小説 | ナノ


「はい、そこまでな」

ぼんやりとした意識の片隅で、私はその声を聞いた。
広くスラリとした背中が、目に映る。

***

すっかり帰りが遅くなってしまった。
街灯が申し訳程度に灯る暗闇の中、時計を確認して、日付が変わっていることに驚く。

駅のロータリーを出ると、昼間でさえまばらな人影はさらに少なくなっていて、私は少し不安になった。こういうのは何度経験しても慣れない。もしもそこの曲がり角からいきなり変質者が飛び出してきたらどうしよう、襲いかかってきたらどうしよう、そんなことを考えてしまうくらいには、私は夜特有のひっそりとした空気が苦手だったりする。

「お嬢ちゃん、ひとり?」

そうそう、そんな風に、たちの悪い酔っ払いに絡まれたりね。考えただけでも鳥肌がたつ。本当に勘弁してほしい。
そこで頭を左右に振って、私はふと、今の想像が自らの聴神経にかなりダイレクトに伝わってきたことに違和感を覚えた。妄想…想像力は豊かな方だけれど、それにしたって今のはリアルすぎないか。
そこまで思考を巡らせて、ハッとした。
誰かが、私の肩を背後から掴んでいる。

「ねぇ、無視しないでよぉ〜、おじちゃん寂しいなぁ」

「っ……!」

振り返ると、案の定そこには泥酔状態のサラリーマンが、足元のおぼつかない様子で立っていた。
いやな汗が吹き出すのが自分でもわかる。手を振り払いたいのだけれど、突然のことで無意識にパニックに陥ってしまっているのか、体が言うことを聞かない。

「お嬢ちゃん〜、」

酔っ払いはじわりと距離を詰めてきた。まずい、これ以上抵抗しないままでいるのは危険すぎる。

私は必死に考えた。駅からそう離れてはいない。声をあげれば、気づいてもらえる。
そうとわかっているのに、助けてのたの字も出てこないのはどうしたものか。

へらへらと笑う酔っ払い。酒臭さに加えて肩に伝わる生ぬるい感触が、私に吐き気を催させる。
眼前の笑顔を凝視しすぎて、頭までくらくらしてきた。もう終わりなのか。この場合の終わりがなんなのかはよくわからない、けれ、ど……


「はい、そこまでな」

え?

突然投げつけられた言葉。気がつくと、私を「拘束」していた腕はそこに無い。それ以前に、目の前に大きな背中が広がっている。まるで、私をかばうかのように。

「……!」

暗がりでもわかる、この制服、おまわりさん、だ。
しっかりしてくださいお父さん、サラリーマンをなだめるそんな声が私の耳に届く。どうやら助かったらしい、その実感が、私の意識をぷつりと閉ざした。

***

「おい、起きろよ、なあ」

「………んー…、ん?」

聞き慣れない声に急かされ、私はどこで寝ているんだっけと考えた。誰かの家に泊まった覚えは無いし、何より布団が固すぎる。これまさかアスファルト…って、

「あ!!!酔っ払いは?!」

「やれやれ…やっと目覚めやがったか」

「え……?」

飛び起きた私を待っていたのは、濃度の増した暗闇と、見知らぬお兄さんの呆れ顔だった。

「あんたしばらく気を失ってたんだよ」

ああそうだ、私は確かこの人に、おまわりさんに助けられたんだった。
舞い戻る記憶に比例して、安堵の気持ちがじわじわと湧いてくる。

「あ、あの、ありがとうございました」

「いや、無事ならよかったぜ。まあ…こんな夜遅くまで女一人で出歩いてるのも考えもんだけどな」

「う、それは…その、」

「遊ぶのはいいけど、もっとはやく帰れよ、速足で」

そっちなの?!と突っ込みたくなったけれど、もしかしたらこれはおまわりさんなりの気遣いなのかもしれないと気づいて、口をつぐむ。考えの浅かった私にも非があったことを、見逃してくれているのかもしれない。都合のいい解釈だとはわかっているんだけれど。

私は立ち上がり、深々と頭を下げる。
おまわりさんもついていた膝を伸ばして立ち上がるのがわかった。

「本当に、すみませんでした」

「そんなのはいいから早く行けよ、…あ、一人で大丈夫か?」

「それは平気、です、ここからすぐなので」

「ん、そうか、気をつけてな」

白い手袋に、肩をポンと叩かれた。わずかに残っていた恐怖と緊張が、街灯の光と同じ色をして、弾け飛んでいく。

私は歩み出し、一度だけ振り返った。夜の闇に優しく浮かび上がるおまわりさんの笑顔。
思わず、見とれてしまった。

(これじゃあ私が職質されちゃう)

20130201
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