願い事


 揚州と接する国境を越えて侵攻してきた魏軍との防衛戦に、呉軍は勝利を収める事が出来た。
 大軍を擁する魏軍よりも寡兵で勝利する事が出来たのも、軍師である陸遜の策が功を奏したからだ。
 撤退する魏軍を、見送った夜。建業へ引き上げる途上にある駐屯地で、将官達は戦勝の宴を開き、互いの功を労った。
 戦に勝利して建業へ凱旋出来る事は勿論だが、帰りを待つ家族や友人達の元に戻れる事が嬉しかった。
 生の実感と安堵に気持ちが高揚し、多分に取った酒精で皆はいつもより饒舌だ。
 甘寧もその一人で、仲間達と盃を酌み交わしながら、宴の席を盛り上げていた。
 主に軍を率いる将達が集まる席で、甘寧が戦での武功や失敗談を少々大げさに語っていると、凌統が呆れ顔で茶々を入れてくるのもいつもの事だ。
 そんな賑やかな宴の席の端で、静かに酒を飲んでいる男がいた。
 今回の戦の功労者の陸遜だ。
 皆が声をかけると、律儀に相槌を打って答えているが、話題が変わり会話から離れられるようになると、また一人で盃を握ったまま考え込んでいる。
 皆と騒いでいた甘寧は、そんな陸遜の様子を不思議に思い、盃を片手に陸遜の隣の席へ移動した。

「おい、陸遜。なに時化た顔して、一人でちびちび飲んでんだ」
「か、甘寧殿。少し考え事を……。戦勝の宴の席なのに、申し訳ないです」
「別に構やしねえけどよ。気ぃ使って飲んでも旨くねえしな」

 罰が悪そうな表情で恐縮する陸遜の肩を、甘寧が叩く。
 甘寧の明るい様子に安心したのか、陸遜の物憂げな表情が少し解れた。
 宴もたけなわで、一人また一人と体を休める為に席を離れていく。
 宴席の喧騒も和らぎ、昔からの戦友と静かに酒を飲むのも良いだろうと甘寧は思ったのだ。

「それにしても、明後日には無事に建業に戻れるってのに、んな浮かねえ面して、なんか悩みでもあんのか?」
「陸遜が悩むような事を、あんたに打ち明けて解決出来るもんかねえ」
「ちっ。うっせえのが来たぜ」

 甘寧達を見つけて、凌統も盃を手に席を移ってきた。彼も陸遜の浮かない表情を気にしていたのだろう。
 此度の戦の勝利は、陸遜の策があってこそだ。その策を実現する事が出来たのは、歴戦の将達の実力があってこそだが、そもそも策が無ければ勝てなかっただろう。
 その呉の誇るべき軍師が、勝利を祝う宴席で考え込む表情に、甘寧達はひっかかるものを感じたのだ。
 
「もしかして、魏がまた攻めてくんのか?」
「あんたにしか見えない展望があるって訳かい?」
「い、いえ!決して、そうでは……。誤解を与えてしまい申し訳ないです。私が考えていたのは、とても私的な事なので、どうかお二人ともお気になさらないでください」
「なんだよ、水臭えな。そんなら尚更言ってみろよ。酒もあるし、無頼漢ってやつだ」
「それを言うなら、無礼講だろ?ったく、あんたがいると、進む話も進まなくなるっての」
「ああん?てめぇ、俺に喧嘩売ってんのか」
「お、お二人とも、正直に話しますのでやめて下さい。ただ、ほんとに細やかな悩みなので、呆れないでくださいね」

 睨み合う甘寧と凌統を止めて、陸遜は躊躇いがちに語り始めた。
 陸遜の悩みは、確かに戦とはまるで関係がなく、その意外な内容に甘寧と凌統は思わず視線を見合わせた。
 私的な事だと言ったのも、その筈だ。
 陸遜の悩みは、尚香の事だったからだ。
 劉備に嫁いでいた彼女は帰国してから、孫権から齎された縁談を全て拒んでいたが、数々の戦いで武勲を立てて出世した陸遜に望まれて、ついに婚姻を結ぶ事になった。
 頑なだった尚香がついに再婚を承諾した事もだが、優秀な軍師としてだけでなく、誠実な人柄でも評価されている陸遜が相手という事で、二人の婚姻の約束を知った者達は、国の命運を背負って劉備の元に嫁いでくれた姫様が、今度こそ末永く幸せな生活を送れる事が出来ると祝福した。
 長い準備の期間を経て、尚香が陸遜に嫁いだのが二ヶ月程前の吉日だ。新たな日々の始まりにふさわしく明るく晴れた日だった。
 甘寧や凌統も、赤い婚礼衣装に身を包んだ尚香が陸遜と共に城を出る姿を一目見ようと、城門に駆けつけたのを覚えている。

「おめぇ、姫さん連れて嬉しそうにしてたじゃねえか。こないだ婚姻したばっかだってのに、もう上手くいってねえのか?」
「まさか……!姫様を娶れて、法外な幸せを感じています」
「ふふ。大げさだって言いたいとこだけど、今までのあんたを見てたら相応の感想ってとこかな」

 凌統の言葉に、陸遜が面映ゆそうに微笑んだ。
 尚香が劉備の元に嫁いでいた間も、彼らは時々陸遜を酒に誘い、声をかけてくれていた。
 陸遜の秘められた恋情は、国の情勢も絡んで、増々複雑になっていた。
 胸の内を中々語らぬ陸遜の言外の悲しみを悟るだけの度量のある二人は、諦めろと強要する事もせずに支えてくれ、感謝していた。

「そんで、ようするにおめぇの悩みってのは、なんだよ」
「……私は長男で、陸家の家督を継ぎました。なので、私達の暮らす屋敷にはまだ嫁ぐ前の妹達も一緒に暮らしています」
「まあ、嫁ぐ前ならそうだろうな」
「もしかして、姫様と妹達の折り合いが悪いのかい?」

 凌統の問いかけに、陸遜が小さく頭を振って否定する。

「いいえ。その逆で、本当の姉妹のように親しくしてくださっています」
「なんだよ。そんじゃあ、何が問題あるってんだ?」

 杯に酒を手酌で継ぎ足しながら甘寧が問いかけると、陸遜は困ったように視線を落とした。

「仲が良すぎるのです。姫様は家族を大切にされる方で、孫家の末姫でもあられるから、義理とはいえ妹が二人も出来た事が嬉しいようで……。それに、妹達も姫様によく懐いていて、家にいる時はほぼ一緒に過ごしています」
「ふうん」
「なるほどな」

 甘寧と凌統が視線を合わせて、頷き合う。尚香の人柄を知っているからこそ、陸家での様子が想像出来た。
 
「ようするに、姫さんは新しい家族に夢中になっちまって」
「二人で過ごす時間も殆どないし」
「その上、婚姻したばっかなのにおめぇは戦に出る事になって」
「当の姫様は寂しがるどころか、陸遜を笑顔で見送ったってとこか」

 甘寧と凌統が互いの言葉を引き継ぎながら息を合わせて言うと、陸遜は大きなため息をついた。

「……お二人の仰る通りです。情けないですが、考えるほどに分からなくなって」
「分かんねえなあ。んな悩む程の事か?おめぇが亭主なんだから、バシッと姫さんに俺といろって言やしまいじゃねえか」
「それが言えないから、悩んでるんでしょうよ。陸遜は、口が先に動くあんたとは違うっての。自分の気持ちを伝えたら、姫様や妹達との関係にどう影響しちまうのかとか、色々と考えついちまって動けないんだって」
「……ええ。色々と考えてみましたが、最善の対処方法が分かりません。戦に勝利する策なら思いつけるのに、まるで勝手が違います。私のわがままで、姫様のお気持ちを損ねたくはありませんし」

 多くの武勲をあげている軍師である陸遜が、尚香を想って悩む姿はどこか微笑ましくもあった。
 凌統は、陸遜の空いた盃を手に取ると、酒を注いで渡し、隣に座る甘寧の肩を叩いた。

「まあ、今回に限っては甘寧の言うことも一理あるんじゃねえかって、俺は思うんだがね」
「甘寧殿のですか?」
「姫様と妹達の事ばかり気に掛けてるけど、陸遜だって家族の一人なんだ。自分の心を度外視して進めようとするから、どんなに考えたって、しっくり嵌まらねえんじゃねえのかってこと」
「……なるほど」
「たまには馬鹿正直に、自分の気持ちを伝えてみなよ。じゃないと姫様は、いつまでも陸遜の気持ちに気づかれずにいるんじゃないかい」
「おう、そうだぜ。バシッと言っちまえ!バシッとよ」
 
 陸遜は二人に頷くと、盃に満たされた酒を一息に飲み干す。
 建業で自分の帰りを待つ尚香を想うと、胸の奥が温まった。
 








 妹達と共に出迎えてくれた尚香は、陸遜の無事の帰還を喜んでくれた。
 「信じてたわよ」と、屈託のない笑顔を見せる尚香を愛おしく感じ、その頬に触れたくなったが妹達の手前があるので、自制した。
 家族で食卓を囲み、食事を終えると広間に移動し、陸遜が不在の間にあった出来事を、尚香と妹達が代わる代わるに語ってくれた。
 妹達と楽しげに語らう尚香は、贔屓目抜きに見ても幸福そうに見える。その事が嬉しく、同時に二人で過ごす時間も欲しいと彼女に願い出る事に後ろめたさを感じた。
 この一時が大切なのは確かなのだ。それでも、二人きりの時間も過ごしたいと思う。それは尚香の意に沿わぬ事かもしれぬと考えながらも、我を通す事を選ぶ事が、決意した今でも身勝手で狭量な事のように感じる。
 やはり、このまま伝えずにいようかと思うが、陸遜も家族の一人だという凌統の言葉を思い出す。
 陸家の長男という立場もあり、陸遜は今まで自分の我を通す事をあまりしてこなかった。まだ少年といえる年齢で家督を継いで、幼い弟妹達を守る事が彼にとって何より優先すべき事だったからだ。
 戦場では奇襲や火計といった苛烈に攻める策が得意だが、家では自分を二の次にする事に慣れてしまい、我を通す事に躊躇いを感じてしまう。
 それでも尚香とこれからも長く続いていく関係を深める為にも、自分の想いを伝えるべきだと気持ちを改めた。

 久しぶりの家族での団欒は、夜半近くまで続いた。妹達はまだ話をしたがっていたが、さすがに眠気を覚えたのか、あくびを噛み殺しながら自室へと下がった。
 広間に残った陸遜は、先に席を立ち部屋へ戻ろうとする尚香の背に声をかけた。

「……あの、姫様。お話があるのですが」
「私に?なにかしら」

 尚香は、長椅子に座る陸遜の隣に腰を下ろす。夫婦となったのに、肩が触れ合う程の距離に彼女がいるだけで、いまだに鼓動が速くなる事を知られたくないと思う。
 静かに息をつき、平静を装いながら尚香の翡翠色の瞳に視線を合わせた。
 
「妹達を大切にしてくださり、ありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。私が新しい生活にすぐに馴染めたのもあの子達のお陰よ。あなたに似て、とても良い子達だわ」
「ありがとうございます。ただ、まだ世間知らずな年齢なので、至らぬ行いでご迷惑をかけてないと良いのですが」
「そんな事ないわ。それに、しちゃいけない事をしたら、私が義姉としてちゃんと叱るわよ」
「その時は、私も呼んで下さいね。兄として一緒に叱ります」

 陸遜が言うと、尚香は頷きながら嬉しそうに微笑んだ。
 触れたいと思った気持ちのままに、彼女の手を取ると、驚いた尚香が恥じらうように視線を逸らした。
 代わりに重ねた手を握り返される。柔い力が、陸遜の手にじんと痺れたような心地よさを齎した。

「……このような事を言うべきではないのかもしれません。それでも、私はあなたとだけ過ごす時間も譲りたくはないのです」
「私とだけ?」
「私の家族を大切にして下さっている姫様に、このような事を申し上げるのは身勝手な事かもしれません。言うべきか悩みましたが、どうしてもこの気持ちを譲れませんでした。これからは、私とこうして二人で過ごす時間も頂けないですか?」
 
 陸遜の問いかけに、視線をあげた尚香は小さく頷いた。頬は上気し、口元は嬉しそうに綻んでいる。
 翡翠色の瞳は喜びを宿していて、予想と違った尚香の可愛らしい反応に、陸遜は面食らった。

「そうね。私ったら、嫁いでからあの子達とばかりいたかもしれない。私はあなたに嫁いだのに、ごめんなさい」
「い、いえ!決して姫様に謝って頂きたいのではないのです」
「いいのよ。思い切って言ってくれて、ありがとう。陸遜の事だもの、ずっと遠慮してたんでしょ?」
「は、はい。……あ、いえ」
「ふふ。正直に言ってくれて嬉しいの。なんだかちゃんと夫婦になれた感じがするじゃない?それに、私だって……」
 
 そこまで言うと、尚香は隣に座る陸遜の胸に顔を埋めるように凭れた。その背に腕を回すべきか陸遜が悩んでいると、「あなたとこうして居たいのよ」と小さく呟く声が聞こえた。

「……姫様、ずるいですよ。私にもお顔を見せてください」
「いやよ。恥ずかしいもの……なんてね」

 陸遜に凭れたまま顔をあげた尚香がいたずらっぽく笑う。きっと彼女には、自分の早く打つ鼓動を聞かれているのだと思うと、陸遜は面映い気持ちになった。
 それでも、ずっと思い悩んでいた事を打ち明けて、彼女がすんなりと受け入れてくれた事に安堵したのは確かだ。
 凌統達の言う通り、正直に想いを伝える事が大切なのだと気付かされた。陸遜は心の中で、自分の悩みを聞いてくれた気の置けぬ仲間達に感謝した。
 
「ねえ。私も陸遜にお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「勿論です。何でも仰ってください」

 陸遜に凭れていた身体を離して、尚香は陸遜に向き直る。
 背筋をぴんと伸ばし、真剣な表情で陸遜を見つめるので、陸遜は何を頼まれるのかと固唾をのんで尚香の言葉を待った。

「あのね。私の事、姫様って呼ばないで欲しいの」
「姫様と、ですか?」
「そうよ。あなたったら、ずっと私の事を姫様って呼ぶんだもの。私は陸家に嫁いだんだし、もうあなたの家族なんだから、姫じゃないわ」
「しかし、私にとっては……。……いえ、そうですね。仰る通りです」
「そうでしょ?ずっと言いたかったけど、あなたが私を気遣ってくれる気持ちを損なうかもしれないと思って中々言えなかったわ。でも、あなたが思い切って本音を言ってくれたから、私もやっと言える」
「ずっと、気になさっていたのですね」

 自分が彼女との関係を悩んでいた間、朗らかに過ごしていると思っていた彼女も悩んでいたのだと知り、陸遜は驚いた。
 自分の悩みにばかり囚われて、自分も無自覚に尚香を孫呉の姫として扱う事で、彼女を家族として受け入れる配慮が足りていなかっのだと気付かされて、胸が痛んだ。

「そんな顔しないで。あなたにとっては、口癖みたいなものだって分かってるから。これは、私のわがままよ」
「いえ。わがままではありません。すぐに改めようと思います」
「ありがとう。ほんとは敬語もやめて欲しいんだけど、それはすぐには無理そうだから、まずは呼び方からお願いね」
「はい。尚香……、殿」

 いきなり呼び捨てる事に抵抗があり、敬称をつけて呼ぶ陸遜の罰の悪そうな表情を見て、尚香が吹き出す。彼女の明るい笑顔に、陸遜も釣られて微笑んだ。

「ふふ。呼び捨てで良いのに。でも、あなたのお願いは一つだけなのに、これ以上言うと私はねだり過ぎね」
「いえ、全て引き受けます。時間がかかっても、尚香殿の願いを一つずつ叶えていきたいのです」
「ありがとう。私にも、叶えられる事があったら必ず言ってね」

 陸遜は頷き、尚香の手を取った。
 その手を軽く引き寄せると、尚香は抵抗なく陸遜の腕の中に収まった。彼女の腕が陸遜の背に回されるので、陸遜もそれに応えるように抱き締め返した。
 腕の中にある彼女の確かな温もりが、陸遜に途方もない安らぎを与える。
 声を聞く事も、姿を見る事すらも叶わぬ程の遠くにいた彼女が、今こうして腕の中にいる事が嬉しかった。
 想い続けた願いはこうして叶ったのだ。二人で細やかな願いを叶え合いながら、歩んでいきたいと陸遜は心から願った。

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甘寧と凌統との会話を書くのがひたすら楽しかったです。
朱然も出したかったけど、アプリで少しやり取り見ただけで、まだ7猛将伝未プレイなので断念しました。
悩みながら関係を育む新婚な陸尚も書いてて楽しいです。
幸せそうに過ごす二人を書く時間は癒しです。

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