸惑っていると、他の軍師達も声を忍ばせて笑う。
 からかいではなく親しみの籠められた笑い声に囲まれて、陸遜は気恥ずかしくなり頬が熱く火照った。
 尚香との鍛錬の時間になると、時折彼女の方から陸遜を迎えに来る事があった。陸遜の姿が執務室に見えないと、軍議室の扉をこっそり開いて覗き込む姿も見られた。
 そして、陸遜の姿を見つけると、華が咲いたように笑うのだ。
 その笑顔には、重苦しい軍議室の雰囲気を和ませる力があった。
 彼女が現れるのを契機に、皆は陸遜を送り出すと、休憩を挟むようにしていた。
 だが、最近は徐州の件で緊迫した状況が続き、陸遜が暫く鍛錬に参加出来ない事を尚香に伝えていた為、陸遜以外の将官や軍師達も尚香の姿を見ていない。
 彼女も陸遜達の緊迫した状況を察しているようで、遠慮をしてこちらに足を向ける事をしなくなった。
 だからこそ、今回の騒動が起こってしまったのだが、陸遜は喫緊の課題に囚われて、彼女の想いを慮れていなかった自分に気付き、反省すると同時に無性に彼女の顔を見たくなった。
 恐らく呂蒙は最初から尚香の護衛に自分を選ぶつもりで、今日の争いを止める為に自分を向かわせたのだ。
 尚香の気持ちも慮った呂蒙の采配に、陸遜はやはり敵わないと思うのだった。







「それで、陸遜が護衛してくれる事になったのね。私のせいで、鍛錬場でそんな騒動が起こってたなんて……。帰ったら、伯長に謝らないといけないわ」

 陸遜と馬を並べて街道を進む尚香が困ったように微笑む。
 春陽が、寿春へ向かう一向を温かく照らす。柔い風が頬を擽り、心地良い。

「姫様は、お気になさりませんよう。兵達に処罰と指導をするよう、私から伯長には伝えてあります」
「それでもよ。きっかけは私だもの。ちゃんと謝らないと私の気がすまないわ」
「姫様らしいお心遣いですね。……ならば、私も共に参りましょう」
「あら、どうして?」

 つぶらな目を瞬いて、尚香が陸遜を見る。

「姫様が、鍛錬場に通うようになられたそもそもの原因は、私にありますから」

 そう言って、陸遜が微笑むと、尚香は明るい声をあげて笑った。

「陸遜ったら!そうね。なら、お願いしようかしら。……ふふ。でもね、伯長や兵達には悪いけど、あなたが護衛になってくれて嬉しいの。こうして久しぶりに話が出来るのもね」

 晴れやかに笑う尚香は美しく、陸遜は目を奪われる。
 無邪気な尚香の言葉は、陸遜の胸の奥に小さな疼きを齎した。彼女の言葉に他意はないと知りながら、胸の疼きを抑える事が出来ない。
 私もですと返す言葉は、胸の内に飲み込んでしまう。自分達の後ろには、練師や侍女達がいる。先程からのやり取りも全て筒抜けに違いないのだ。
 だが、彼女達がいなくても、自分は彼女に本音を伝えられていただろうか。
 大切に育み、胸の奥に閉じ込めたこの想いは、伝える事も出来ないままに、いつの日か虚しく朽ちてしまうのだろうか。
 まだ若い陸遜はその答えを出せぬ代わりに、隣にいる確かな存在に視線をやった。
 旅路の先を見つめる尚香の横顔は、機嫌が良さそうだ。柔らかな笑みを象る唇が可愛らしい。

「宿に着いたら、久しぶりに手合わせしましょう。陸遜が護衛してくれると知って、練師に頼んで広い中庭のある宿を見つけて貰ったの」
「勿論です。姫様の思し召しのままに」
「ふふ。ありがとう」

 馬を並べて、尚香と談笑しながら先へと進む。
 ふと視線をあげると、二羽の白鷺が羽を広げて青い空を渡って行くのが見えた。
 鳥達の行き先は分からぬが、清々しい姿だった。見た目の清廉さだけでなく、向かう先に迷いが無いからだろうか。
 白い羽を羽ばたき、風に乗りながら、ひたすら前へ前へと進んでいく。
 それは、自分達もあのようにありたいと、願いたくなるような光景だった。 

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呂蒙や陸遜を動かすのが楽しかった話です。それに傍から見た姫様を書くのも。
陸→尚な話は書きやすいので、また色々書けたら良いなって思います。

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