真っ白な紙にインクを溢したかのように、私の視界が覆われていく。
じわじわと黒が侵入してきて、慌てて避けようとするもすぐに捕まってしまう。
今だ白い場所には、シンや同僚が楽しげにお喋りをしていた。
待って。ちょっと待ってください。
声を張り上げるが、皆チラリと振り返るだけで、歩みを止める者はいない。
我が主、シンドバッドでさえ。
呆然と立ち尽くしていると、やがて全てが黒く塗り潰された。
どこからか、声がする。
お前を許さない。
返せ、私の愛しい人を。
お前が幸せになれると思っているのか。
大切な人をお前に奪われた。
お前に幸せになる権利なんて、ないんだ。
「──っ!」
必死で逃げ出した。
前も後ろも分からない闇の中、必死で走る。走る。走る。
それでも声は追いかけてきて、私を捕えようと手を伸ばす。
「はっ、はっ、だれ、か……」
誰か、助けて。誰か…
「おい」
気が付くと声は消えていて、目の前には薄汚れた簡素な建物が建っていた。
その建物の前に、一人の少年が佇んでいる。
「お前、怖いのか」
包帯を口元に巻き、ダークグレイの瞳を細める少年。
「過去が、怖いのか」
無機質な声に、頷く。
すぐさま、バカだなと言葉が返ってきた。
「バカ?」
「バカだろ。俺たちは、過去になんか構ってられない」
さも当たり前だと、少年は続ける。
「いちいち立ち止まって、振り返って。そんなのは傲慢な人間がすることだ。俺たちにそんな暇はない」
「……」
「過去に怯える暇があるなら、大切な人を笑顔にしろ」
「…大切な人?」
「いるだろ。お前を外に連れ出したやつとか、お前が甲斐甲斐しく世話を焼いてるやつらとか」
視界に、紫がちらつく。続いて赤、白、水色、金、茶。大きな大きな手に、緑の固い手。
「お前が、愛した女とか」
光が見えた。か細く、小さいが、賑やかな光。
「今のお前しかできないことだ」
少年の声に被さるように、澄んだ声が耳に届く。
『ジャーファル』
心配を含んだ声は、私が愛した人の…
「……カーラ」
少年が背を向ける。
「いつまでこんなところでグズグズしてるつもりだ。
…早く戻れ」
光が大きくなり、眩しくて目を瞑る。
「過去なんか、捨てろ」
吐き出すような少年の声に背を押され、足を一歩踏み出した。
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ジャーファルが倒れて、丸一日。
自分には限界というものなど無いと思っているのか、周りの忠告を無視して仕事を続けた結果、6日目にしてパタリと倒れたのだ。
「はぁ…」
全くこの人は、どれだけ人に迷惑をかければ気がすむのか。
彼は自分のことをこれっぽっちもわかってない。
今日だって、昼休みに八人将とシン王が揃って様子を見に来たのだ。
シャルルカンやピスティ、ヤムライハなんかは泣き出しそうになるし、
スパルトスとマスルールはずっと眉を寄せてるし、
ドラコーンとヒナホホには、ジャーファルを旦那に持って苦労するな、などと憐れに思われるし、
シン王に至っては、こいつはこういうやつなんだ。これに懲りずに面倒見てやってくれ、なんて言われるし。
「あなたを慕っている人がこんなにいるのに、どうして無理をするのかなぁ、ジャーファル」
働きすぎても死んじゃうんだよ?
「バカジャーファル」
「……カーラ」
ドキンとして顔を覗き込むが、どうやら寝言だったらしい。
ああもう。
「早く起きてよ、バカ」
ジャーファルのおでこに軽く唇をつけて、逃げるように部屋を出ようとすると、待ち焦がれた声が待ったをかけた。
「待って、カーラ…」
「ジャーファル!?」
慌ててかけより、彼がぱっちりと目を開けているのを見て、不覚にも涙が出そうになった。
「え…カーラ!?どうしたんですか…」
「うるさい。そんなことも分からないのかバカジャーファル」
「ええ!?カーラも同じこと言うの!?…ていうか、あれ?」
状況が分からないらしいジャーファルに飛び付く。
ぐえっ、とか聞こえたが無視だ無視。
「ジャーファル、仕事し過ぎで倒れたんだよ」
「あ……」
そう言えば合点がいったのか、ジャーファルはお腹の辺りに抱き付く私の頭をゆっくりと撫でた。
「ごめんね」
「ほんとだよ。どれだけ心配したと思ってるの?」
「…ごめん」
「八人将の皆やシン王も心配してたんだからね」
「うん」
「本当に…」
これ以上口を開いたら涙がこぼれてしまう。
ジャーファルは優しく、私の頭を撫でる。
「あのね、カーラ。私、過去を捨てようと思うんだ」
「……過去?」
「過去を手放すよ」
だからもう、泣かないで?
そう結ばれて、私の努力は無駄だったことを知った。
◆◇◆
お題から。
アンモライトの石言葉で、過去を手放す。