「…っ、……なにするの」
少し乱れた呼吸を整えながら、目の前の彼を睨む。どうして蛍くんは私にキスなんかするんだろう。何も分からなくて、もう私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「その顔、すきだよ」
「蛍くん!」
ずっとからかっているかのような蛍くんと、こんなにも真剣な私。それが悔くて。今の私の感情は、怒りと悲しみと驚き全部が入り混じった最悪のものだった。瞳からは勝手に涙が流れてくるし、頬を伝う涙がうっとおしい。別に泣きたいわけじゃないのに。
「…名前ちゃんは本当に鈍い」
そんな私の表情を見てか、彼の顔も真剣なものになった。そんな顔、久しぶりに見たな。いつもの気だるそうな顔や、からかっている時の意地悪な顔ではなくて。真っ直ぐに私の目を見つめてくるこの顔を。
「俺の気持ち知ってる?」
これじゃあまるで、蛍くんが私の事を好きみたいじゃないか。いやいや、そんなことあるわけがない。だって、あの蛍くんだ。あの月島蛍が、私の事を好きなんて。そんなこと絶対にあるはずない。
別に私は恋愛に関して鈍くないし、何人かとも付き合ったことがある。続かなくてすぐに別れてしまうのだけれど。でも蛍くんは、そんな素振り見せたこともなかったし、山口くんだってそんなようなことも一言も言っていなかった。
「僕が名前ちゃんのこと好きって言ったらどうする?」
蛍くんが私のことを好き。そんなことあるわけない。こんなにかっこよくて、何でもできる彼が、私を好きなはずがない。私達はただの友達なのに。
「…うそ、でしょ?」
「嘘じゃない。バカ」
掴まれた腕をまた少し強く握られる。彼は少し不機嫌そうに顔をしかめた。
「好きだよ、名前ちゃん」
そんな真剣な表情で、そんなことを言われて。でも頭の中では、あるわけないのに、そう思っている自分がいて。蛍くんのこんな顔、見たことなかった。ああ、本当なのかな、なんて。今度は優しく触れるだけのキスを落とす彼のことを、私はただの友達だなんて本当に思っていたのだろうか。三回目のキスは、涙のせいで少ししょっぱかった。
「名前おはようー」
いつものように学校に行って、仲の良い友達と授業を受ける。昨日あんなことがあったけれど、私の日常はたいして変わらない。ただぐっすりと眠れるはずもなくて、今日の私はすこぶる寝不足だ。
「眠そうだねぇ。少しクマもあるけど大丈夫?」
「あんまり眠れなくてさー」
「なにかあったの?」
「なんでもないよ」
昨日あれから蛍くんは何も言わずに、置いてけぼりの私を残して帰って行ってしまった。最後に見た彼の顔が忘れられない。苦しそうな悲しそうな、でも怒っているようなそんな顔だった。あれがもし本当の告白だったとして、その返事なんかできるわけがない。私は彼のことをどう思っているのか、それさえ分からないのだ。付き合いの長い同級生?ただの友達?それとも。出口のない迷路の中で、私はただ一人でもがいているような、そんな感覚。
「あ…、ちょっと名前見て!」
「なに、どうしたの?」
「ほら、昨日言ってたイケメン!」
イケメン?確か昨日そんな事を言っていたような気がする。すごくかっこいい人がいたとか。興奮したようにはしゃぐ友達を見て、その人がいたのかなぁなんて、正直あんまり興味は無いけれど。
「うそ!こっち来てる…?」
そう言って何かを必死に目で追っている彼女を見て、私もその人物を探してみることにした。そんなかっこいい人ならすぐに見つかるはず。ふいに隣の彼女が小さな悲鳴のような声を上げた。そんな彼女の視線はいつの間にか私の背中越しにあって、不思議に思いながらも私は後ろを振り向いた。
「名前ちゃん、おはよう」
見慣れた整った顔に、薄く笑う口元。細身のパンツにシンプルなシャツ。相変わらずかっこいい洋服に身を包んでいたのは、言わずもがな昨日あんなことがあった彼だった。
「……蛍くん?」
「隣座るけど、いいよね?」
「え、あ、うん」
いつもと何ら変わらない彼を見て、あれは何だったんだろうなんて、余計に分からなくなってしまった。ちょうど良く入ってきた先生の声を聞きながら、ちらりと見た彼の横顔はいつものような面倒くさそうな顔だった。ああ、もう訳が分からない。