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 暖かな春の午後に、尚香は陸遜と邸宅の中庭で寛いでいた。
 簡素な四阿に置かれた長椅子に並んで腰掛けて、陸遜の肩に凭れるように身を預けて談笑する。
 陸遜とこうした時間を過ごせるのは久方ぶりだ。多忙な伴侶の休みを尚香は数週間前から楽しみにしていた。
 尚香の事も気遣ったのか、孫権は陸遜に長期の休みを取らせてくれた。他国との情勢も落ち着いていて、大きな戦が起きる動向もなく、異民族の乱も今のところ落ち着いているからだ。
 休みの初日である今日は、陸遜の望みで邸宅で二人で過ごす事になった。
 兄を冷やかす妹達を部屋に下がらせて、陸遜は尚香を連れて中庭に出た。
 陸家の邸宅は建業の街の外れにあり、周りを小さな林に囲まれている。中庭に出ると、風にそよぐ梢の音や、鳥の囀る声が心地良い。
 じっとしているよりもどこかに出かけて身体を動かしたい尚香だが、陸遜と穏やかに過ごす時間は好きだ。落ち着いていて穏やかな彼の声を近くで聞いていると、心が優しく凪いでいく。
 ひとしきり語り合った後、春らしいまろやかな陽射しが心地良くて、尚香は陸遜の肩に頭を預けて微睡んでいた。
 その時だ。

「……触れても良いですか?」

 躊躇いがちに陸遜が囁くので、尚香は顔をあげた。

「触れるって、もう触れていると思うけど……」

 そう言って、尚香は重ねられた手を握り直す。肩越しに見上げる尚香から、陸遜は決まりが悪そうに視線を外した。

「いえ。触れたいとは、そういう意味ではなく……」
「なあに。はっきり言ってくれないと、分からないわ」
「つまり、ですね。尚香殿に口づけたいと……」
「……っ!?」
 
 思わず身を起こして、尚香が陸遜に向き直る。意思を離れて頬が熱を持つのをどうする事も出来ずに、尚香は陸遜を見つめた。
 穏やかな彼の瞳が、切なげに細められ、尚香の視線を絡め取る。鼓動が早くなると同時に、胸が切なく締め付けられた。
 尚香が陸遜に嫁いで半年が経つが、二人はまだ口づけをした事がなかった。
 陸遜が多忙であり、中々二人でいる時間を取れなかったのもあるが、長く主従であり、同時に戦友でもあった二人の関係を婚姻を機にがらりと変えてしまう事を互いに望まなかったからだ。
 言葉で誓い合った訳では無いが、性急に関係を深めるのではなく、日々を共に過ごす事でゆっくりと愛情を深める事を二人は選んだ。
 そうした穏やかな生活がいつの間にか当たり前になっていた尚香は、陸遜の問いかけに、彼が自分の伴侶なのだという事を改めて実感した。
 敏い彼には、自分の動揺など全て見透かされているのだろう。じっと自分を見つめる陸遜の視線に晒されて、いたたまれない気持ちになった。
 それでも、ただ狼狽えているのは悔しくて、尚香は姿勢を正すと陸遜の手を自分から握り直した。

「ふ、夫婦だもの。勿論、構わないわ」
「……尚香殿にまだそのおつもりがないのなら、私はいくらでも待ちます」
「……私は」
「お気になさらないでください。ただ、私があなたにそうした想いも持っている事を、知っておいて頂きたかったのです」

 陸遜が微笑み、視線が外される。彼が話を終えた事に気付き、尚香はいてもたってもいられない気持ちになった。
 陸遜も尚香と同じ気持ちで、穏やかな日々に浸っていたのだとばかり考えていた尚香は、彼が密かに悩み続けていた事にようやく気付いたのだ。
 尚香は、陸遜の腕を掴んで自分の方に力強く引き寄せて、振り返らせた。
 驚いた陸遜と視線が合うと、その大きな瞳を閉じた。

「尚香殿!?」
「私も、前に進みたいの」
「……偽り無くですか?」
「あるように見える?」
「……いいえ」

 陸遜の手が、尚香の肩に置かれた。瞳を閉じているが、陸遜の顔が近づいてくるのを気配で感じる。
 緊張に身構える尚香の唇に、柔らかいものが触れた。押し付けられた唇と同時に温かい吐息を感じて、胸が痛い程鳴った。
 唇を重ねたまま、陸遜が尚香を抱き寄せる。互いの胸が重なると、陸遜の鼓動も早くなっている事に気付く。
 唇を触れ合わせるだけの口づけを終え、陸遜が身を離した。離れていく温もりを追いかけたい気持ちを抑えて、尚香は瞳を開けた。
 陸遜と視線が合って、動けなくなる。普段は穏やかな瞳に熾火のように灯した熱を隠さぬ姿は、見知らぬ男性のようだ。
 それも一瞬のことで、陸遜は尚香に微笑みかけていつもの穏やかな表情に戻ると、長椅子から立ち上がった。

「……少し歩いてきます。尚香殿は、ここにいてください」
「私も行くわ」
「いえ。ここにいて下さい。一人で頭を冷やさなければ、また貴女に触れたくなります」

 そう言い置くと、陸遜は尚香の返事を待たずに門の方に歩き出した。
 陸遜の言葉の意味を数拍後に理解して、尚香の頬が赤く染まる。
 歩いて行く陸遜の背を見送りながら、尚香は庭に視線をやった。
 穏やかな春の庭は、丁寧に手入れをされていて、季節の花が彩っている。
 美しいその光景が、尚香の瞳にはこれまでよりも鮮やかに見えた。
 穏やかな日々に起こった大きな変化に胸をときめかせながら、尚香は陸遜が戻ってくるのを待った。

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めちゃくちゃ照れながら書いたの覚えてます。
とっくに夫婦になってるけど、それまでに恋人としての期間がなかったから、ゆっくり関係を育んでる二人だと良いなあと思います。

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