ゼットさん

ふらりと立ち寄った店の陳列棚に懐かしい物を見つけ、思わず手を伸ばすと自分のものより一回り小さい手とぶつかった。とっさに謝罪をして手を引っ込めたが、当の俺は目をぱちくりと瞬かせているし、相手も目をぱちくりと瞬かせて俺の顔を見ている。全く同じものを手に取ろうとした挙げ句に、手が触れるまで気づかないとは、とやや恥じ入り頬を掻いた。ただ懐かしんで手に取ろうとしただけなので、購入しようとかそういった意図をはなかったのだから、ここは彼女に譲ろうと思って咄嗟に口を開くと、今度はお互いの「あの、」という声が重なる。よもやよもやだ!

「申し訳ない、ただ、この木彫りの猫が、昔実家に置いてあった父からの土産物にそっくりだったものだからそれで手に取ろうとしたんだ!君は買うつもりだったのだろうか、どうぞ、手にとってください」
「ああいえ、私も……これどこかで見たことあるなあと思っていたんです。それに、私も父のお土産物で……」
「なんと!」

 まったく似たような境遇に二人して目を丸める。彼女が木彫りの猫を手に取る気配がないので、俺が失礼してそれを手に取り天地をひっくり返す。父の土産物には、猫の腹に地名が刻んであったのでこれもそうなのではないかと思ったが、あいにくなにも刻んではなく。ただ木目が綺麗に波を打っている。記憶違いか?と思えど、穏やかな雰囲気をまとわせて香箱座りをする猫の様相は全く記憶の通りで、はてさて、一体どういうことか、と思えども疑問は些細なものでしかなく、素直に天地を改めた。せっかくなので、彼女も見るだろうかと差し出すと、受け取る手指がほのかに触れる。彼女はそれを気にするそぶりもなく、俺と同じようにひっくり返しては「何も書いてないかあ」と小さく呟いてそれを元の位置に戻した。
 不思議なものだ、既視感のある木彫りの猫。それから、なぜか、俺はこのひとを見たことがあるような気がして、木彫りの猫と女性、ふたつ重なった既視感に目が回りそうである。しかし、まったく俺と彼女は今この時が出会ったばかりで、名前も思い浮かばないし、人となりなどまったく見当もつかないのである。

「もし、いまお時間があるのなら、少し話しませんか。俺はこれから駅に向かうところなのですが」
「ええ私も、これから駅に」
「なら駅までぜひ、道すがら話せたら、」
「そうですね、不思議な縁ですもの」

 彼女は控えめに微笑んでみせる。淑女然たる姿は、白のワンピースが似合いそうだ、と漠然と考えて、それから今の彼女はごく普通の会社員らしいカジュアルなスーツだったから、なぜ急にワンピースなどと思ったのだろう?と、今日の俺は不思議なことばかり過るのである。体力には自信があったが、根を詰めすぎたのか。疲労が溜まっている可能性もあるので、今日はじっくりと湯船に浸り疲れを癒やさなくてはなるまい、と心の内でそっとひとりごちた。
 なんてことはない、平日の夕方、誰しもが終業し駅へと向かう人波のなかにそっと二人で混じる。人々は忙しなく歩くが、大通りの歩道は舗装されており広く、二人でそっと肩を縮こまらせるようにして隅を緩やかに歩む。その足取りはこころなしか軽い。不思議だった、まるでこうして会話するのを心待ちにしていたような感情になるのである。俺というやつは、今日はとことんおかしい。陽が傾き道路に差す西日、伸びる影。人々の群れは影が溶け合って久しく、駅まで皆向かうものだからまるで何かの宗教のようだが、ただ単に皆家路を急いでいるだけである。その一群のはみ出しものとなった俺と彼女は、ことのほか、会話が弾んでいた。

「父が持っていた猫の木彫りは……底にたしか、温泉地の名が入っていたんだが…あれにはなかったな。あなたの覚えているものもそうなのですか?」
「ええ、そうなんです。私の父が持っていたのは……、ええと、確か草津温泉の」
「草津!はは、猫と関係がないですね。だが、俺の父もたしか……ううん、草津だったような」
「本当ですか?不思議ですね……特別、猫が有名なわけでもないのに」

 ただのリサイクルショップだ。特別、何かを目的として入ったわけではなく、時折面白い商品が並んでいるから、気が向いたら立ち寄るだけの古風な平屋。何年から建っているのやら、店の主人も穏やかな顔つきの老婆である。時折うまく会話が続かないことが難点であるが、商品の会計時に金額の間違いは絶対起こさないことで近所では有名だった。そろばんで計算して、古風なレジスターが大きな音を立ててドロアを開く。レシートは薄紫の小さな紙切れ。その雰囲気が好きだったというのもある。聞けば、彼女も同じく目的があったわけではないらしい。たまに、思いついたらふらりと立ち寄って、目に留まったものを買うこともあるのだという。少し似ているな、と思って、なんだか面白かった。
 会話が弾めば弾むだけ、帰路は残りわずか、もう目の前まで駅舎が迫っている。歩調をいかに落としても、距離は決して伸びなかった。これなら遠回りでもすればよかったか、などと、見え透いた延命措置などに後悔する俺を、彼女は振り返る。

「もう駅ですね、」
「ああ、着いてしまいました。惜しいものだ」

 お世辞と思っているのか、彼女は「もう、」などと言って笑い飛ばしている。いや、本気なのだ、俺は、あなたとまだ別れたくないと思ってしまっている。それはなぜだろうか、会話が弾んだくらいで女性を引き止めたくなるほど軟派ではなく、また、初対面の人とこうも緩やかに、穏やかに過ごすことなど早々ない己であるから、ますます今日の俺はおかしくてしょうがない。どうする、その腕を掴むのか。それとも、大人しく見送るのか。ああ、どうしよう。
 ぐるぐると悩む俺を見て、彼女はまだ楽しそうに笑っている。ええいままよ、と決心のまま連絡先の交換を申し出ようとした俺よりもさきに、楽しそうな彼女は、俺の瞳を見つめたまま唇を開くのである。

「引き止めてくれないの?」
「────…………引き止めてもいいのか?」
「もちろん」

 風に揺れる横髪を手のひらで押さえる。揺れるうっすら茶色がかった髪は、柔らかく、ふんわりとパーマをかけられているのだろうか。彼女にとても似合っていた。結い上げた髪も、降ろされて肩にかかる髪も、楽しそうに走る彼女がなびかせるその絹糸はうつくしい。共に大地を駆けた。山肌の傾斜をものともせずぴょんと跳ねた彼女に合わせて翻る隊服の裾。お転婆が過ぎるぞ、と笑う俺に、彼女はこれくらい、と可笑しそうに声を弾ませてしなやかに舞った。さながら大きな岩に打ち付ける大波のように雄大で、しかし繊細なしぶき。彼女の水の呼吸は、ひどく透き通った繊細な剣技であった。きれいだなあ、俺もあのように呼吸をできたら!と、彼女と居るときは些末な問題など頭の彼方にすっ飛ばして、大口を開けて笑えたのである。
 だが、彼女はすぐに死んだ。死体も残らなかった。鬼に食われたからである。還ってきたのは、体温のない冷えた鍔ひとつ。ああ、おかえり、と小さく呟いた俺の涙が、地面に滴った。

「ああ、そうか……………」

 心得たように、すとんと腑に落ちる。伸ばした俺の手を、彼女はただ静かに受け入れる。頬に触れ、顎の線をなぞり、親指が肉厚な唇をなぞる。好き勝手触れる手に怒るでもなく、君はただ、楽しそうに笑っている。さながら、いたずらが成功した子供のようだ。

「いつ、気づいた」
「お店に入ってから。まあ、手が触れたのは……偶然だけど」

 そっと伺うように触れる俺の手は、以前ほどは胼胝も肉刺もない。剣道は嗜んでいるが、重たい真剣を振り回すのと竹刀を振り回すのが同列なはずはなく、また、彼女の手はまるで白魚が如く細く、真剣を操る手指ではなかった。それが、どれほど、嬉しいか。ああ、君は今世では幸せになっているのだろうか。この感情をなんと形容すればいいのか。彼女の存在をただ確かめていたはずの俺は、途端に現実に引き返されて滂沱の涙が両の瞳からぼたぼたと溢れるのである。その水滴は、頬をたどり顎先から地面へと滴って


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