それは、唐突な幸せ。
トイレの中、右手にもっている“アレ”と左手の説明書をかれこれ10分ほど見比べていた。
どれだけ見ても、どれだけ見方を変えても、検査結果が変わることはなかった。
一応は焦っているんだけれど、頭の一部分だけは有り得ないほど冷静で、彼に伝えたらどうなるだろうかとあらゆる想定が頭を流れていた。
「…さて、」
やっとの事でトイレから重い腰を上げてメールを一通。そしてあたしは出掛ける準備をした。
―2時間後、駅前にあるカフェのテラスで彼を待つ。
駅の出入り口から、よく見知った人物がこちらへと歩いてきた。
「★ちゃん!遅くなってごめんね。待った?」
小走りで近づいてくる雷蔵に小さく手を振る。雷蔵はあたしの正面の白い椅子へと腰掛けた。
「忘れ物を取りに塾へ寄ったら生徒の子達につかまっちゃってさ。」
困ったような笑顔だけれど、生徒達が可愛くて仕方ないようだ。雷蔵はいいパパになるな、“パパ”と自然に出てきた言葉は、一瞬にしてあたしの血の気を引かせた。
「それで、話ってなに?」
あたしの話を聞こうと、雷蔵は両肘をテーブルについて前傾姿勢に入る。
「あー、うん。とりあえず、何か頼もっか!」
余りにも切り出し辛い話だったので少しクッションを置こうと、手を上げてウエイターを呼んだ。伝票を片手にウエイターがこちらへと向かってくる。
「んー、どれにしようかな。キャラメルマキアートもいいし、アイスココアも…カプチーノもいいよなー。」
いつもの迷い癖が出ている雷蔵に助言する。
「やっぱ暑いからアイスココアがいいんじゃない?」
それを聞いてにやわらかく笑う雷蔵。丁度ウエイターがご注文は?と伺いに来た。
「じゃあ、アイスココアと…あ、★ちゃんはいつものフラペチーノにする?」
雷蔵の問い掛けに首を振り、あたしはオレンジジュースを注文した。畏まりました、とウエイターが去って行く。雷蔵が不思議そうに首を傾げる。
「オレンジジュースあんまり好きじゃなかったよね?」
雷蔵の言葉に曖昧な返事を返す。雷蔵は特に気にせずまた笑顔に戻った。さっきのウエイターがアイスココアとオレンジジュースを運んで来たので、2人とも会釈をして飲み物に口をつける。
「じゃあ話、聞いていい?」
来た。喉がゴクリとオレンジジュースを胃に送った。深呼吸をひとつ。
「…あのさ、なんか…あれ、その…最近なーんかアレ、来なくて。おかしいなーって思って、さ。検査してみたの。そしたら、ね。」
できちゃった。
ちらりと雷蔵の顔を見る。いつもの笑顔のまま、硬直していた。
「え?…で、できちゃったって、アレだよね?」
段々と笑顔が引きつってくる雷蔵。雷蔵の言っているアレとはアレしか無いだろう。
「…うん、赤ちゃん。」
そう、ベイビー。口に出した瞬間、雷蔵から笑顔が消えた。
「ほ、ほんと?」
こくりと頷いて、あたしはオレンジジュースを啜った。からり、と氷が音を立てる。
「どうしたら、いいと思う?」
迷い癖のある雷蔵にこんな事を聞くのもあれだが、1人でなんて考えられなかった。
「とにかく、これから産婦人科行こう。それからご両親に挨拶して、ベビー用品も揃えなきゃだし、そうだ、籍を入れなきゃ。結婚式だって上げないと…って待って、それより何より…。」
いつもの雷蔵の迷い癖からは想像もつかない計画に目を白黒させて聞いていると、後ろからあたしと雷蔵を呼ぶ声が耳に入った。
「★、雷蔵。俺抜きで何してんの?」
まさか、このタイミングで来るか。あたしの目の前がぐらりと揺らいだ。今、一番会いたくなかった。雷蔵に会わせたくなかった、会わせてはいけなかった人物。
「三郎…。」
煙草をくわえて笑顔でこちらへ来る三郎に来ちゃダメだと首を振る。怖々雷蔵の方に目を向けると、有り得ないほど満面の笑みをしている雷蔵。ご丁寧にもちょいちょいと三郎をこちらに呼んでいる。何も知らない、知る由もない三郎は空いている席へと座ろうとした。
しかし、雷蔵は笑顔を貼り付けたまま椅子に座るという行動を阻止し、三郎の吸っている煙草を取り上げ灰皿へと押し付けた。
「えっ?何、雷蔵。」
ただ事で無い雰囲気をやっと察した三郎。雷蔵がにこやかに毒を撒き散らす。
「三郎?君の座る所はそこじゃないよ。」
三郎の顔が引きつる。あたしは心の中で三郎に合掌した。
「いや、だって席空いているじゃ…「地面に正座してそのまま手と額も地面にこすりつけてくれる?」
有無を言わさない雷蔵に、さっきの雷蔵の様に三郎が固まった。
「それって、つまりは土下座だよな…。」
何も出来ないあたしは、またオレンジジュースを啜った。
「そうだね、三郎もそれくらいは理解出来たんだ。じゃあ土下座してよ。★ちゃんに。」
ここで初めてあたしをまともに見つめる三郎。見つめ返す事を躊躇い、あたしはオレンジジュースに目を向けた。
「なんで…、★に?」
三郎の視線がものっそい痛い。見つめられている間、啜り続けたオレンジジュースはもう氷だけになっていた。
「★ちゃん。」
雷蔵に呼ばれ、正面の雷蔵にゆっくりと視線を向ける。真剣な表情は、あたしの口から三郎にこの事実を言えと言っていた。さっきのように深呼吸をしてから、三郎と目を合わせる。稀にしか見せない、無防備な表情をした三郎はあたしをただ見つめていた。
「あのね、三郎。あたし、赤ちゃんできた。」
ゆっくりと瞳を開閉する三郎。
「★に…赤ちゃん?」
雷蔵とあたしはこくりと頷く。
「父親…って?」
そんなもん1人しか居ないだろうが。
「まさか…俺?」
さっきよりも強く頷く。すると三郎はへなへなと床に腰をおろしてしまった。道行く人たちがちらちらと私たちを見ている。
「さ、三郎?とりあえず座ろ?」
みんなの視線が痛いのでとにかく普通に座らせようと、三郎に手を伸ばす。するとあたしの手は三郎の両手にがっしりと掴まれた。
「★。結婚しよう。」
…はい?
地面にへたり込んだままだった三郎はあたしの手を握ったまま今までに無いくらい真剣な表情であたしを見ていた。
突然のプロポーズ。
どうしていいか分からず、あたしは雷蔵をみる。雷蔵はいつものような優しい笑顔に戻っていた。
「★ちゃん、答えは出てるでしょ?」
雷蔵の問い掛けに、こくりと頷く。
あたしは自然と、空いた手をお腹に当てた。
まだ形もわからない赤ちゃん、この人と一緒に幸せになろうか。
「この子と一緒に、幸せにしてね。」