朝起きたら、小指に糸が絡まっていた。
えーと。

「ちょっとシャルルカン! こんなイタズラしたのあんたでしょう!」

とりあえずバカ弟を怒鳴りつけてみる。だってこんな馬鹿なこと誰がするんだ。アイツしかいない。

「んだようっせーな……朝っぱらから騒ぐなよ」

「いいから早くこれ解きなさいよ愚弟。仕事行けないでしょ」

「……頭おかしくなったのかよ、お前」

「は?」

気持ち悪いものを見ているような弟の視線に、もしかして他の人には見えてないパターン? と、とっても非現実的な考えが浮かんだ。とりあえずこのチャラ男を殴っといた。

「なにすんだよ!」

「姉に向かってお前って言ったから」

「ハァ?!」

「いーからはやく。飲むヨーグルト注いできてよ」

「んなもん自分でやれ」

「早く」

「…………ったく」

反抗期ぶってるけど非常に素直な弟です。

「ほらよ」

「さんきゅ」

「それ飲んでさっさと着替えろよ。せめてベッドから下りろ。遅れんぞ」

「ほーい」

どっちが上かわかりませんね、いやはや、まいったまいった。
まあ、そんなことはどうでもよくて。秋も深まった10月某日、忍び寄ってくる冷気に負けず冷たい床に足をつけた。

「…………」

つけた足元に、とぐろを巻く真っ赤な糸。それは部屋にぐちゃぐちゃと絡まりついて、部屋のドアの向こうに向かって伸びていた。なんなんだこれ、運命の赤い糸的なものですかこれ。
1歩を踏み出すのも至難の業。試しにそろりとつま先で歩いてみたらものの見事にバランスを崩した。転倒、なんてことにはならなかったけど近くの戸棚に手をかけた拍子に上に置いていた文庫本が重い音を立てて床へ落下。哀れ、夏目漱石。
因みに、これでもかと散らばってる赤い糸はきちんと感触がありました。けっこう痛いですよ、これ。

「さっきの音なんだよ」

糸をなるべく避けながらふらふらと廊下を歩いていると、見た目の割にシスコンの弟がひょいと顔を出してきた。

「いや、ちょっとつま先立ちで歩いたらバランス崩して」

「ダサッ」

「役所勤めなめんな」

永遠と事務仕事だからな。ずっと座ってるんだからな。そのせいでお腹周りがちょっとやばいんだからな。
吹き出す愚弟の背中を思い切り叩く。糸のついてる方の手で。ベシンとかなり痛い音がして、ついでに言うと赤い糸は大きな弧を描いて彼の頬に当たっていた。結構な勢いで。

「ってーな! この暴力女め」

シャルルカンは叩かれた背中をさすりながらリビングへと戻っていきました。頬は全く気にせずに。あれー? やっぱりシャルルカンには見えてない感じ?

「いつまでそこに突っ立ってんだよ。オレはもう出るからなー」

いってきまーす、と気だるそうなしかし元気な声が玄関から聞こえてきて、とっさにいってらっしゃいと返す。

「気をつけてねー」

「オネーサマも。早く家出ろよー」

いつもの会話が糸だらけのリビングに跳ねて、重い扉に吸い込まれた。


***


「おはようございまーす」

「おはようございます」

「ああカーラ、おはようごさいます。今日はずいぶんと早いですね」

職場の扉をギイっと開くと、そこにはすっきりと爽やかな上司と、最近入った可愛い後輩が1人。声をかけてくれた上司にペコリとお辞儀をする。

「いやまあ」

色々とありまして……とかなんとかゴニョゴニョと口の中で言ってみる。
いつもは遅刻ギリギリだから珍しいのだろう。私も珍しく早い時間に家を出たという自覚はある。本当は期待してたのだ。もしかしたら馬鹿シャルのイタズラかもしれないし、アイツは何でもないふりしてたんだろうけどこの状態で外に出れば変な顔の一つや二つされるんじゃないかって。むしろ家の中だけの悪夢で外に出ればこんな糸なんて綺麗さっぱりなくなるんじゃないかって。そんな思いでいつもより早めに家を出る準備をしました。
玄関のドアの向こうに続く赤い糸を見ないふりして開けて、1分も経たないうちにその場に蹲りたくなった。むしろ休みたかった。もう一度ベッドに舞い戻って夢の世界で遊んでいたかった。でもそんなわけにもいかなくて。
浅はかな私を嘲笑うかのように道路の脇の大きな木にも赤い糸、近くにあるファッションセンターの看板にも赤い糸、果ては電柱電線にまで赤い糸糸糸。赤い糸だらけの道を素知らぬ顔で歩く通行者に揉まれ、内心泣きそうになりながらも長女故か逞しくなった表情筋を駆使して職場まで来たのだった。

「カーラ?」

「あ、はい。なんでしょう?」

「いや、今遠い目になってましたよ?」

ありゃ。もうちょっと頑張れ私の表情筋。

「ジャーファルさんこそ。そんな爽やかな顔してる割に隈どす黒いですよ。何分寝たんですか」

「ひどいですね。今日はちゃんと1時間寝ましたよ」

1時間ですか。それってちゃんとって言わなくないですか。しかも「ねえ?」とか後輩ちゃんに聞かないでくださいよ。後輩ちゃんも頷いてるし……今日も家に帰ってないんですか。

「いい加減帰らないと奥さんに逃げられますよ」

「おや、それは怖い。逃げられないうちに電話でも入れてきましょうか」

「いってらっしゃい。そのまま2時間は帰ってこなくて結構です」

「相変わらず君は辛辣ですね」

苦笑の形をとっているが明らかに口元が引くついている。ありゃ、また言いすぎたか。会議中に倒れられたら困るので、と付け加えれば、ようやく安心したように微笑んだ。その笑顔でまかせましたよと頭を2回なでられる。

「じゃあ仮眠室でも借りてこようかな」

最後のは独り言だろう。ポツリと言葉を落とした彼は静かに部屋から出ていった。

「カーラさん。お茶入れますね」

「ああ、ありがとう」

気の聞く後輩ちゃんがパタパタと給湯室に駆けて行って、誰もいなくなった部屋の中、自分の席に座って小指の糸を眺める。さっき笑って私の頭をなでた、彼の手には見慣れないものがあった。それはもちろん私の小指に巻きついている無粋な赤い糸なんてものじゃなくて、そんなんじゃなくて。
小さく控えめに輝く指輪が、左の薬指に光っていた。

「かなわないなぁ」

敵わない、適わない、叶わない。全てをひっくるめた『かなわない』だ。
そもそもかなうわけがない。出会った時からあの人には恋人が居たし、私が抱いてはいけない恋心をうっかり育んでる間に彼と彼女は夫と妻になっていて、ジャーファルさんの部下として結婚式に呼ばれたというのに諦められなくて。

でもずっとジャーファルさんは結婚指輪なんてしてなかった。なんで今日に限って。突如出現した赤い糸は、小指に巻きついている赤い糸は、神様かなんかがいい加減諦めろって言ってるように思えた。

「そんな簡単に諦められるならとっくに諦めてるわバーカ」

「なにか諦めるのですか?」

びっくりして振り向くと、そこにはココアを持った後輩ちゃんが。偉いぞ、私の好みをもう覚えたのか。

「あーいや、うーん、……無理ゲーをもう諦めようかなって」

「諦めてしまうのですか?」

「うん。だってほら、無理ゲーだし」

「例え無理ゲーでも、自分の納得が行くまでやり抜くことが1番だと自分は思いますが」

「おおう……スパちゃん今日はグイグイくるね」

「スパルトスです」

「そんな事言ったってねぇ……」

だってほら、無理ゲーって言うか、それってジャーファルさんの幸せを呪うって事だろうし、そんな簡単にはできない。納得のいくまでって、どこまでだろう。

「少なくとも自分は、無理ゲーでも納得するまでやめませんよ」

「スパちゃんも無理ゲーとかやるんだね。ゲームやらなそう」

「スパルトスです。……ゲームはやりませんが、今自分も無理ゲーの真っ最中のようなものですから」

「へえ。じゃあお仲間だねぇ」

私みたいな事情のやつと仲間とか嫌だろうけど、知らぬが仏ってやつだ。

「はい。自分にとっての満足するまでとは、相手に気持ちを伝えて、返事をもらうまでですから」

「へ?」

「まだリタイアはしませんよ」

「え、ちょ、スパちゃん?」

さっきの言葉どういうこと。
聞こうとするがもうすでに生真面目な後輩はパソコンに向き直ってしまった。私の質問に答えてくれる気配はない。そのうちにぞろぞろと同僚が出勤してきて、にわかに騒がしくなった。満足するまで、か。全てを話したわけではないけど、何故か軽くなった気がして手を見る。そこには相変わらず赤い糸がぐるぐる巻きだったけど、心なしか少し減ったような。

思うだけはタダだし犯罪でもないよね。運命の人はこの糸の先に居るだろうから、焦らなくてもいいかな。なんて、すぐに楽観的な思考に流れていく。
満足したら終わりにしよう。そう切り替えて、上司のいない二時間の枠を埋めるため、パソコンに向かって手を伸ばした。

2015/10/11 フリーワンライ
小指の糸

非現実的な出来事が我が身に降り掛かった結果
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