鈴なりの柿を見ると思い出す事がある。
まだ我が家が家族としての形をきちんと保っていたあの頃。
清潔な布団に横たわった母が語る、父との思い出話だ。


「能を見に行ったのです。あなたたちのお父上と」

珍しく隊服以外の着物に身を包んだ夫に誘われたのは、『羽衣』という演目だった。漁師である白龍と、その白龍に美しい羽衣を奪われた天女の話。母の一等好きな演目である。
神社の境内に作られた木造の能楽堂。その舞台をぐるりと囲むように置かれた篝火が、白々とした小面を妖艶に照らしていた。笛と鼓の音に合わせてゆったりと舞う天女は、まさに“この世のものではない人”に見えたという。

「その天女が、頭に飾りを付けているのです。金色の髪飾りが、こう幾つも垂れ下がって。――まるでそこの柿の木のようでした」

その言葉に、杏寿郎は母が指差す方向に目をやった。胸を悪くした母のため、部屋中の戸という戸は季節が秋になっても開け放たれたままだ。
庭の端に植えられた枝垂れ柿が、その細枝を重そうに風に揺らしている。
目に鮮やかな橙色の果実。母の言う天女の髪飾りを杏寿郎は懸命に思い浮かべたが、見たこともない装飾品と目の前の柿が重なることはなかった。

「っ母上は、柿はお好きですか?!」

金色の髪飾りの代わりに思いついたのは、もしあの身を今すぐ取ってきたら母は喜んでくれるだろうか、という事だった。初物を食べると寿命が伸びると聞く。母にはいつまでも元気でいて欲しかった。

そんな息子の優しさに母は目を細めて微笑んだが、「好きですが、あの柿はそのままでは食べられないんですよ」と杏寿郎の頬に触れた。すり、と愛おしそうにその丸みを撫で、喉の奥で小さく咳をする。

なぜ食べられないのか。その理由を知ったのは、母が亡くなって随分経ってからの事だった。





すっかり斜陽の家となった煉獄家が再び灯りを取り戻したのは、なんと言っても長男嫁の存在が大きい。任務で大怪我を負った杏寿郎を献身的に支えたなまえは、酒浸りの父を更生させ、困り顔の多かった次男をも明るく変えた。

食事の品数が増え、どの部屋も隅々まで掃除が行き届いている。玄関や床の間には季節の草花が活けられ、台所からはいつも出汁のいい香りがした。各々暗いものを抱えた男たちは、少しずつその胸にあたたかいものを満たしていった。


乾いた風がさらさらとススキの穂を揺らす季節、なまえは杏寿郎を誘って庭に出ていた。干し柿を作ると張り切る妻に「あの柿は食べられないのだ」と杏寿郎は言ったが、なまえは「この世に食べられない柿などありませんよ」と笑顔で言い切った。
届くところは手で、届かないところは竹箒を使って、鈴なりに実った柿をせっせせっせともいでいく。皮を剥いて紐で縛り、ずらりと軒先に吊るした。

「この柿は渋柿です。杏寿郎さんの言う通り、そのままではとても食べられませんが、干せばとっても美味しくなります」
「渋味が残るようなことはないのか?」

そう橙色の暖簾を見上げた夫に、妻は「はい」と頷く。

「渋柿に限らず、未熟な果物は渋みのあるものが多いんだそうですよ。果物屋さんの奥さんが教えてくださいました」
「そうなのか。母上が「食べられない」と言っていたから、俺はてっきり毒でもあるのかと」

杏寿郎の言葉に、なまえは後片付けをしながらクスクスと笑った。食いしん坊な夫が手をつけないなんてと不思議に思っていたが、母との思い出が理由だったのか。

「そのまま放っておいても甘くなるそうですが、それだと果肉がどろどろになってしまうんだそうです。やはり人が時間と手間をかけたほうが渋柿は甘くなるそうですよ」
「そうか。出来上がりが楽しみだな」
「和菓子の世界では、“甘さは干し柿をもって最上とする”という考え方もあるとか」
「和菓子…、そんなに甘く……」

妻の話を聞きながら、杏寿郎は久しぶりに鼻の奥がつんと痛むのを感じていた。乾燥した空気のせいではない。また一つ、心の中の固いしこりが解けたからだ。

幼少期、特に母を無くしてからは、生活が一変した。家族のあたたかみを感じられる事は少なくなり、それでも前だけを見て進むしかなかった。

ただ、その経験がなければ今の杏寿郎は無い。思い出しても眉間に皺を寄せてしまうような渋い時分があったからこそ、ここまで強くなれた。第一線こそ退く事になったが、今は隣に愛する妻がいて、家族は元の形を取り戻しつつある。
それこそ、手間と時間をかけて……――。

すん、と一度だけ鼻を鳴らして、杏寿郎は今の幸せを噛み締める。秋のひんやりとした空気と共に、瑞々しい柿の甘やかな香りが胸を満たした。
湿っぽい気分を吹き飛ばすように、杏寿郎は声を張り上げる。

「これはどのくらいで食べられるようになるんだ?!」
「だいたい二三週間くらいでしょうか?表面が乾いたらよく揉んで柔らかくするといいらしいですよ」
「そうか!その時も是非俺に手伝わせてくれ!」
「勿論です!」

妻の肩を抱きながら、杏寿郎は再び軒先の干し柿を見上げる。この干し柿を墓前に供えたら、天に昇った母はきっと喜ぶ事だろう。
そして、杏寿郎は考える。
今度は自分が妻を誘って『羽衣』を見に行くのだ、と。

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