はじめて男の人とお付き合いをしたのは、大学一年の春。相手は同じボランティアサークルに所属する、二つ歳上の先輩だった。

新入生歓迎会と称されたその飲み会で、私たちは出会った。幹事である上級生から当たり前のように渡されたビールに途方に暮れていた私に「大丈夫?」と声を掛けてくれた人。それが、そこから一年と少しお付き合いをすることになる彼だった。

サラサラとした前髪の下、のんびりと優しげな瞳がこちらを見つめている。「ホント、アイツらには困っちゃうよね」と騒ぐ仲間を呆れたように見やると、その人は「すいませーん」と手を挙げて近くの店員を呼んだ。

「ウーロン茶ふたっつ。あ、ジュースの方が良かったかな」
「いえ、お茶で大丈夫です」
「そっか、なら良かった。はい、どーぞ」

そう言ってウーロン茶を差し出してくれた彼が、どれほど大人っぽく見えたことか。聞けば彼自身もほとんど酒は飲まず、“新入生に酔っ払いの相手をさせるのが可哀想だから”というだけの理由でここに来たのだと言う。

「普段、飲み会にはあんまり来ないんだ。でも、君が来てくれるなら俺も来ようかな」

彼の言葉に曖昧な笑顔で答えながら、私は汗をかいたグラスに口をつける。こんなに面と向かって口説かれるのは初めてで胸がどきどきした。
困っている人を放っておけない、おまけに下戸同士という二人。サークル活動中も、その後必ず催される飲み会でも、一緒に過ごす時間が増えていくのは自然な事で。
私たちが交際を始めるのに、それほど時間は掛からなかった。
...ーどんな時でも優しい彼のことが、本当に大好きだったのに。



狭い玄関に散らばった二人分の靴を、私は無表情のまま見つめる。一足は彼のスニーカー、もう一足は見たこともないネオンイエローのハイヒールだった。
嫌だ、と思った。現実を受け入れたくなくて、私は必死に別の可能性を探す。

彼のお母さんが来ているのかもしれない。そんな話は聞いたことがないけれど、実はお姉さんだか妹さんがいて、たまたま私と同じようにサプライズで遊びに来たのかもしれない。
これは彼の家族の靴。そう、きっとそうだ。

そこまで考えた所で、私の希望は呆気なく砕け散る事になった。
奥の部屋から漏れ聞こえる嬌声。ぎっ、ぎっ、とリズミカルに軋むベッドの音が、嫌でも私を現実世界に引き戻す。
そして聞こえてくる、彼の優しい声。

「いいの?彼女がいるのに他の女として」
「そっちから言い出したんだろ。俺が困ってるヤツを放っておけないって知ってるくせに」
「サイッテー」

くすくすと笑う女の声は、すぐにまた細く高い声へと変わる。知らなかった、知りたくなかった彼の一面に、鳩尾のあたりがぐわりと大きく脈打った。あっ、と思った時には、その日に食べた物すべてをその場に吐き出してしまう。
吐瀉物まみれになったスニーカーとハイヒール。ぴたり、止まった声と音に、私は慌てて玄関を飛び出した。

初夏の生ぬるい風を頬に感じながら、死に物狂いでアパートの階段を駆け降りる。
ハイヒールを見たのだろうか、女の悲鳴が聞こえた気がした。






“彼女”から電話が掛かってきたのは、その日の仕事があらかた片付いた頃。そろそろ帰り支度でもするかと、実弥が大きく伸びをした時だった。
書類鞄に入れていた携帯が振動し、ピカピカとライトが点滅する。こんな時間に誰だと舌打ちをしながら画面を覗き込めば、そこに表示されている名前を見て目を剥いた。
数年前、実弥がまだ大学生だった頃に家庭教師のバイトで勉強を教えていた高校生だ。今はもう大学生であろう彼女の顔を思い出しながら通話ボタンを押す。

「...もしもしィ」
『あっ、さねみせんせいですかぁ?』
「あァ、久しぶり。どしたァ?急に」
『ふふ...、お久しぶりです』

鼓膜を揺らす懐かしい声に、実弥は小さな違和感を覚える。礼儀正しかった彼女からは考えられない、何処かふわふわとした口調だった。以前の彼女ならまず「遅い時間にすみません。今お電話大丈夫ですか?」とこちらの状況を確認したはずだ。「...テメェ、もしかして酔ってんのか?」薄い眉を顰めてそう問えば、相手は『そぉなんですよぉ』と甘えた声で言う。

『「二十歳になったら酒でも飲みに行こう」って、先生むかし私に言ってくれましたよね?どうですか?今日これから』
「はァ?急に電話してきたと思ったら何ワケわかんねェ事言ってやがる。っつーか今何時だと思ってんだ、アァ?」
『え?何時ですか?』
「もう十時近ェぞ。何処に居るんだか知らねェが行くだけで夜が明けらァ。さっさと帰れ」
『えぇ、そんな事言わずに来てくださいよぉ』
「どうせ帰りの足が欲しいだけだろ。そういう事は彼氏に頼めェ」

そうボヤいた瞬間、先ほどまであれほどお喋りだった彼女がふと無言になった。「オイ、聞いてんのか?」実弥の言葉を遮って、元教え子は『彼氏なんていません』と言う。

『というか、先ほど別れました。浮気されたんです、私』
「...あァ?」
『だから寂しいんです。このままだと自暴自棄になって、変な人について行っちゃうかもしれません』
「なっ...!テメェ、何を」
『だから迎えに来て』

さっきまでのふわふわとした口調とは違い、今度ははっきりとした口調だった。彼女は実弥の職場から五つ離れた駅のバーを指定すると、『じゃあ、気をつけて来てくださいね』と言って電話を切ってしまう。

「−あンのクソガキがァ...!」

握ったままの携帯がみしりと不穏な音を立てる。仕方なく鞄と上着を掴み、実弥は電気の消えた学校を後にした。
駅へと進む足取りは心做しかいつもより早くなっていた。



当時大学生だった実弥にとって、彼女−みょうじなまえは“みょうじさんちの娘さん”、いわゆるご近所さんでしかなかった。道ですれ違っても何となく頭を下げ合う程度で、会話という会話をした事も無い。そんな二人が同じ机を囲むようになったのは、偏に二人の母親の希望だった。

−ウチの子、大学を卒業したら数学の先生を目指しているらしいんです。
−あら、いいじゃないですか。実弥くん、しっかり者ですもんねぇ。面倒見も良いしピッタリだと思いますよ!
−ありがとうございます。でも、母親の私が言うのもなんですけど、実弥ってちょっと誤解されやすい所があるでしょう?生徒さん...、特に女の子とか怖がらせちゃわないかしら...。
−そんなに心配なら、うちのなまえで練習するっていうのはどうですか?実弥くんは人に教える練習になるし、なまえは勉強を見てもらえるしでwinーwinだと思うんですけど!
−まぁ、それはいいですね!早速実弥に話してみます!

こうして話を持ち帰った母親達は、それぞれの子に嬉々として事の顛末を話した。最初は難色を示していた二人も、実際に勉強を始めると次第に打ち解けていった。

実弥は言葉尻が柔らかくなり、なまえはテストの成績が二十点も伸びた。学期末テストの順位が学年の上位十人にくい込んだ時は、二人して抱き合うように喜びを分かちあった。

「実弥先生のおかげです!ありがとうございます!」
「お前自身の頑張りだ。ご褒美に今度なんか甘い物でも奢ってやらァ」
「やったー!先生大好き!」

なまえからすれば、その一言は家族や友人に「大好き」と言うのと同じ感覚だったのかもしれない。女子高生なんてそんなものだ。分かってはいる。分かってはいるけれども、実弥は内心困惑した。
その時だろう。実弥がなまえへの想いを自覚し、同時に仕舞い込んだのは。



「あっ、さねみせんせーい!」

カウンター席でひらひらと手を振る元教え子の姿に、実弥は露骨に嫌な顔をした。色も形も様々な酒瓶が並んだ棚に、BOSEのスピーカーから流れるピアノジャズ。こんな洒落た店を誰が彼女に教えたのだろう。そう思うと胸がムカムカする。

「待ってたんですよー。なに飲まれますか?ビール?それともハイボールとか?」

そしてそんな事など露知らず、呑気に酒を勧めてくるなまえにも腹が立つ。変な男に引っかからなかった事にはホッとしつつ、目も合わせぬまま財布を取り出した。
「ご迷惑をお掛けしました。いくらですか?」とカウンターの向こうに問えば、バーテンダーが答えるより前になまえが口を開く。

「えっ?まさかもう帰るなんて言いませんよね?」
「帰るに決まってンだろーが。迎えに来いっつったのはどこのどいつだ、アァ?」
「まだ帰りませんよ。先生も一緒に飲むんですから」

そう言って、なまえはぐいぐいと実弥の腕を引っ張る。どうにか自分の隣に男を座らせようと、まるで保育園児のような言動だった。

「ほら、座って座って」
「座らねェよ。ってかお前が立てェ」
「いやです!実弥先生と飲むんです!」
「だから飲まねェって言ってんだろ!」
「だって、先生が「二十歳になったら」って言ったのに!」
「あぁ言ったァ!」

なまえの声が大きくなるにつれ、実弥の声も大きくなる。

「だが、こんな時間に恩師を呼び出すのが二十歳の大人のする事か?ただ歳食っただけのヤツが生意気言ってんじゃねェ!」

ピシャリと言ってやれば、なまえの丸い瞳が傷付いたように実弥を見る。腕を掴んでいた指先がそっと離れていった。

「......ごめんなさい」

小さく呟かれた言葉に、実弥はふと彼女が失恋したてであった事を思い出す。「...イヤ、俺も言い過ぎた。悪ィ」とすぐに謝罪を返したのも、彼女の学生時代を知っていたからだ。本職の教師として働く今もなお、実弥にとってなまえ以上に優秀な生徒はいない。

「......一杯だけだからなァ」

散々悩んだ末スツールに腰掛ければ、なまえはぱっと顔を上げる。その顔が数年前の笑顔と重なって、実弥は思わず目を逸らした。
−生徒に手を出すわけにはいかない。
そう思って仕舞い込んだはずの想いが、大人になった彼女を前にして再び顔を出し始める。



バランタインのソーダ割りを飲みながら、実弥は黙ってなまえの話を聞いた。寮の壁が薄くて困るという話。心理学の教授がテレビに出ていたという話。そして、サークルで出会った歳上の男の話。

「「困ってる人を放っておけない」んですって。なんじゃそりゃー!って感じですよね」
「...あぁ」
「さっきからもう、ずーっと携帯鳴りっぱなしで。「ごめん」とか「許して」とか、馬鹿みたいなLINEもいっぱい届いてて。なんで謝るような事わざわざするのかなぁって」
「あぁ、そうだなァ」
「......困ってる人を放っておけないっていうのは、先生も同じなのにね」

彼女の言葉に、実弥は思わず口内の酒を吹き出しそうになる。「そんなクソ野郎と一緒にすんなァ!!」と叫ぶと、向かいでグラスを拭いていたバーテンダーと目が合った。誤魔化すように咳払いをすれば、その様子を見ていたなまえがクスクスと笑う。

「...ねぇ、実弥先生」
「...ンだよ」
「私、今日帰りたくないです」

どくん、と音を立てて実弥の心臓が跳ねる。見れば、酒と涙で目元を赤く染めた大人の女性が、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。
つ、と彼女の指先がグラスの汗を拭う。そんなつもりは無いのだろうが、長細いグラスを弄ぶなまえの指先は実弥の目には官能的に映った。
馬鹿な男に裏切られ、その上さらに自分を傷つけようとする彼女にどんな言葉を返すべきか。頭では分かっているのに心が邪魔をする。

「って言ったらどうします?」ぱっと両手を広げたなまえに、実弥はがくりと肩を落とした。所詮酔っ払いの戯言、少しでもときめいた自分が馬鹿だったと己の愚かさを呪いつつ、実弥はそのときめきを捨てきれない。
ヤケになってグラスの中身を一気に呷れば、底に溜まっていたアルコールが喉を焼く。頭の中で何かが弾け飛んだ。

「−いいぜェ」
「えっ?」
「帰りたくないんだろ?だったらウチに来りゃぁいい。狭いが寝れねェこたァ無ェだろ」
「ウチって...玄弥くんとかのいるご実家ですか?」
「ンな訳あるかァ。俺のアパートに決まってんだろうが」

そう言ってスツールから腰を上げれば、なまえはぽかんと口を開けて実弥を見る。意味を理解するのに時間が掛かったのだろう。「えっ、えっ?」と明らかに慌てていた。
そんななまえを尻目に、実弥はさっさと代金を支払う。「オラ、行くぞォ」と手を引けば、なまえは足を突っ張って反抗した。ネオンの光る道を殆ど引きずられるように歩きながら、なまえは男の背中に叫ぶ。

「い、行かない、行かないですっ!」
「遠慮すんな。そもそもテメェから言い出した事だろが」
「ですからすみませんでした!私やっぱり帰ります!」
「返さねェっつってんだろ」

グッと華奢な身体を引き寄せれば、実弥の肌蹴た胸元になまえの耳がくっつく。どく、どく、どく、と大きく脈打つ男の鼓動を聞いた途端、なまえは思わず抵抗をやめた。

「...−返さねェ」

実弥はもう一度呟いて、肩を抱く腕に力を込める。
たった一杯で酔ったのだろうか、色とりどりのネオンがやけに眩しく感じられた。


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