短編 | ナノ
てのひらの残響

近頃の幸村はどこかおかしい。

「昼食の配膳を落としたよ」
「体重がまた減っていた」

真田が一人であっても誰かと見舞いに来ても、二人きりになるとぽつりとネガティブなことを呟くのだ。
それも聞き流そうと思えばそうできるくらいの小さな声で。
はっと気が付いて真田が驚くのも束の間、次に口を開く頃には世間話を始め、いつもの穏やかな幸村に戻るのだった。

他の部員たちにそれとなく幸村の様子を聞いてみても、丸井は「こないだお見舞いでもらったからって有名な店のお菓子くれたぜ」と言うし、仁王も「宿題手伝ってもらったぜよ」と言っていた。
普段は相談役の柳に尋ねても、「特に何かあるようには見えなかったが、思い当たることでもあるのか」と、逆に問い詰められてしまい慌てて話題を逸らしたくらいだ。
とにかく誰に聞いても共通するのは、いつもの幸村と何ら変わりはないということだった。

しかし、入院が予想以上に長引いているとはいえ幸村らしくない態度が気掛かりである。
彼に一体何があったのだろうか、もしくは何もないならなぜそのような不可解な発言をするのかと真田の方が頭を悩ますばかりだった。



「幸村」
「ああ、いつも悪いね。荷物ここに置く?」

定期試験を終え、数日ぶりに訪ねた幸村はいくらかまた細くなったような気がしたが顔色は悪くなかった。
真田を迎え入れたときの様子もごく普通だったので、幸村がおかしいように感じたのは思い違いだったのかと安堵する。

「折角だから外が見たいな。屋上行かない?」
「ああ。手伝うぞ」
「ふふ、苦労かけるね」

冗談めかしながらうれしそうに屋上への階段を上る幸村を見て、やはり自分の取り越し苦労だったのだと真田は確信した。



「今日は天気が悪いな」
「……夕方から雨になるそうだ」

屋上の扉を開いた途端に鈍色の景色が一面に広がり、どことなく幸村の声が沈んだ。
しばらくしたら降られそうだと真田は思い、幸村もまたそれを汲み取ったように問い掛ける。

「真田、傘持ってるの」
「いや」
「雨降ってきたら濡れるよ」
「構わん」
「そう……」

静かに会話を交わしながら、いつも座るベンチへと向かう。
幸村はここから景色を眺めることが好きなのだ。

「そうだ、テストお疲れ様。手応えは?」
「蓮二には適わないかもしれんがなかなか良く出来た」
「いつも通りだね」
「幸村お前は、」

そこまで言い掛けて真田は口を噤む。
何か変わったことはなかったかと尋ねようとしたのだが、なぜだか言葉が続かなかった。
宙に浮いた言葉が戻って来ることはなく、手持ち無沙汰になった真田はベンチの脇にある小さな花壇に目をやった。
そういえば、幸村が学校で育てていた屋上庭園の植物はどうなっているのだろう。

「真田」

冬を迎えて寒々しくなった花壇を視界に入れているのに気が付いたのか、幸村が口を開いた。

「立海の屋上庭園、俺が今まで手入れしてたんだ」
「そうだったな。いつも見事な花が咲いていた」
「入院してからは、クラスの女子が世話をしているらしいね」

蓮二に聞いたよ、と幸村は付け加える。

「そうか。知らなかった」

なるほどと頷きながら、真田はもうずい分と屋上庭園に近づいていないことに気が付いた。
幸村がいないせいかもしれない。

「……こうやって、皆俺の手から離れていってしまうんだね」

その絞りだすような声を聞いて真田の心臓は締め付けられたように痛んだ。
やはり幸村はいつも通りではなかったのだ。
はっとして幸村を見る。
唇に薄い笑みを浮かべていたが、大きな目は悲しげに歪んでいた。

「君達も、花も、俺がいなくたって十分やっていける」
「……」

返す言葉が見つからない。

「じゃあ、俺は? 俺がいたはずの場所はどこに行ってしまったんだろう」
「幸村、」

彼を止めなくては。直感がそう訴えていると真田は思った。
このまま幸村の話を聞き続けてはいけない。

「……そんなくだらん事を考えるのは……よくない」
「くだらない?! ああそうだね、君のようにちゃんと生きている人間にはわからないよね」

幸村は唇をかみ締めた。何かを堪えるように。

「い、いや、すまない。そういう意味では……」
「わかってるよ。もう俺がいなくても君達はやっていける。俺がいなくても部は機能する。――俺が死んだって、」

幸村の言葉は途切れ、その瞬間何かを打擲する音が響き渡った。
それから幾分かして真田の右手に痺れたような間隔が湧き上がる。
頭に血がのぼって幸村の頬を打ったのだとわかったのは大分あとのことだ。

真田は一度自分の右手を見て、それからゆっくりと幸村を見据えた。
彼は身動きすらしなかった。

「軽々しく死ぬなどと口にすべきではない」

真田が言いたかったのはそれだけだった。
病気の人間の心情は、健康な真田からはどうしたって理解することは出来ない。
表面上は穏やかにしていても、人の知れないところで葛藤があるに決まっている。
しかし、だからこそ「死」を持ち出すことを真田はして欲しくはなかった。
幸村にだけは。

「真田」

漸くの時を経て幸村が真田の名を呼ぶ。

「何だ」
「帰ってくれないか。……今すぐに」
「な……っ」

俯いたままの幸村の表情を窺うことはできなかった。
だからといって彼の意に反してその場に残ることも出来はしないだろう。
真田は仕方なく身を翻した。
足元にいつ落としたのか、幸村のカーディガンが広がっている。
それを拾い上げ、埃を払ってベンチの背に掛けた。

振り返ることなく、真田はその場を後にした。



いつもの癖で帽子の鍔を直すと、右手に幸村の頬を打った感触が甦ったような気がした。





扉の閉まる重い金属音がなくなると、静寂が残った。
屋上には幸村だけが取り残される。

「俺は……誰かの重荷になりたいんじゃない」

幸村は誰に聞かせるでもなく小さく呟いて、殴られた頬にそっと自分の掌を添えた。





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2010/09/29
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