小説 | ナノ


放課後、部室のドアを開けると同時に、奇妙な声が私の鼓膜を震わせた。


「うるるるるる、うるぁ!」

「ハハッ、全っ然ダメだなー凪沢ァ」

「ちくしょー、難しいっす」


見ると、凪沢が何やら真剣な表情で、湾田先輩と対峙している。

一体何の儀式だろう……?
不審に思いつつ部室に足を踏み入れる。そんな私の存在にいち早く気がついたのは、他でもない先輩だった。


「おー、姓じゃん」

「こんにちは、お疲れさまです湾田先輩」

「んー」


私が挨拶すると、先輩はダルそうに、しかしへらりと笑って手を振ってきた。時折見せてくれるこの仕草は、密かに私のお気に入りだったりする。


部屋全体を見渡すと、キャプテンを含め部員はまだあまり来ていないし、部活開始まで少し時間がありそうだ。
どうにも気になるので尋ねてみようか。


「あの…二人で何をしてるんですか?」

「え、何って?」

「だから今の、うるるぁ!みたいな。凪沢叫んでたじゃん」


私が再現すると、凪沢は何か思い出したようにこちらをまじまじと見てきて、


「それなんだけどさ、姓は巻き舌ってできる?」

「巻き舌…?」


こくりと頷く凪沢、その様子を見てニヤリとする湾田先輩。


「こいつ俺がシュート打つたびに巻き舌すんのが気になるんだってよ」

「…あ、そういえば……!」


毎日のシュート練習を振り返ってみると、確かに湾田先輩の掛け声は、いつも華麗な巻き舌を伴っているような気がする。


「俺もやってみたいなって思って、湾田さんに教わってたんだけどさー」

「どうしても上手くいかないってわけかあ」

「んま、そう簡単にマスターされても困るけどなァ。俺の特技だし?」

「「え、巻き舌がですか?!」」

「……本気にすんなよお前ら」


私と凪沢のコメントに湾田先輩が珍しく呆れ顔をした。こんな表情もするんだ、メモメモ…なんて、連日のマネージャー業で身に付いた癖のせいでそんなことを考えてしまう。


「で、姓はどーなのよ」

「あ、私は…少しならできますけど、湾田先輩の舌には及びません、です」

「へーえ」


あれ、私今変なこと言ったかな。先輩が笑った。それもすごく意味深な笑い。
何かただならぬ予感がするのですが。


「…ちょっと来いよ」

「え、」


案の定、腕を掴まれた。少し強引な引っ張り方で、部室の外へ連れ出される。


「せ、先輩、どこ行くんですかっ」

「二人っきりになれるとこ」

「…………は」


ななななななんですと?!
私は一気に混乱状態に陥った。
やっぱり今の一言が気に触ったのだろうか。でも湾田先輩は優しい人だし、まさか女子に手を上げるだなんてことは……


「ここでいっか」

「……?」


先輩が選んだのは、サッカー部に関する様々な資料が保管されている一室。ためらうことなくドアノブを捻り、私を中に連れ込む。

こんな狭い部屋で何をするっていうんだろう、広さ的に殴りではないと考えると頭突きか……


「名」

「っは、はい、湾田先輩!!!」

「あーもう…二人のときは下の名前でいいっつっただろーが」


先輩は本日二度目の呆れ顔で私の方を向いた。え、あ、すいません……そう詫びつつ、このタイミングでそんなこと言われても、なんて心の中でこっそり反抗してみる。
現にかなり気が動転してしまっているのだ。


「何緊張してんだよ」

「だ…だって…頭突き、されるのかなと……」

「はぁ?んなわけねーだろアホかお前」

「ひいいいごめんなさい…!」


思わず目を反らした。
怒ってはいないとわかっていてもやっぱり少し怖いし、ただでさえ整った顔立ちの湾田先輩をこんな至近距離で見上げるなんて、私には難度が高すぎる。


「ま、ちょっと良いことしてやろうとは思ってるけどな」

「いい、こと?」

「これでも一応我慢してたんだぜ?けどお前が、俺の舌がどうとか言うからさあ」

「え……?」


や、やっぱりその発言が原因だったのか!
これは私、一巻の終わりな気がするよ…


「とりあえず手ェ出して」

「て……?」

「そーそ」


言われるがままに右手を差し出すやいなや、先輩の左手にがっちりと掴まれてしまう。
本当に何が始まるんだろう。鼓動が速くなっていく。

私が息を飲んで見守る中、湾田先輩はジャージのポケットに手をつっこんだ。
取り出されたのは、


「…………い?」

「苺ジャム。給食の余りパクってきた」


薄暗い部屋でもはっきりジャムだとわかるそれ。この状況となんら関係が見出だせないのですが。


「それで、何を……」

「ん、ちょっと待ってな」


先輩はジャムの袋の先端を噛むと、ぴりっとそこを破いた。


「え、た、食べるんですか?」

「んー、……あながち間違ってはねぇか」

「………え…?」


私は声を漏らしたが、それは湾田先輩の返答に驚いたからではない。



問題は、先輩がそう言いながら、私の右手にジャムをだらだらと垂らし始めたこと。



「なに…してるんですか…湾田先輩…」

「だから七雄人」

「ちがっ…そうじゃなく、て」


やだやだ、怖いよ。私の手をジャムまみれにして、一体どうするつもりなんだろう…?

混乱のあまり湾田先輩の目を凝視する。
先輩は、そんな私を面白そうに見つめ返して。


「舌って言ったらお前、こーゆーことに使うもんだろ?」

「?!」



……先輩の舌が、私の人差し指をなぞった。

あまりにも突然で、突拍子もなくて、夢かと思うくらいには実感がわかないけれど、確かに今。


「ちょ、っと、何するんですか、」

「あれ、あんま気持ち良くねぇのかな」

「そうじゃな………っひゃ、」


噛み合わない会話。湾田先輩がわざとそんな無茶苦茶なことを言ってるのはわかっていたけれど、この状況じゃ指摘なんてできない。

だって先輩の舌が、私の指の付け根に。


「ちゃんと全部…綺麗に舐めてやるからな、」

「や、やめ……う、」

「……お、いい顔してきた」

「な…っ」


今度は恥ずかしくて、先輩の顔を直視できない。私は目をぎゅっとつぶった。だけどそのせいで、今はどこを舐められているのか、次はどこを舐められるのか、まったくわからない。自分で自分の首を絞めてしまったみたいだ。

先輩の顔を引っ掻いてしまったらと思うと抵抗なんてできないし、というのは言い訳で、本当は本気で力が入らなかったりする。


「も、湾田せんぱ…やめ…」

「嫌なの?」

「っ…喋ら…ないで、」

「俺は、もっと名の声、聞きたい」

「っう……や……」

「七雄人って呼んで」

「ん………なおと、せんぱ…い」

「かーわい」


ああもう、この人絶対今すごい笑顔だ。それも満面の笑みなんていう可愛いもんじゃない、悪魔のように微笑んでいるに違いない。
想像して、私はかたく閉じたまぶたが震えるのを感じた。

とにかく今は、ただただ解放を待ちわびるしかない。先輩が飽きるのが先か、部員の誰かが気づいてこのドアを開けるのが先か、わからないけれど。










「な、お前の言う通りだったろ、俺の舌マジすげェって」

「なんという過大な解釈…」

「え、カダイ?難しい言葉使ってんなー」

「………」


結局湾田先輩は、部活が始まるまでに全ての苺ジャムを舐めきってしまった。

遊び尽くされた感が物凄く不本意なのだけれど、やっぱり私はこのどうしようもない先輩に弱いみたいで、というかもう何か言ってやる気力もないので、黙りを決め込むことにした。


「なあ、怒ってんの?」

「……別に、そういうわけじゃないです」

「けど?」

「………?」


先を促すような湾田先輩の言葉に、うつむいていた顔を上げる。
先輩は少しだけ眉を下げて笑った。


「怖かったろ、ごめんな」

「え……」

「なんつーか、お前見てたら、ついいじめてやりたくなんのよ。けど本気で嫌だったら言えよ、俺嫌われたくないもん」

「……!」


先輩がこんなに長々と喋るなんて、とか、そんなどうでもいいことしか頭には浮かんでこないのだけれど、いちばん大事な部分では、その言葉をしっかり受け止めている自分がいた。

ああ、なんだかんだでうまく丸め込まれてしまうばかりなのが悔しい。
それでも何度でも思い出してしまうのは、憎いほどに甘酸っぱいこの気持ちだけで。


私やっぱり、この人のことが……



「んま、気持ちよかったんならまたやろーぜ」

「…………はい?」

「次は蜂蜜がいいと思わねぇ?」

「………」

「もしもし名チャン?…何、生クリームの方がいいって?」

「…………七雄人先輩」

「ん、」



大嫌いですと呟いたら、どんな顔をしてくれますか?



20120314
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