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いつからか、見上げる景色に縁取りが付くようになった。
早朝の澄み切った青、薄雲とオレンジが溶け合う夕焼け、空に縫い付けられた星が滲む夜。
絵画のようにすべてが銀枠に飾られて、手を伸ばしても容易に届くことのない遠い存在になってしまった。
それでも窓の外の季節は移り変わっていくし、ベッドに身体を横たえながらもなんとか命を繋いでいる自分がいる。
しかし。
秋が冬になるように、幸村の身体は少しずつ自由がきかなくなり、焦燥ばかりが募った。
裏切られた期待は失望に姿を変え、負の感情だけが心の奥底で渦巻いては大きくなる。
この苦しみが自分を蝕み続けたらどうなってしまうのだろうか。
幸村はもう見慣れてしまった天井を眺めながら、とりとめなくそれを思った。
「この部屋、」
真っ白な室内を見渡しながら幸村は静かに真田に語り掛ける。
「カレンダーがないんだ」
唐突な話題だと真田は思ったが、言われてみれば確かに目につく場所にカレンダーはなかった。
「なぜだかわかるかい?」
「……いや」
真田は遠慮がちに首を振る。
そう、と小さく頷いて幸村は薄く笑みを浮かべた。
「必要ないからだよ」
「……」
「俺の過ごす毎日は何も代わり映えなんてなくて、日毎に感じるのは絶望とか失望とかそんなのばかりだ。だったら、」
そんな日々をどのくらい過ごしたかなんて数えるだけ虚しいじゃないか。
だから日付のわかるものは目の前からなくしたのだと幸村は事もなげに言う。
それはとても残酷な衝動だと真田は思った。
藍色の瞳を瞬かせている目の前の人間が遠く感じる。
透明なガラス板が二人の間にあって、相手の姿は見えているのに触れようとしたならばそのガラスによって拒まれてしまうようだった。
「でも」
そう言い掛けながら少し肌寒かったのか、幸村は隙間の開いた窓を閉めるため腰を上げた。
真田はそれを手で制して代わりに閉めようとしたが、このくらい俺にさせてよと逆に止められてしまった。
「……こう考えるようになった。俺が日付を忘れていくように、みんなが、君が、俺を忘れてしまうんじゃないかって」
「考えすぎだ」
真田の眉間にわずかに皺が寄った。
この発言が軽はずみなものに過ぎないとしたら、そういう類の冗談が嫌いな真田はきっと腹を立てただろう。
しかし、幸村の表情は至って真剣なものであり、どうやら彼は本気でそう思っているらしかった。
それを一蹴することは、今の真田にはできない。
「学校生活をどうやって過ごしていたんだっけ。みんなと何を話していたんだろうか。どんな話題で盛り上がって、どんなことが嫌だったんだろう? ……俺はどんなテニスをしていた?」
さらさらと、止め処なく幸村の話は続く。
「その一つ一つの記憶がだんだんと抜け落ちてしまうことが何より怖い」
まるで掬い取った砂が両手の隙間からさらりと零れ落ちていくように。
もしもそのまま砂がずっと零れ続けてしまったら、手のひらには何が残るというのか。
一息にそこまで話し終えて、幸村は口を噤んだ。
それはあまりにも飾り気のない、彼の真に迫った言葉だった。
だからこそ、その苦しみや悲観的な態度になぜもっと早く気付いてやれなかったのか悔やまれる。
幸村はこんなにも孤独だったというのに。
容易にはかける言葉が見つからず、真田はしばらく押し黙った。
「どうして……どうして今まで何も言わなかったのか」
そうしてようやく出てきたのはとても陳腐なありふれた疑問だけで、気の利いた一言も言えないのかと真田は自分自身に失望した。
「話したところで何の解決にもならない」
きっぱりと幸村は言い切った。
「俺でなくとも、蓮二だって誰だって構わないはずだ。それなのに」
「不毛なんだよ、全部」
これ以上議論を続けたくないのか、幸村は真田の主張を遮ろうとする。
「そうやって理由付けて内に溜め込むことが正しいと言うのか?」
「ずい分だね。でも言ったからって何も変わらないじゃないか。挙げ句八つ当りみたいになっちゃうんだから」
「それだって言わないよりはましだ。八つ当りしたいならすれば良い。それでお前の気が楽になるのなら」
「都合のいいことばっかり。結局受けとめられないくせに。現にこの間だってそうだっただろ」
やはり、あの屋上での出来事が引っかかっていたのだ。
初めて幸村の頬を打ったあの日の出来事を。
その証拠に矢継ぎ早に真田に激語を浴びせながらも、たたえられた表情は悲しげに歪んでいる。
「俺が受けとめられないような人間ならお前は俺の前で取り乱したりはしない」
「……」
真田の言い分が意外だったらしく、幸村ははっとしたまま言葉に詰まる。
「……そんなこと」
小さく呟いて、幸村は顔を俯けた。
整えられた爪が白いシーツをぎゅっと握り締めているのを真田は見逃さなかった。
そんなことない。そう言い切れなかったのは幸村の迷いなのかもしれない。
「そう思うならそれでもいい」
人に頼らずにすべてを自分の内部に溜め込んで、悩んで、どうしようもなくなってしまう。
幸村もまた自分と同様に不器用な人間なのだろうかと真田は思った。
頭の回転が速く、気高い誇りを持っていたとしても、彼も一人の子供にすぎないのだから。
「真田」
少し気持ちが落ち着いたのか、シーツを握っていた手が緩められた。
その視線を幸村に戻せば、いつもの意志の強い瞳が真田をしっかりと捉えていた。
「君は優しすぎる」
「……」
「優しすぎて損をしてしまう」
「……構わん」
「構いなよ……そうじゃないと、」
潤んだ声はその先を告げないまま途切れた。
幸村は窓の景色を見るようにそっと真田から顔を背ける。
そして一度だけ聞えるか聞こえないかの微かな声でごめんと告げた後はもう何も言わなかった。
たそがれ時という名の夕空が、幸村の白い頬に影を落とした。
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2010/10/17←