翡翠に寄せて
陸抗視点の作品です。if設定の為、陸抗の母親が正史と異なります。受け入れ難い方は閲覧をお控えください。
 隣国への遠征が長く続き、戦いが終結した後も陸抗は暫く戦地から程近い駐屯地に残っていた。
 戦いには勝利したが、戦後の処理が山積していたからだ。
 戦地となり荒れ果てた領地の復旧の手配や、領民達への支援施策の検討、さらには戦での死傷者数も把握し、死者を弔い、負傷者達は療養施設へと送らねばならない。
 安全な退路の確保と、負傷者達を護衛する将官と部隊の選定や、帰還に必要なだけの食糧の手配や道中の補給路を調査する事も必要だ。
 他にもやるべき事は枚挙にいとまがなかった。
 陸抗がようやく建業に戻れたのは、昨日の事だ。
 戦が終結してから、既に二ヶ月余りが経っていた。
 主君である孫権に帰還の報告をすると、遠征の労いとして十日間の休暇が与えられた。
 久しぶりの休暇に、陸抗は安堵と焦燥感を同時に感じた。此度の戦は防衛に成功したが、隣国は今も新たな侵攻先を探っているに違いない。
 短期間とはいえ戦線から離れるが、その間も緊迫した状況には変わりがないのだ。
 それでも、疲弊した身体は休息を求めていた。
 宮廷を出て、都の大通りに出た。夏らしい日差しが、眩しい。
 久しぶりの建業は、陸抗の故郷でもある。賑わう街角には、晴れやかな表情で歩く人々がいた。商店は賑わい、活気がある。
 この地平の先で今日もどこかで戦が行われている事実が、まるで幻であるかのようだ。
 宿舎に戻り、旅装を解いて身を清める。平服に着替え、陸抗は生家へと向かった。
 陸家の屋敷は、大河の畔にある。大通りから外れ、細い小路を幾度も折れ、街の外れにある小さな雑木林を抜けると、屋敷を守る門がある。
 朱塗りの柱に、細やかな模様の刻まれた甍が見え、見慣れた景色に陸抗は息をついた。張り詰めていた気持ちがようやく緩む。
 陸家の隆盛とは不釣り合いな程慎ましい装飾の屋敷に、父の人柄が思い出された。

 門を潜り、丁寧に手入れをされた前庭を抜けて屋敷に入る。
 無人の広間で訪いを入れると、初老の侍女が顔を出した。陸抗が幼い頃から、この屋敷に勤めている侍女だ。
 侍女は陸抗の顔を見るや顔を綻ばし、手を叩いて帰還を喜んだ。
 穏やかな侍女が笑うと、目尻に深い皺が寄った。記憶よりも老いた彼女の様子に陸抗は時間の経過を改めて感じた。
 侍女は陸抗に待つように告げると、屋敷の主を呼びに屋敷の奥へと消えた。
 一人で広間に残された陸抗は、改めて屋敷の中を見渡した。屋敷の中は静かで、しわぶきの音さえ大きく響きそうだ。
 幼い陸抗が屋敷中を駆け回っていた頃は、この屋敷は彩りと活気に満ちていた。あの頃と景色は変わらないのに、まるで鏡の中の世界かのようにしんとしている。
 懐かしさよりも先に、寂しさを感じた。
 同時に、今は亡き父を思う。
 この世を去った後も、彼の悲しみがこの屋敷に残されているように感じた。


 ☆


 久しぶりに会った母は、陸抗の健在を喜んでくれた。
 二人で広間の卓を囲み、近況を語り合う。
 戦地の状況や、現在の国家間の情勢。戦いの中でぶつかった困難に自分がどのように対処したかなど、話す事は尽きなかった。
 戦地で戦った経験の無い女性には興味を持てないのではないかといった話題でも、母は真剣に耳を傾けて相槌を打ってくれた。
 記憶より少し老けた母は、長く伸びた髪を簡素に纏めて、小さな髪飾りで留めている。
 母が陸抗の話に頷く度に、銀で作られた小さな蓮の意匠の飾りが微かに揺れた。
 母は服装も華美ではない。布地こそ質の良いもので仕立ててあるが、豪奢な飾りとはいつも無縁だった。
 一見すると、とても呉の有力豪族の夫人とは思えないような出で立ちだ。
 陸抗が幼い頃から、母は過度な装飾を好まなかった。
 幼い陸抗が、他家の夫人達と母の格好を見比べて、不思議に思い問いかけた時も、「私はこれで良いのよ。それにあんまり飾ったら動きにくいでしょう?いざという時に貴方を守れないわ」と、鮮やかに微笑まれたのを覚えている。
 それに艶やかに着飾らなくとも、母は十分美しい。
 顔立ちが整っているのもあるが、溌剌とした表情が人の心を惹き付ける。笑みを向けられると、目を逸らせなくなるような魅力が彼女にはあった。
 きっと父は、母のそうしたところに惹かれたのだろうと陸抗は思う。
 そして、父を亡くしてから、母の明るかったその表情に、翳りが見える事が悲しかった。
 病弱だった兄の陸延を亡くし、その悲しみをようやく乗り越えた矢先に、父が逝った。
 明るく気丈な母だが、心の支柱とも言うべき人達を失って、闊達だった瞳は翳り、背には寂しさを纏っている。
 その悲しみを悟られまいと母が振る舞う程に、彼女の心の痛みが陸抗の胸に届いた。
 母と語り合う時に、自分がいつもより大袈裟に尾ひれをつけて話すのも、幼い頃に自分達の背を押し、励ましてくれた母の夏の陽射しのような闊達な表情を取り戻したいと願っているからかもしれない。


 ☆


 母と水入らずの夕食を終え、陸抗は一人で父の書斎に向かった。
 父が亡くなってから数年が経つが、書斎は父がいた頃のまま残されている。
 机の上には硯や筆が並べられたままで、つい先程まで父がここにいたような錯覚を覚えた。
 部屋に入る度に圧倒されるのは、その資料の多さだ。入り口や窓を除く壁は書棚で埋め尽くされ、竹簡がぎっしりと収納されている。
 父が学んだ兵法書や学術書だけでなく、自ら書いた軍略の書もある。
 几帳面な父は、参戦した戦ごとに棚を分けて、竹簡を収めていた。
 陸抗が読みたかったのは、父の書いた軍略だった。名軍師として、今も同僚達に慕われている父の兵法をじっくりと読んでみたかった。
 戦に赴くようになってから、なるべく被害を最小限に済ませるにはどうするべきかという事が、陸抗の課題となった。
 それには、父の采配を知る事が一番の学びとなると考えたのだ。
 棚の各段には資料を分類する為に、戦地の名称を父が小刀で小さく刻んでいた。
 陸抗は『夷陵』と刻まれている棚の段を見つけると、整然と並べられた竹簡から一つを手に取り開いた。
 椅子には腰掛けず、そのまま床に腰を下ろして読んだ。
 丁寧な筆致で、理路整然とした軍略を書き記している父の才能に改めて驚嘆する。
 戦地の状況だけでなく、国家の情勢も把握し、蜀が采配するであろう軍の動きを予測して兵を配置する。先手を打つとはこの事だ。
 『夷陵』の棚にある竹簡を全て下ろした陸抗は、父の才覚に畏敬の念を感じながら、時間を忘れて読み耽った。
 そして、無念に終わった父の遺志を継ぎ、呉を守りたいと改めて思う。
 夢中になって竹簡を読み耽る内に、すっかり夜が更けてしまった。
 同じ姿勢で読み続けていたので、身体が強張っている。両腕を高く上げて伸ばし、身体の凝りを解す。
 床に広げた全ての竹簡を巻き直し、棚に戻そうとすると、『夷陵』の棚の奥に細く巻かれた竹簡が、壁に沿うように密やかに置かれている事に気づいた。
 全ての竹簡を下ろした筈だと思っていた陸抗は残された竹簡に驚き、手に取る。
 他の竹簡より薄く、表面の色はさらに色褪せている。
 『夷陵』の棚に置かれた竹簡よりも、以前に書かれたものなのかもしれない。
 簡素な麻紐が巻かれただけの他の竹簡とは違い、翠色の飾り紐が巻かれている。
 何か特別な記録が残されているのだろうかと不思議に思うが、飾り紐を解いて竹簡を開く事に、少し後ろめたさを感じた。
 軍事について書かれた竹簡の山に隠されるように置かれていたのは、誰の目にも止まらぬように父が敢えて隠していたのではないか。
 陸抗は躊躇いを感じながらも、好奇心を抑えきれずに飾り紐を解いた。


 ☆


「おはよう。もう起きれたのね」

 朝餉の席に遅れて現れた陸抗に、母は微笑んだ。
 窓辺にある食卓に並べられた食事にはまだ手を付けてないようだ。
 湯気を立てる粥を見て、朝食が準備されてから間もない事を悟り、陸抗は胸を撫で下ろした。

「おはようございます。遅れて申し訳ありません」
「良いのよ。気にすることないわ。それより、昨夜は遅くまで父様の書斎にいたみたいね。何か収穫はあった?」

 陸抗が席に着いたので、箸を手に取り食事を始めた母が問いかける。

「ええ、とても。父上は、やはり凄い方ですね」
「そうね。国の為に、何事も真剣に取り組む人だったわ」
「遺して下さった資料だけで、多くの事を学べました。出来れば……」

 直接、指導して頂きたかった、という言葉を陸抗は思わず飲み込む。
 もう少し早く生まれていれば、父と共に出仕して軍事に臨む事も出来たかもしれない。
 だが、そんな詮ない未練を、伴侶を亡くした母の前で言葉にしたくはなかったからだ。

「……暫く居て良いわよ。まだ全て読んだ訳じゃないんでしょ」

 言い淀む陸抗を見て、母は気にした様子を見せずに食事を続ける。心中を悟られた気まずさに、陸抗は瞳を伏せた。
 息子を労る母の瞳に、悲しみの影がまた差したのを陸抗は見逃さなかった。
 母の胸の内でも、父を亡くした喪失感は未だ生々しいものなのだ。自分がそうである以上に、半生を共にした伴侶を亡くした母のその想いは計り知れない。
 だからこそ、母に見せたいものがあった。
 陸抗は話題を変えて、母と語らいながら食事を終えると、部屋から携えてきた竹簡を母に見せた。

「あら、どうしたの。随分、古い物のようだけど……。綺麗な紐で留めてあるのね」
「父上の書棚で見つけました。母上に読んで頂きたくて」
「私に?あまり兵法は得意じゃないんだけど……」

 戸惑いながら差し出された竹簡を受け取った母は、促されるまま翠色の飾り紐を解いた。
 はらりと竹簡を開き、そこに書かれた文章を読んで瞳を瞬いた。
 その大きな瞳に、次第に涙が溜まっていくのを見守る。
 何度も繰り返し読み返しているのだろう。短い文章であるのに、母はいつまでも、その手から竹簡を離そうとしない。たおやかな指先で、書きつけられた文字を大切な物に触れるようになぞる。
 そして遂に、その瞳から涙が溢れた。大粒の雫が、幾度も頬を伝い落ちる。

「……あの人ったら、こういう詩も書けるのね。知らなかったわ」
「……美しい詩ですね」
「うん。とても綺麗……」

 それは、切ない恋情を綴った詩だった。手の届かぬ遠くへ嫁いでしまった想い人に向けられたものだ。
 想い人の名は語られず、代わりに『翡翠』という言葉が何度も登場した。
 飾り紐の色が翠色であったのも意味があったのだと、陸抗は詩を読んでから気付いた。
 だからこそ、母に見せたかった。

「久しぶりに、父様に会えたような気持ちがしたわ。ありがとう、幼節」

 巻き直した竹簡を大切に胸に抱き、陸抗に向けられた母の笑顔は晴れやかだ。
 母の翡翠色の瞳が明るく輝くのを見て、陸抗は満足気に笑みを浮かべた。

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実は初めて書いた陸尚です。
最初に書いた話なのに、思い切った設定や内容で書いちゃったなあと今更ながらに思います。
陸尚に再燃して二人について色々調べていたら、尚香が帰国後に二人が婚姻していた仮説がある事を知って、色々考えていたら思い浮かんだ情景をそのまま話にしました。
正史を振り返ると陸遜の最期は悲しいけど、それまでに二人が歩んできた道のりに幸せが多くあれば良いなと思います。
とはいえ、あくまでこの話は私の考えた設定や関係で書かれた二次創作であることを、改めてお伝えいたします。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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