「ねえジャーファル」
「なんですか?」
ある日の昼下がり。珍しく家にいるジャーファルは、ソファーでくつろぎながら本を読んでいた。
「夢をみたんだ」
「へえ、どんな?」
椅子に座って縫い物をしていたカーラは、悲しそうに微笑んだ。
「…悲しい夢だよ。悲しくて、切なくて、すごく辛かった」
「…そうですか。おいで、カーラ」
呼ばれて、素直にジャーファルの隣に腰を下ろす。肩を引き寄せられて、すっぽりとジャーファルに包まれた。
「ごめんね」
ポツリと落ちた謝罪の言葉が、ゆっくりとカーラの心に沈む。
ああ、この人は知っているのだ。私がどんな夢を見たのか。知った上で、こうして謝っている。彼が悪いわけじゃないのに。
「なんで謝るの」
「なんでって……」
湿った鼻先を押し付ける。もちろん彼の胸元に。カーラは無意識のうちに、ジャーファルの服の裾を握っていた。
「そういう時は、大丈夫だよって言ってやるのが、優しさってものじゃないの?」
「……」
そう言っても、答えが返ってくるはずがない。すごく意地悪な事を言っていることも、本当はわかっている。
ジャーファルは言いたくないのだ。まだ不確定な未来は、決して明るいものじゃなくて。
でも、だからこそ、安心が欲しい。ジャーファルの言葉一つで、こんな悪夢に怯える必要はなくなる。気休めでもいいから、彼の言葉を求める自分がいる。
大丈夫。必ず戻ってくるよ。
にっこりと笑顔で、そう言ってくれればいい。それだけで私は、どれだけ救われるだろう。
でもジャーファルは、きっとその先を見据えている。そう言って、私を安心させた、その後を。泣き叫ぶ、私の姿を。
服を握る手に力がこもって、プルプルと震えた。それに気づいたジャーファルが、カーラの耳に口を寄せる。
「ごめん」
そのたった三文字の言葉に、ジャーファルの気持ちがギュッと詰まっている。
頭を横に振って、体を離す。鼻と鼻が掠れるほど近くで、彼の目を見返した。
「私ね、泣かなかったよ」
あの夢を思い出すように、目を細める。
「ちゃんと、お疲れ様でしたって、笑顔で言えたから」
浮かんできた情景を、静かに他のものとすり替える。
「おかえりなさいって、ちゃんと、泣かないで言えたから。きちんと、笑顔で」
それは、小さな小さな幸せ。夫の帰宅を迎える妻の姿。すり替えたその夢は、幼い頃見た両親の姿だった。
「だからね、大丈夫だよ。いつでも待ってるから」
私は今、うまく笑えているだろうか。
にっこりと胸を張るカーラを、ジャーファルは強く抱きしめた。
「待ってて、くれるんですか」
震える声で問いかけるその言葉に、なんでもないような声が答えを返す。
「当たり前でしょ。それが私の役目だもん」
「カーラの…役目?」
「夫の帰りを笑顔で迎えるのは、妻の役目だよ」
いついかなるときでも、最高の笑顔でお迎えしなさい。
今は亡き母の言葉と共に、幸せそうな両親の姿が思い起こされる。
「…カーラ、ありがとう」
「うん」
「本当に、君は出来た妻だよ」
「だからね、」
すんと花を鳴らして、ジャーファルの肩に頬を付ける。ゆっくりと背中に手を回して、すがるように抱きしめた。
「おかえりなさいって、言わせてね」
大好きだという気持ちが溢れて、離れたくないという気持ちで溺れそうで、それでもジャーファルの前では、固くなな気持ちが勝ってしまう。
「ちゃんと笑顔で、迎えるから」
心配しないでと、くぐもった声は果たして彼に届いたのか。
「…うん。ありがとう」
「お礼を言われるほどのものじゃないよ」
「でも、ありがとう」
囁かれたその言葉が、ジワジワと悪夢を侵食した。
泣き叫ぶ私。動かないジャーファル。
そんな夢など、彼方に放り捨てて。
一方的なその約束が、当たり前になるその時まで。
全てを嘘で塗固めよう。
涙などは、流さない。
「カーラ、愛してる」
その言葉があれば、きっとずっと笑っていられる。