小さめにクラッシックの音楽が流れる店内は、少しだけお客さんで混み合っていた。優しそうな笑顔の店員さんに案内され、落ち着いた色合いの椅子に座る。こじんまりとした雰囲気は隠れ家を思わせるようだ。
「なににしようかな…」
「ケーキに迷ってるの?」
「うん、ショートケーキかミルフィーユ」
ここの定番といえばケーキセットなわけだが、ショートケーキを食べにきた蛍くんもおそらくケーキセットにするだろう。飲み物はオレンジジュースにするのして、迷うのはケーキのほうだった。どれも美味しいものだから迷ってしまう。
「僕はショートケーキにするから、ミルフィーユにしなよ」
「一口くれるの?やった!」
「そのかわりミルフィーユもね」
「もちろん!」
蛍くんの魅力の一つは、こういうさり気ない優しさだと思う。意地悪ばかり言うイメージがあるが、なんだかんだいって優しいのだ。
「飲み物はオレンジジュース?」
「わー、蛍くん覚えててくれたんだ」
「まぁね。好きだったでしょ?」
「うん!」
蛍くんが店員さんを呼び、私の分の注文も済ませる。私は高校のときオレンジジュースが好きでよく飲んでいた。あと学校の自販機によくある、パックのいちごみるく。それを彼が覚えててくれたみたいで嬉しい。
「引っ越しの片付けは終わった?」
「だいたいは」
「大変だよね、途中から校舎が変わるなんて」
「ホント、面倒くさいよ」
他愛ない話をしているうちに、先に飲み物が届いた。オレンジジュースは少し甘酸っぱくて、とても美味しい。すぐにケーキも届いて、私達の前に美味しそうな可愛らしいケーキが置かれる。思わず顔が綻んでしまう。蛍くんをチラリと見ると、彼もどことなく嬉しそうな顔をしていた。
「いただきます」
口の中に広がる甘さと、ふわふわの生地。やはりここのケーキは間違いない。
「おいしいね!」
「やっぱり人気なだけあるね。美味しい」
蛍くんのショートケーキはふわふわなクリームと、大きい赤い苺が乗っていてとても魅力的だ。
「はい、食べるでしょ?」
「わぁ、ありがとう!蛍くんもどうぞ!」
蛍くんのショートケーキを少しだけ頂く。最近食べていなかったそれはやっぱり美味しくて、今度はショートケーキを食べようかと思ってしまう。美味しいケーキに舌鼓を打ちながらする他愛ない話は、とても幸せな時間だった。彼といると落ち着くのだ。それは私達が過ごしてきた三年間という時間のおかげだろう。しかし、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。
「あ、そういえば」
「ん?」
「名前ちゃんの家に忘れ物したんだよね、腕時計なかった?」
外はもう日が落ちてきて薄暗くなっていた。駅までの道のりを歩いていると、ふと彼がそんなことを言い出した。あれ、腕時計なんてあったけ。見覚えのないそれに、少し驚いてしまう。あれから何日か立っているけれど、それらしきものは見たことがない。
「え、腕時計?」
「そう。…ない?」
「ごめん、見覚えないや。とりあえず探しにくる?」
「そうする」
駅は帰宅ラッシュの時間帯ということで、とても混み合っていた。人混みを避けながら改札を通り、サラーリーマンや学生で混み合う電車へと乗り込む。何駅が過ぎればもう最寄り駅に着いてしまう。大学から近いというのは本当に便利だ。人に流されないように改札を出て、駅をあとにする。外はもうすっかり暗くなっていて、少し肌寒い。賑やかな駅周辺を通り抜け、静かな住宅街を歩く。10分程すると、紺色を基調とした見慣れたマンションが見えてきた。鍵を差し込んでオートロックを解除し、中へと進んでいく。このマンションの三階が私の住む部屋だ。
「どこらへんに置いたか覚えてる?」
「確か洗面台かな」
「腕時計なんてあったかなぁ…」
慣れた手つきで部屋の扉を開けると、蛍くんを中へと招き入れる。ワンルームにキッチンが付いた、いたって普通の部屋だ。少し狭いが、お風呂とトイレは別だし、建ててからそんなに立っていないので、内装や外装も綺麗だ。駅からも近く、かなり気に入っている。
「蛍くん、洗面所は……っ!」
蛍くんを洗面所に案内しようと振り向くと、いきなり少し強めの力で腕を引っ張られた。突然のことで、頭が回らず、状況が理解できない。いつの間にか、私の背には玄関の扉があり、目の前には端正な顔をした彼の顔があった。
「ちょ、…え?」
私の顔の横に手をついた彼に、いわゆる巷で噂の壁ドンというものをされているのだと分かるのに、少し時間がかかってしまう。
「名前ちゃん、すぐに男を家に入れちゃだめだって言ったでしょ?忘れちゃったの?」
小さく笑う蛍くんは、とても色っぽくてドキドキしてしまう。きっと私の顔は真っ赤だろう。わたしにとってこの状況はキャパオーバーなのである。
「もしかして僕とのキスも忘れちゃった?」
そう言うと彼は眼鏡を外して、さらに私に顔を近付けてきた。思わず目を瞑ってしまう私に、彼は優しくキスをした。少しかさついた彼の唇をかんじながら、私の頭は真っ白になってしまう。あれは、夢じゃなかったんだ。だんだんと激しくなる口づけに、私は彼の服を強く握るだけで精一杯だった。