肩幅さん

ふらりと立ち寄った店の陳列棚に懐かしい物を見つけ、思わず手を伸ばすと自分のものより一回り大きな手とぶつかった。
「おっと、これは失礼しました」
 すぐさま手を引っこめたのは、黒い詰襟服を纏った溌剌たる雰囲気の偉丈夫である。秋の紅葉を思わせるような髪色の男性は私に場所を譲るように一歩下がると、小気味良い笑みを向けてきた。
「素敵な花簪ですね」
 かれが穏やかなくちょで語りかけてくるのとは裏腹に、私は蛇に睨まれた蛙のような心地を味わっていた。どうか、どうかと神に縋る思いで俯き、ようやく頭を動かして頷く。
「気になりますか?」
 無数のカンテラが灯りをちらつかせる、薄汚れた古道具屋。微かに黴のにおいが漂う店内の最も奥まった所に、その簪はひっそりと並べられていた。
「この花、目を引きますね」
 何と云うのでしょう。彼がそう言いながら視線を向けてくるので、私はやむを得ず口を開く。
「ちょ……提灯百合と云うのです」
「ほう。初めて聞く名です」
「遠い遠い外つ国の花だそうで……」
「お詳しいのですね」
 男性が向けてくる笑みは、至極柔らかなものだ。だが私はどうにも心が騒いで、踵を返して店を出てしまう。
 凪いだように穏やかな漆黒の空。家々の軒先に吊るされた絹行灯の光を避けるように、私は闇へと足を向ける。
 だが民衆が見向きもしない路地裏の薄暗がりに入り込もうとした所で、不意に手首を掴まれた。先程の彼だ。私はすぐさま混乱して、なりふり構わず叫んだ。
「嫌! お願い、堪忍して!」
「おっと、落ち着いて下さい。お嬢さん」
「お願い、お願いします。私、私は……っ!」
「よくご覧なさい。ほら、手を出して」
 べそをかきながら騒ぐ私の手のひらに、彼が恭しく差し出したもの。それを目にして、私は息が止まりそうになった。
「お忘れ物ですよ」
「こ……っ、これは」
「貴女の物ですよね。この花簪は」
 私の手のひらの上には、件の花簪があった。赤い縞の入った瑪瑙の花弁は、その道の職人が意匠を凝らして作ったものだ。瑪瑙は今でこそありふれているが、当時はかなり高級な石として珍重されていた。
 父が、愛すべき我が父が、私の輿入れを祝って贈ってくれたのだ。それが流れ流れて、悠久の時を経てようやくあの古道具屋で巡り合ったのである。
「……っ、どうして、これを」
「宜しければ、場所を変えましょうか」
 有象無象の目に付くのはよろしくない。様々な感情が入り乱れて泣き濡れる私に、彼は自身が羽織っていた外套をそっと掛けた。だが私の肩に触れる優しげな手付きとは裏腹に、四方へ視線を馳せるその眼差しは鷹のように鋭く、ぎらついている。
 私は今更ながら、まもなく訪れるであろう自身の処遇について不穏な想像をしていた。私と彼は、敵対する立場にある。彼は至極紳士的に振る舞っているが、私は彼がその腰にぶら下げているものを一振りするだけでこの世から儚く消え去ってしまう運命にあった。
 私の命は、全て彼の胸三寸に委ねられている。そう思うと、どうしても震えが止まらなかった。彼はそんな私の様子にすぐ気が付いた。肩を支えて抱き起こし、ぐっと身を寄せてくる。
「……俺の事が怖いですか。震えておいでだ」
「あ……あの」
「大丈夫。悪いようには致しません。さあ、こちらへ」
 私は半ば彼に引き摺られるようにして歩いていく。彼はこの街の造りに精通しているようで、あれだけ騒がしかった筈の喧騒はすぐに遠のき、私達は野良犬すら歩いていない薄ら寂しい小径を歩いていた。
「貴女が鬼となったのは……遥か戦国の世の時分と伺っておりま、おっと!」
 度重なる地震で歪んだ石畳に足を取られ、何度も突っかかる。その度に彼は私を抱くようにしてその身体を支えた。
「……そうです。輿入れの……丁度前日でした」
 その日も今夜のように穏やかな夜だった。自分が起こした惨劇も、今では断片的な記憶しか残っていない。あんなに多くの人間を屠っておきながら、私は彼らの顔を誰一人思い出せない。
「ずっと……地獄の中をもがいているようで、苦しかった。でも、私は……っ、私は無様にもここまで生きながらえてしまった」
「しかし貴女は、その時以来人を襲っていないと聞く。何を喰らって生きているのです」
「……」
 つい明治の世まで、この国は争いが絶えなかった。戦場へ赴けば、既に生を喪った身体は山のようにあった。
「成程、生きている人間を襲うよりはと。そういう事ですね」
「血を……啜っておりました。せめてご遺体にそれ以上傷を付けぬようにと」
「成程! 理解した!」
 彼は立ち止まる。その勇猛な笑みをたたえた横顔は、まっすぐに前を見据えている。
「お嬢さん。時に、貴女は鬼舞辻の呪いから外れたと聞くがそれは誠か」
「! ええそうです、どこでそれを」
「貴女と同じく、奴の呪いを外れた鬼がいるのです。その者と産屋敷は通じているのです」
「えっ……」
「名前さん、貴女がここまで生き延びたのは無様でも何でもない。我々にとっては幸運だ」
「え……?」
「申し遅れました。私は炎柱、煉獄杏寿郎と申します。本日は折り入ってご相談に参った次第です」
 彼、煉獄さんはそう言いながら私に向き直ると跪き、私の手を恭しく取る。そして強気な意志の宿った眼差しで私を見上げながら言うのだ。
 我々と一緒にかの鬼を滅ぼしませんか、と。

 それが、私と彼の出会いだった。


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