なくせないもの


 邸宅の入口で人の気配がしたような気がして、尚香は広間から出た。
 廊下を歩きながら、服が着崩れていないか確かめ、髪飾りの位置もずれていないかと指先で触れて確かめる。
 普段は飾らない格好で過ごしているが、今日は特別な日だ。嫁ぐ際に練師が持たせてくれたものを衣装箱から出して身に着けていた。
 普段とは違い、着飾った自分の姿を見たら、彼はどんな顔をするだろうか。
 尚香は駆け出したくなるような気持ちを抑えながら入口にたどり着いたが、そこにいたのは仕事を終えて帰宅する使用人だった。
 突然の陸家の夫人の登場に、初老の使用人が驚いた顔で尚香を見た。

「夫人、いかがされましたか。何か御用事で?」
「ううん。なんでもないの。今日も一日ご苦労様。明日もよろしくお願いね」
「ありがとうございます。……それにしても、伯言殿のお帰りが遅いですな。お戻りになられるのは今日のご予定とお伺いしておりましたが」

 目尻の皴を深めて微笑みながら、使用人が言う。尚香が着飾った姿で入口までやって来た理由を察したのだろう。
 使用人の親しみの込められた視線に、尚香は照れくさくなった。

「書簡には、日暮れまでに戻れると書いてあったの。でも、もう日暮れも過ぎたのにまだ帰って来ないから……。それで、やっと人の気配がしたから陸遜が帰って来たのかと思って来たんだけど」
「今日は庭で仕事をしておりましたから、外から入口に入りましたからな。誤解をさせて申し訳ございません」
「い、いいえ。あなたは仕事をしてくれていただけでしょ。謝らないで。悪いのは、遅刻している陸遜よ」

 尚香がわざと茶化すように言うと、使用人は声を立てて笑った。尚香も釣られて笑顔になり、帰宅する使用人を見送ると、広間に戻った。
 陸遜が長期の遠征に派遣されて一月が経つ。今回の戦は、他国との争いではなく揚州の先住民ともいえる異民族の山越が起こした乱を鎮める為のものだ。
 彼らは孫呉の政権を認めておらず、揚州では度々山越の乱が起こっていた。他国との争いのように大規模な戦いではないが、それでも命の危機がある事には変わりがないのだ。
 陸家に嫁ぎ、陸遜の夫人という立場にあるが、尚香は今でも日々の鍛錬を怠っていない。花嫁道具と一緒に持ってきた愛用の圏を毎日振るって鍛えている。
 戦場でもし陸遜の身に何かあればと思うと、尚香は焦燥に駆られた。前線に出たいとは言わないが、せめて彼に向かって振るわれる凶刃から守りたいと、旅立つ陸遜に申し出たが、やんわりと断られた。
 婚姻をしてから二年近くが経つが、二人の間にはまだ子供がいない。多忙な軍師である陸遜が度重なる戦への参加で家にいる事が少ないのも理由の一つであったが、婚姻をしてから二人はゆっくりと互いの関係を育んできたからでもあった。心だけでなく身体も夫婦として結ばれたのは、ようやっと数か月前のことだ。
 だからこそ、尚香が二人の子を宿している可能性があるならば、連れていく事は出来ないと言われると、尚香も陸遜の言葉に折れるしかなかった。
 孫家の娘として生まれたからこそ、家の後継となる者を産み育てなければならない夫人の務めを尚香は良く理解していた。それに江東の名家である陸家の再興は陸遜の本願である。

(それでも、ただ待つだけっていうのは性に合わないわ。私だって大切な人達を守りたいのに……)

 夕食を終えて広間に戻り、長椅子に座った尚香は小さく溜息をついた。窓の外を見ると、夜の帳が下り始めている。暗くなっていく空を見ていると、いつも約束をたがえない陸遜が戻らない事に不安になった。
 帰路を山越の乱の残党に襲われたのかもしれない。
 部屋に戻って、武器を手に彼を探しに行こうか。だが、それでは帰宅する彼とすれ違ってしまうかもしれない。
 もどかしい気持ちで葛藤して過ごす内に夜は更けていき、尚香はいつの間にか長椅子に身を横たえて眠ってしまった。
 






 ふわりと身体に浮遊感を覚え、尚香は目を覚ました。数拍して、自分が抱き上げられているのだという事に気付く。
 尚香を腕に抱き上げたまま、広間を出る男が誰なのか見当がついて尚香の胸が高鳴った。

「起こしてしまいましたね」

 身じろぐ尚香に気付いて、陸遜が微笑む。久しぶりに会えた伴侶の穏やかな笑みに、尚香の胸に温かな気持ちが満たされてゆく。
 帰宅してすぐに尚香のところに来てくれたのだろう。陸遜は、まだ旅装のままだ。
「おかえり」と笑顔になり、尚香は陸遜の肩口に額を当てるようにして身を寄せた。懐かしい彼の匂いに、心配していた気持ちに人心地が付いた。
 すでに目覚めた尚香を抱き上げたまま陸遜は廊下を進んでいく。その向かう先に気付いて、尚香は陸遜の肩を掴んで止めようとする。

「ちょ、ちょっと待って!私、まだ部屋には行きたくないわ。広間に戻って、話をしましょう」
「しかし、もう夜半を過ぎています。眠らなければ、明日に響きますよ」
「久しぶりに会えたのよ。まだあなたと話をしていたいの」
「明日から長期の休みを頂いたので、しばらくお側にいられます。ゆっくり話をするのは、明日にいたしましょう」
「いやよ。待ちきれないわ。それに折角……」

 尚香が視線を落として、着飾った自分の服を見る。宵闇に包まれた通路では、華やかに施された刺繍も目立たない。いつになく着飾って待っていたので、彼に披露せずに眠りにつかねばならない事が残念だった。

「……今日は、お待たせして申し訳ありませんでした」

 尚香の様子や、いつもとは違う装いに気付いていた陸遜が謝罪するので、尚香が慌てて首を振る。

「良いのよ。あなたが無事で帰ってきてくれたことが大事だもの」
「帰路に山越の残党の待ち伏せに会いました。私が一人になるのを待って狙ってきたようです」
「一人なら、この近くまで戻ってからって事よね?やっぱり助けに行ったら良かったわ」
「尚香殿ならそうお考えになりそうなので、屋敷から飛び出して来られる前に急いで退けました」
「もう!もしかして、からかってる?」

 尚香が笑みを浮かべて、わざとむくれたような表情を見せると、陸遜も小さく笑い、気持ちのままに尚香の額にそっと口づけた。
 労わるような口づけに気恥ずかしくなった尚香が、陸遜の胸を掌でそっと押す。
 
「ねえ。もう起きたから、下ろしてくれて大丈夫よ。自分の足で歩くわ」
「……いえ、もう少しこのままでいさせて下さい。貴女の存在をこの腕に感じていたいのです」
「……陸遜って、時々とても気障だわ」
「尚香殿にだけです」

 微笑む陸遜の穏やかな瞳と目が合って、尚香の胸が恋を知ったばかりの少女のように高鳴った。会えない日々が続いて、彼に再会する度にまるで恋をし直しているようだと思う。
 その気持ちを悟られたくなくて、尚香は陸遜の胸に顔を押し付けるように顔を隠した。

「……私も、会いたかったです」

 陸遜が囁く声が聞こえたので、尚香は返事をする代わりに小さく頷いて、彼の背に腕を回して抱き締めた。




 ★




 戦場の夢を見た。
 怒号が飛び交う劣勢の状況の中で、陸遜の姿を探す。
 降り注いだ矢が幾本も刺さった地面は走りにくい。地に伏して倒れた兵達を踏まないように、尚香は両手に握った圏で飛んで来た矢を払いながら駆けた。
 ようやく見つけた陸遜は、地面に片膝をついていた。彼の目の前には、大剣を振りかざした逞しい武将がいる。
 腕の筋を痛めたのか、陸遜は武器を握れないようで、愛用の飛燕剣は地面に投げ出されている。

(間に合って……!!)

 負傷している陸遜を守る為に尚香は全力で駆けたが、寸でのところで大剣は陸遜に振り下ろされた。


「ダメ……ッ!」

 反射的に身体を起こした尚香は、自分が寝室にいる事に気付く。夜半過ぎの部屋には静けさが満ちており、窓の外から夜に生きる鳥のくぐもった鳴き声が聞こえてくる。
 思わず隣を見ると、陸遜は静かな寝息をたてて眠っていた。穏やかな寝顔に、尚香は胸を撫でおろした。
 速くなっていた動悸が治まるのを待って、尚香は寝台の上に身体を起こしたまま息をついた。
 流された血の匂いまで感じるような生々しい夢だった。
 陸遜が無事に帰還した日に見たのは、無意識の不安があらわれたのだろうか。
 陸遜を起こさないように気を付けながら、身を寄せる。
 彼の穏やかな寝顔を見ていると、次第に気持ちが落ち着いてきた。
 また、あの夢を見るのではないかと不安になりながら尚香が目を閉じると、眠っている筈の陸遜が尚香の背に腕を回して抱き寄せた。

「起きてたの?」

 陸遜の腕に抱き締められたまま、尚香が小さな声で問いかける。

「今、起きました。眠れないのですか?」
「……うん。嫌な夢を見ちゃったの」
「どのような夢ですか?」
「……戦の夢よ」

 陸遜に凶刃が振るわれた事は、言葉にしたくなかったので尚香は言わずにいる。陸遜は尚香の返事に答える代わりに、彼女の頭を宥めるように優しく撫でた。
 
「……ねえ。やっぱり私もあなたと一緒に戦いたいわ。あなたを守りたいの。私の知らないところで、死んでしまったら嫌よ」
「私も尚香殿を守りたいのです。貴女が戦場に出れば、貴女も無事に帰還出来るとは限らない」
「女の務めは分かっているわ。でも、私だって孫家の娘よ。自分に戦う力があるのならば、大切な人達をこの手で守りたい」
「……例え、傷ついてもですか?」
「そうよ。……父様も策兄様も戦で負った傷のせいで亡くなったわ。私は、あなたまで失いたくないの」

 陸遜の胸に顔を埋めて、尚香が呟く。陸遜に無理を言っている事が分かっているから、彼の顔を見る事が出来なかった。
 
「……私も、尚香殿を二度と失いたくはありません。陸家の次代を育んでくださる期待も勿論ありますが、それを理由に貴女を危険な戦場から遠ざける事で一方的に安心をしていました。ですが、それは尚香殿に不安を与えるだけの行いだったのかもしれないですね……」
「え……?それって」

 尚香が陸遜の腕の中で顔を上げると、陸遜は穏やかに微笑んだ。

「殿のお許しが出れば、次の戦いに共に参りましょう。但し、私の軍の陣地から出ない事が条件です」
「ほんとに!?ありがとう!あなたを守る為だもの。それで勿論、構わないわ」
「私も必ずお守りします」

 瞳を輝かせて喜ぶ尚香を、陸遜は改めて抱き寄せた。尚香も陸遜の背に腕を回し、陸遜の胸に身を寄せた。

「でも、権兄様か。手強そうだわ」
「共に謁見して、頼んでみましょう。練師殿もいらっしゃれば、助け船を出してくれるかもしれません」
「そうね。すぐには、承諾してくれないだろうけど、あなたと一緒なら、きっと大丈夫」

 悪夢の余韻もどこかへ去ったのか、尚香は安心した表情で暫く陸遜と話をしている内に、うとうとと眠ってしまった。
 腕の中で安心しきった寝顔を見せる尚香に、陸遜は安らぎを得る。

「必ずお守りします。貴女が貴女らしく生きられるように共にありましょう」

 陸遜は尚香の寝顔に静かに誓い、尚香が今度こそ平穏な夢が見られるようにと願いながら眠りに落ちた。

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尚香の戦う理由を考えると、陸遜の遠征を待つのはいてもたってもいられない気持ちだろうなあと思います。
甘めのやり取りを書くのも大分慣れてきました。
婚姻2年目なので、前作より親密さが増してる感じに書けてたら良いなあと思います。

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