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 女官達が慌てた様子で、廊下を駆けている。
 手には豪奢な髪飾りに、錦の衣と絹の帯を抱えている。
 それを纏うべき者を探しているのだろう。女官達は口々に姫君の名を呼びながら、城中を空き部屋に至るまで探している。
 日暮が近づく中、右往左往している女官達に申し訳なく思いながら、懐かしい光景だと陸遜は感慨深くなった。
 荊州からの使者達を迎えて、今宵は宴が開かれる。尚香は縁があるからと、孫権に出席するように命じられていた筈だ。
 だが気丈な姫は、意に沿わぬ事には勅命とあれど首肯しない。
 今は去った彼の地への想いが強いからこそ、彼らと会いたくはないのだろう。
(お変わりのないご様子。姫様らしいな……)
 一日の仕事を終えた陸遜は、執務室で朝服から私服に着替え、女官達の騒ぎを尻目に城の西に向かった。そこには城郭よりも高い物見櫓がある。
 城攻めに備えた物見櫓は、普段は使われてはいない。兵卒達は城郭から城の外を見張っていた。
 物見櫓の下まで来ると、陸遜は梯子を昇った。梯子の中程まで来ると、風に吹かれてなびく花緑青色の帯が見えた。陸遜は確信を深めて梯子を昇る速度を上げ、物見櫓の上へと出た。
「戻らないわよ」
 狭い櫓の上に腰を下ろした尚香が、振り向かずに陸遜に声をかけた。
「驚かれないんですね」
「ここに呼びに来るなら、あなただって分かってたもの」
 膝を抱き寄せるようにして座り直す尚香の隣に進み出ると、陸遜も静かに腰を下ろした。
 幼い頃に、何度も彼女を探してこの物見櫓を昇った。それを繰り返す内にいつの間にか尚香を説得するのは、陸遜の役目になっていた。
 尚香が遠い彼の地に嫁いでからは、二度とこの物見櫓に昇る事は無いと思っていた。
 だが、再び彼女はこの場所にいる。その事実と尚香の気持ちを思い遣ると、陸遜の胸は締め付けられた。
 夕焼けに燃える西の空は、大河を赤く染めている。開けた視界に広がる大地は、夕陽すらも小さく感じさせる程に雄大だった。
 ここから見える景色は変わらない。だが、成長した分狭くなった櫓の上で、並んで座ると肩が触れ合うほど二人の距離は近かった。
 尚香の気配を間近に感じて高鳴る鼓動を意識しながら、陸遜は平静を装って尚香に声をかけた。
「呼びに来たのではないのです。姫様を探している女官達にも、声をかけてはいません」
「……じゃあ、どうして?」
 尚香が不思議そうに小首を傾げて陸遜を見た。
「もう一度、ここからの景色を姫様と見たかったのです」
 陸遜が尚香に微笑んでから前を見ると、尚香はまだ不思議そうにしながら、陸遜に倣って前を見た。
 夕陽は更に大地の向こうへ沈み、空は夜の色を帯び始めていた。
「私と……」
「ええ。もう見られないと思っていましたから」
「……そうね。私もそうよ。ずっとあの場所にいるのだと思っていたわ」
 陸遜の想いを察して小さく頷いた尚香が、腕を前方に伸ばし、たおやかな指先で西方を指した。陸遜は思わずその指が指す彼の地ではなく、尚香の横顔を盗み見た。
 翡翠色の瞳を潤ませて、微笑みを浮かべたその表情は、いつも以上に美しく見えた。二度と手放したくはないと咄嗟に想い、その気持ちを胸の奥に沈めた。
「戻ってまだ三ヶ月しか経っていないのに、どんな気持ちで使者に会えば良いのかなんて分からないわ。曖昧な気持ちで向き合いたくないの。兄様は、いつまで経っても政治を優先で、私の気持ちには鈍感なんだから」
「後ほど、私から辞退されるとお伝えしておきます。お風邪を引かれて休まれていると言えば、殿も無理を仰らないでしょう」
「……うん。ありがとう」
 それから日が暮れ落ちるまで、二人は言葉少なに櫓の上で過ごした。あの頃と同じようで、違う時間を過ごした二人は互いを意識しながら物見櫓を降りた。
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