| 日曜日の昼下がりのことだった。
「バーカ!」
「バカって言った方がバーカ!」
「じゃあやっぱりバカじゃん!」
「そっちが先に言ってきたんでしょ!」
部活帰りに公園のそばを通ると、小さい子どもの可愛らしい口論が聞こえてくる。見ると、幼稚園児と思わしき男の子と女の子が、物凄い剣幕で互いに睨み合っていた。 今にも掴み合いの喧嘩に発展するんじゃないだろうか。そんなことを考えて私は少し冷や汗をかいたけれど、どうやら日常茶飯事のようで、それぞれの保護者らしき人たちはやれやれといった感じで眉を下げて笑っている。それを認めてほっと息をつくと共に、私は、激しい懐かしさに襲われた。
私も小さいときは、こんな風に毎日喧嘩してたなあ、あいつと。 思い出して、思わずくすりと笑ってしまう。 喧嘩といってもバカとかアホとか、飛び出してくるのはお決まりの悪口で、今考えると、なんて低レベルな罵り合いだったんだろうと微笑ましい気持ちにすらなる。
幼稚園の園庭で、送迎バスを降りてからの帰り道で、たまたま鉢合わせした公園で……あいつとの喧嘩に場所を選ぶことはなかった。小学校に入学してからもしばらくやっていた気がする。
そうだ、小学校といえば、入学したてのある日の口喧嘩はひどかった。
ちょっとした言い合いは毎度のことだったんだけれど、あの日は話がこじれて、絶交を言い渡すまでに至ったんだっけ。
『蓮助のバーカ!いじわる!』
『は、何言ってんだ?お前にいじわるする時間がもったいねーな!』
『嘘だ!さっき私の足わざと踏んだもん!』
『それを言うならお前だってこの間…!』
そうそう、それでそのあと、教室中に響き渡る声での大喧嘩が始まって。慌てて駆けつけた先生にまで暴言を吐いてしまったという苦い記憶も、未だに鮮明だ。二年生から私とあいつが同じクラスになることが無かったのは、この出来事が原因だと言っても過言ではないと思う。
あれからもう六年経ったのか、早いなあ。 私は意味も無く空を見上げた。よく晴れていて、透き通るように青い。そういえば、あのときの空模様もこんな風だった。
あいつに絶交だって言い放ってしまったこと、そして同じ台詞を投げ返されてしまったことが本当は悲しくて悲しくて、昼休みに一人で呆然と学校をうろついていた。 そうして、騒ぎを聞き付けた他のクラスの男の子たちに、怪獣とか凶暴とかはやしたてられて、泣きながら体育館裏まで逃げて。
そうだ、そこに来てくれたのが、
「……何をたそがれてんだ?」
「へ?!」
突然、背後から声。一瞬誰のものかわからなかったのは、声変わりの真っ最中だからなのだろう。 私は振り返り、ふっと息を吐いた。
「なんだ、浪川かあ」
「なんだとはなんだ、…お前も部活の帰りか?」
「そうだよ」
今の今までこいつのことを回想していたとは決して悟られたくないので、私はさらりと平静を装ってみる。が、内心かなり戸惑っていた。中学に入ってからお互い部活で忙しくなったこともあって、実はまともに会話するのも久しぶりなのだ。
「まだサッカー、続けてるんだね」
「………まぁ、な」
なんだか歯切れが悪い。小さいときからサッカーバカのこいつにとって、当たり障りの無い言葉を選んだつもりだったのに……私は全身の血液が逆流する思いがした。ここは早々に退散するべきだ、精神的に持たない。
「えと、それじゃ、また」
「おい待てよ」
「えええ…」
「ふざけんな、なんだそのあからさまに嫌そうな顔」
「だって嫌だもん」
「お前な……たまには俺の話聞けよ、どうせ家も隣同士みたいなもんなんだし」
そう言うと、私を追い抜いてスタスタと歩き始めた。要するに、一緒に帰ろうということなんだろう。こういう強情なところは昔から変わらない、というか治らない。私はこいつの所有物になった覚えは無いんだけれど。
仕方がないので隣に並んだ。こうしてみると、ずいぶんと身長に差がついたことに気づく。小学校の頃は私と大して変わらなかったはずなのに、男の子というのは恐ろしい成長を遂げるものだ。
それにしても。
「………」
「………」
「………」
「………ねえ」
「なんだよ」
「話とやらは聞かせてくれないの?」
「あー、」
そこで頭を掻くな! 自分から吹っ掛けておいてこの有り様とは、やはり私を苛つかせることに関しては、こいつの右に出る者はいないらしい。
「別に大したことねぇから、いいや」
「なにそれ…気になるんだけど」
「は、そのまま眠れなくなっちまえ」
「いやそこまでじゃないし!!!」
「お前ジョークって言葉知らないのか?」
「………」
駄目だ、完全に相手のペースに飲まれている。この一年まともにコンタクトを取っていなかったとはいえ、これでは悔しくて本当に眠れなくなってしまうかもしれない。
悶々と考えている私を鼻で笑うのが聞こえた。言うまでもなく、隣からだ。
「何よ」
「いや、お前も変わらねぇなーと思ってさ」
「は?私の?どこが」
「可愛くねぇとこ」
「……あんたね…………」
ギリギリと歯ぎしりをしたところでそれすら笑いの種にされてしまうのはわかっているんだけれど、怒りを形にせずにはいられない。
本当に、口が減らないのは相変わらずだ。そう、変わっていないのは私だけではない。……そのことが少しだけ、嬉しかったりもする。
「ところでさ、お前もう進路とか決めた?」
「え?いきなりどうしたの…ていうか一年の段階で進路云々って、ちょっと早くない?」
「あー…まあ…それも、そうだな」
また、歯切れが悪くなった。そう感じてすぐに、もしかしたらこいつは元々こんなだったのかもしれない、私が忘れているだけで…なんて考えてみたけれど、そんなのは全くの作り事だってことくらい、わかっている。
しかしながら、別れのときというのはタイミング悪くやってくるもので。
「……、あ」
「何ぼーっとしてんだよ、お前の家そこだろ」
「う、うん」
いつの間にか、家の前まで来てしまっていたのだ。結局、話というのは聞けずじまいだ。
促され、私は自分の家の庭先に立つ。そこで、同じ状態のそいつに、なあ、と呼びかけられた。
「何?」
「今日、お前と話せてよかった」
「……え?」
「じゃあな」
意味深な言葉の意味を考え続けて、数日が経過した。自分でも馬鹿げたことに時間を使っているなあとは思う。思うんだけれど。
「おい、聞いたか?」
「なになに、事件?」
今日も教室は騒がしい。誰かさんのせいですっかりその傍観者と成り果てた私は、うつろな気分で、クラスメートの噂話に耳を傾ける。
「いや、んな大層なもんじゃないんだけどさ」
「うん、」
「隣のクラスに浪川って奴いるじゃん?あいつさ、………」
……その言葉が、私の意識に電流を走らせた。
弾かれるようにして隣のクラスに飛び込む。目的は勿論、
「どういうことなのか説明してよ」
「………何を」
「……転校、するって、」
「あー……聞いちまったか」
その言葉で、私が今さっき耳にしたことが真実なのだとわかった。あれ、どうしてだろう、言葉が出てこない。
「ちょっと、部活絡みの事情でな、」
「………」
「だいぶ前から決まってたんだけど、言い出せなくて」
「…………、いつ、いなく、なるの」
「………」
「………」
「…………明後日の、土曜」
『お前、こんなとこで何やってんだよ』
『れん、すけ…っ…?』
『は、泣いてんのかよ、情けないな』
『う……蓮助だって泣き虫のくせに』
『ち…違う!…それより、感謝しろよ』
『……何を?』
『お前をいじめてたやつ、俺が追っ払っといてやった』
『え……!』
『ふん、そ、それで、いだいなるこうせきをあげた蓮助様から、命令がある』
『……?』
『さっきのは無しだ。絶交は、無し。いいな?名』
数日前にあの記憶を辿ったせいだろうか、二本の足は無意識のうちに、体育館裏まで私を導いていた。 小学校のものと多少造りは違えど、背の低い雑草の生い茂るその景色は、再び私にあの日のことを思い起こさせる。そう、あのときあいつは、絶交中だったにも関わらず、泣いている私を見つけてくれた。どうしてよりによって、今、そんなことを思い出さなきゃならないのだろう。
転校するらしいよ、それを聞いたときの私の心臓の飛び上がり方を、あいつは想像できるだろうか。浪川のバカ、とだけ言い放って教室を飛び出したときの私の心情を五十字以上六十字以内で書き表せるだろうか。どんなにひどい喧嘩をしても、クラスが離れても、言葉を交わさなくなっても、ずっと心のどこかで思っていたことを、あいつは知っているだろうか。 答えの決まりきった問いが、私の中に次々と沸き上がってくる。
どうやら私は、救いようもないほどに、あいつのことが好きらしい。悔しいけれど、認めざるをえない。認めなければ、今私の頬に伝っているものの存在理由を説明することは、多分一生できないだろう。だけど認めたところで、何か素敵な出来事が起きるわけでもない。ただひとつ、あいつが好きだというその事実だけが、私の胸を締め付けるばかりで。
それはただただ、苦しくて。
「……っ…れんす、けぇ…」
「なんだよ」
………ん?
今のはなんだ、幻聴か。そうかそうか、幻聴か。背後から聞こえてくるなんてお前もハイレベルになったもんだな…って、
「えええええい、いつから後ろにいたの?!」
「ずっと」
「ず…?!」
「お前がいきなり逃げ出すから追いかけただけだろ」
「ま…まじで……」
つまりそれは、思いっきり泣いているところを目撃されたということに他ならないよね。それってかなり恥ずかしいよね……
私は、消えたい、と呟きながら、再び二つの瞳に背を向けた。泣きじゃくったせいか足ががくがくしてうまく立てそうもないので、その場にしゃがみこむ。この際後ろからの視線はどうでもいいや。もうなるようになれ。
「なあ、なんで泣いてるんだ?」
「……は…?」
「そんなに俺が転校するのは嫌か?」
「……な、」
質問内容があまりに直球すぎて、首を縦に振ってしまいそうになる。
「何言って…!絶対違う!全然違う!」
「……そうか」
「そ、そうだ…………よ…?」
うまく否定することができた、そう安堵したのも束の間、私は背中に生まれる温かさにどきりとした。自分のものではない腕が、両肩に回る。
こいつはいつの間にしゃがんだのだろう、機敏な動きですこと……そんなどうでもいいことを脳裏に並べ立てたせいで、抱き締められている、と理解するまでに、数秒の時間がかかった。
「え、ど、どしたの…?」
「黙って聞け」
「…は…はい……、」
「………」
「………」
ぎゅ、と加えられる力に心拍数が上昇する。訪れる沈黙がもどかしくてたまらない。 私はあまりの恥ずかしさに、視線を空へ向けた。快晴。あの日と同じ色かどうかまではわからないけれど、少なくとも、私の好きな青色をしている。
「……伝えるのが遅くなって悪かった」
「………転校の…こと?」
「それもある、けど」
「…?」
「………あのさ、」
「うん、」
「……偉大なる功績をあげた蓮助様から、お前に、言っておきたいことがある」
「……あれ、命令じゃないんだ?」
「………ほんと、よく覚えてるな」
「…そっちこそ」
言い返すと、ふ、と笑うのが聞こえた。見えているはずないのに、なぜだろう、この人は泣きそうな顔で微笑んでいる、そんな気がする。
かすかに、息を吸い込む音がして。
「名、」
紡がれたのは、すきだ、なんてたった三文字の、とても優しいさようならだった。
20120321
|