「名前ちゃん!」
手を強く後ろへ引かれて、私はその場に立ち止まる。私の遅い足ではいくら必死に逃げたところで、蛍くんにはすぐに捕まってしまう。まさか追いかけてくるなんて思ってもみなかった。否、結局のところはどこかでそれを私は期待していたのだろう。
大学の正門から少し離れた場所で私達はお互いに立ち止まった。ここでは注目を浴びてしまう、そう思ったであろう彼は、私の手を引くと人通りの少ない裏の路地へ歩いて行く。
「どうしたの」
「…なんでもない」
「何で泣いてるんだよ」
彼は私に向き合うと、少し苛立った様子で口を開いた。私はというと、彼の顔を見る事が出来なくてずっと自分の靴ばかりを見ていた。
「泣いてない」
「嘘つき」
「本当になんでもないの」
「何でもないわけないでしょ」
「…蛍くんには関係ない」
素直ではない私は、せっかく心配してくれる彼に対し酷い事を言ってしまう。こんな私を彼に見られたくはなかった。こんな事を言いたいわけではないのに。彼の前で、それに蛍くんが他の女の子と仲良くしているのを見ただけで泣いているなんて、そんな事を絶対に知られたくはない。今までだって幾度となく見てきたその光景が、どうして今はこんなにも辛いのだろうか。
「名前ちゃんが泣いてるのなんてほとんど見た事ない」
「…そうだね」
「何があったの」
酷く優しい声色の声に、また涙が出そうになった。彼はそこまでも私に優しくしてくれる。彼の顔は呆れたように、でも優しく笑っていた。私はその表情が大好きだ。
「蛍くんは優しいね」
「…僕は優しくなんかないよ」
「私の事をいつも気にかけてくれるから」
「名前ちゃんだからだよ」
山口くんは蛍くんの事をヒーローだって言っていたけれど、蛍くんは私にとってもヒーローだ。いつもかっこよくて優しくて、勉強も何でも出来て。たまに意地悪な事を言ったりすることもあるけれど、そんなところも全部合わせて、彼は私の憧れなんだ。
「名前ちゃん以外にこんな優しくしたりしないし、気にかけたりしない。好きな女の子だからに決まってるでしょ」
「…まだ私のことを好きでいてくれるの?」
「いつから好きだと思ってるの。…簡単に変わるわけない」
もう私の事なんて、そういう意味で好きではないと思っていた。だから、そう言ってくれた事が本当に嬉しかった。
「私ね、蛍くんが他の女の子と話しているのがすごく嫌だったの。泣きたくなるくらい」
「まさか、それで泣いてたの?」
「うん、そのまさか。そんな光景、今までだって何度も見てきたのにね」
私のその言葉に、彼はとても驚いたように目を丸くする。そんな顔はあまり見た事が無くて、ちょっとだけ得した気分になった。そんな私の手を蛍くんの大きな手が掴んで、私は彼の胸の中へ流れるように飛び込む。蛍くんからは、いつもと変わらない私が安心する匂いがした。
「ねぇ、僕が思っている事と名前ちゃんが思っている事、一緒でいいんだよね」
「…どういう事?」
「名前ちゃんが僕をどう思っているかってこと」
もっと早く彼に伝えればよかった。そうしたらもっともっと彼と一緒にいる事が出来ただろうから。
「わたしね、蛍くんの事が…っ」
小さく息を吸い込んで、私の精一杯の勇気を振り絞って蛍くんに伝えたかった言葉は、いとも簡単に彼に奪われてしまう。最初のキスは正直ほとんど覚えてはいないけれども、二度目のキスはずっとずっと私の記憶に残るだろう。
「名前ちゃんが好きだよ」
わたしも、蛍くんが大好きだ。