重たい瞼を開ける。瞼だけじゃない。体全体がすごく重くて怠かった。寒気がするくせに妙に熱くって、変な感覚。
ぼんやりとしていたら、いきなり鈍い音を立てて、視界の端っこになにかが落ちてきた。
血まみれの塊は、ブルブルと震えながら手を伸ばす。
「ジュ、ダ……」
腹の底から絞り上げたような、苦しそうな声。そして、力尽きたようにドンと落ちた。それきり、その塊は動かない。
「………」
何がおこっているのか、全く分からなかった。血塗れの塊は、父さんの服を着ていた。あれは、間違えなく父さんだった。
「……っ」
なにかを叫ぼうとしたが、喉に張り付いたように声は出てこない。
助けて欲しいという思いで視線を巡らせると、母さんがこちらに背を向けて、倒れているのがみえた。父さんのように血塗れではない。でも、床には、倒れ込む母さんを縁取るかのように、すごい量の真っ黒な液体が。
あれは、血だ。
そう認識した途端、体が震えた。
恐怖か、寒さか、悲しみか。言いようもない感情に心は支配され、投げ出された己の四肢に力を込める。だが、指先でさえ、もう動かなかった。
父さん、母さん、助けて。寒い。怖い。誰が…
誰か、たすけて……
「ビェー!ビェー!」
急に覚醒したように、聴覚がその声を捉えた。子供の鳴き声だ。聞き覚えがあった。
弟の、ジュダルだ。
怯えたように泣き叫ぶ、その声で恐怖も何もかも消え失せた。
残ったのは、姉だという意識のみ。
『お前はもう姉さんになるんだから、しっかりしてくれよ?』
『この子には、あなたしかいないのよ』
そうだ。あの子にはもう、私しかいない。私が、しっかりしなくては。
「ジュ、ダ…ル」
仮面をつけた男が驚いたように振り返ったが、カーラはそのことに、気づかなかった。
◆◇◆
すべて片付いたと思っていたら、まだいたか。
耳を澄ませば聞こえないような、そんな小さな声。
少女を見遣って、息をつく。
放っておけばいづれ事切れるだろう。
「いくぞ」
大声で喚く赤子を抱いて部下にそう告げ、少女に背を向けた、その時。
懐かしい言葉が、耳を掠めた。
驚いて動きを止める。ゆっくりと振り向くと、奇妙なことに、少女は笑顔を浮かべていた。
「ジュダル……わた、し…の……おと、と…」
安心させるように、穏やかに。
焦点の合わない瞳が宙をさ迷う。
「だい、じょ…ぶ……」
さ迷っていたその瞳が、男に抱えられている赤子を捉えて、にっこりと微笑んだ。
「だいすき…」
大好きで大切な者に、笑っていて欲しいと願うような、そんな顔。
その笑顔を、俺は知っている。
◇◆◇
堕転のマギ、ジュダル。
彼のルフは真っ黒にそまり、また彼の周りのルフも一様に真っ黒だ。
「何だお前、また来たのか」
ピイピイと、真っ黒なルフの中を縫って、白いルフが一つ飛んでくる。それを、ジュダルはつまんなそうに眺めた。
「白いのチラついてウザったいんだけど。オレが黒くしてやろうか?」
にたりと笑ったジュダル。だが白いルフは、まるでじゃれるかのようにジュダルに寄ってきた。
「お前、バカだなぁ。オレのそばにくると黒くなるんだぜ?それとも、黒くなりてぇの?」
手を伸ばして捕まえようとするが、白ルフはするりと逃げる。いつものやり取りだ。
「神官殿、神官殿ー!」
己を探す声が聞こえるが、そんなものに応じる気はさらさらない。持っていた桃にガブリと食いつき、空を仰ぐ。
「……俺には、ジュダルって名前があんだけど」
ポツリとジュダルが言葉を零すと、白ルフはまたどこかに飛んでいった。
◆◇◆
…ねえ、ジュダル。
あなたは一人じゃないよ。私がいるよ。
傍に居られる時間は僅かだけど。話をすることもできないけど。
でも、いつも想ってる。
大好きだよ、ジュダル。私の可愛い弟。
いつかあなたの寿命がきたら、一緒に父さんと母さんのところに行こうか。
その時まで、待ってるから。
あなたが、愛されていたとわかるその時まで、いつまでも待ってるから。