「雪、大丈夫?」


ゆっくりと目を開けると、白い天井と私を心配そうに見つめるお父さんが目に入った。そういえば私、車にぶつかりそうになったんだっけ。まだ少し痛む頭を自分の手で押さえながら、ゆっくりと起き上がる。


「お父さん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。…大輝君が助けてくれたの」

「そうだったのか」


私はお父さんを安心させるように、明るい声でそう言った。笑顔を作ることも忘れずに。もうここにいる必要もない。正直、私はどこも悪くないはずだ。だって車なんかにはぶつかっていないのだから。早く固いベッドから下りて、お父さんと一緒に帰ろう。その前に、彼に聞きたいことが山ほどあるんだけど。


「雪」


私がベッドから下りると、いつの間にか部屋の入り口に彼がいた。初めて見る、白衣を着た若い男の人と一緒に。おそらくあの人が、皆が言う "カレン先生" 。


「雪ちゃん、もう大丈夫かい?」

「はい……大輝君が助けてくれたので」

「そうだったのか。それなら大丈夫だね」


大輝の名前を出したとたん、先生は納得したような顔をした。まるで彼が何をしたのかを知っているかのように。彼ならそれが出来て当然だというように。それから先生は私のお父さんに話し掛けた。私をそれを見計らって、大輝を廊下へと連れ出す。


「貴方、何をしたの?」

「何のことだよ?」

「あんなに遠くにいたのに、どうして……」

「俺はお前の隣にいた。車にぶつからないように、少し引っ張っただけだ」


そんなはずない。確かにあのとき、彼は私の近くにはいなかった。道路を挟んで向こう側にいたはずだ。なのに彼は私の隣にいたなんて、平気な顔でそんな嘘を吐く。


「……まだ、そういうことにしておく」

「もしそれが本当だとしても、誰も信じねぇと思うけどな」


確かに、そうなのだ。こんなこと、誰にも信じてもらえない。誰かに言ったところで、私はまた病院に連れ戻されるだろう。私の頭が可笑しいと言って。


「雪ちゃん、お大事にね」


それから、すぐに病室からお父さんとカレン先生が出てきた。私は一言お礼を言って、お父さんとその場を後にする。知りたい。彼のことを。だって私は、彼について何も知らないのだから。


「昨日は大丈夫だったか?」

「うん。どこも怪我なんかしていなかったし」


翌日は大変だった。今の日向君みたいに、何人もの人が同じ言葉を私に言ってくるのだから。さっきもリコに散々心配されたところだった。もちろん、皆のその気持ちは嬉しいのだけれど。


「そうか。よかったな」

「ありがとう」


いつものように日向君と生物の授業に向かう。腕時計を見れば、あとほんの数分で授業が始まるところだった。教室には、いつもと変わらないメンバーが自分の席に座っていて。それは彼も同じだった。昨日も会っているのに、どうしてこんなにも早く鼓動が脈を打つんだろう。彼の隣に座るだけで、私はもう疲れてしまうんだ。


「雪」


授業が終わるのと同時に、隣の彼が私の名前を呼んだ。彼の声を聞いただけで、心臓がまた激しく脈を打つ。


「どうしたの?」

「俺達は親しくならないほうがいい」


突然言われたその言葉を理解することができなくて、私は何も言えなかった。何を言っているの。親しくならないほうがいい、なんて。まるで私のことが嫌いみたいな、そんな言い方。


「……後悔してるの?」


やっと口から出た言葉はひどく弱々しく、少し掠れていた。私の言葉に、彼は訳が分からないとでもいうような顔をする。


「なんだよ、後悔って」

「私を助けたことを…後悔してるんでしょう?」

「俺がお前を助けたのを、後悔してると思ってるのか」


彼の声はなぜか怒りに満ちていた。何で怒っているんだろう。私は間違ったことは言っていない筈なのに。どうしてそんな怖い顔をするのか、私にはさっぱり分からなかった。


「お前は、全然分かってない」


何が分かっていないの。だってそうじゃない。私のことが嫌いなんでしょう。彼と話していると、なんだかこっちまで苛々する。そういう態度をとっているのは、貴方のほうなのに。私はそのまま何も言わずに、彼から逃げるように教室を後にした。それからの授業はなにもかも、全てが憂鬱だった。これも全部彼のせいだ。そんな晴れない気分のまま、車にエンジンをかけハンドルを握る。やっぱりこの街の天気は悪くて、今日もいつものように雨が降っている。そんな天気がさらに私を憂鬱にさせるんだ。


「来週末、駅のほうに行こうと思ってるんだけど」

「一緒に行こうか?」


私が作ったカレーライスをお父さんと食べているとき、来週末の予定を話してみた。駅にはたくさんのお店があるし、車があれば1時間くらいで行けるのだ。


「大丈夫だよ。いろんなお店を回るつもりだから、お父さんも大変だと思うし」

「分かった。気を付けて行くんだよ」

「うん、ありがとう」


お父さんはお母さんほどではないけれど、少し心配性だ。まぁ一人娘なのだから、仕方がないのかもしれないけど。私は2人分の食器を片付けると、そのままお風呂を済まして自分の部屋に向かった。確か本について、来週までにやってくる課題が出ていた気がする。とりあえず寝る前にそれを終わらせよう。私は彼のことを考えないようにするために、夢中で課題に取り組んだ。


「よぉ」


翌朝、いつものように駐車場に車を止めた。必要な荷物を持ち車に鍵をかけて、キーをバッグの内ポケットに入れる。するといつからいたのか、後ろには彼の姿があった。彼は私に音も立てずに近寄るのが得意らしい。


「それ、どうやってるの?」

「なにが」

「いつの間にか、私に近寄ること」


私の質問に対して、彼は面白そうに笑った。何が面白いの。私は至って真剣だと言うのに。


「それより、来週末は駅のほうに行くんだってな」


私の質問には何も返さず、その代わり彼は私を驚かせるような質問をした。なぜ、それを知ってるんだろう。確かリコには昨日話した気がするけれど。あとはお父さんしか知らないはずなのに。


「俺の車に乗らないか」

「…私と貴方が一緒に行くってこと?」

「当たり前だろ。嫌か?」


昨日、私と親しくならないほうがいいって言ったのは誰だ。昨日の会話がまるで無かったかのような話し方をする彼に、私はだんだん、昨日みたいに苛々としてきた。


「本当はこれ以上近づかないほうがいいんだ」

「だったら…」

「でももう疲れたんだ。雪と距離を取ることに」


なにそれ。彼が何をしたいのか、何を考えているのか全く分からない。彼の行動も言葉も、何も理解できない。


「来週末はよろしく。またな」


私の言葉を待たずに、彼は手をヒラヒラとさせながら、何処かへ行ってしまった。彼は一体何がしたいんだろう。来週末が楽しみ。そう思ってしまう私は、やはり可笑しいのだろうか。


Magnetic force.
(磁力)